「博物館の誕生―町田久成と東京帝室博物館」 (岩波新書)関 秀夫岩波書店このアイテムの詳細を見る |
町田にいさん、とは、私の愛する清蔵少年の長兄、町田久成です。
清蔵少年については、巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol1、vol2で、詳しくご紹介しまして、上の本もすでにご紹介済みです。
清蔵少年が、にいさんの略伝を書いていたことは、これを書いた当時から知っていたのですが、どこで見ればいいのやら、と思っていましたら、いつものお知り合いの方が、さがしあてておられました。
「町田久成略伝」で検索をかけると、Cinniの門田明氏の論文のPDF書類が出てまいりまして、この中に全文入っております。
えーと、関係ありませんが、アドビのCreative Suite 3 Design Premium CS3を導入しまして、Acrobat 8 Professionalになってから、PDF書類を開こうとするたびに、ソフトを選べと出てきてうるさいんですけど、いえ、なんか設定しとけばいいんじゃないんだろうか、と思いつつ、めんどうでほっておいたら、うるさいんですけど、Professionalなんだから、選ばなくても勝手に仕事してよ、とぐちってみたり。
ともかくです。「町田久成略伝」の中に、以下の文章があります。
「又特に音楽に興味深く、雅楽は宮中の大令人山井景順に師事し、横笛を学び、年二回は必ず宮中の令陣十数輩を招き、春の花秋の月と、隅田の清流に船遊び合奏会を開催、又月毎に文士墨客の書画会を開催するを、無上の楽とせり」
これを見まして私、あわてて、「博物館の誕生―町田久成と東京帝室博物館」を読み返してみたんです。
すっかり、忘れこけておりましたわ。
君が代誕生の謎で書きましたが、初代君が代メロディ誕生のきっかけと思われる、明治2年のエジンバラ公来日のとき、日本側接待責任者は、当時外務大丞だった町田久成だったんです!
久成が長兄、清蔵少年が末弟、なんですが、町田兄弟の家は、島津一門の名家で、家老になりえる家柄です。
兄弟の母親は、やはり名門の小松家から嫁いできております。
現在、大河ドラマに出てきます小松帯刀は、肝付家に生まれて、町田兄弟の母親の実家に養子に入った人です。
つまり、香道が好きで、大人しい人物としてドラマでは描かれております小松清猷の妹、小松千賀(千刀)さんと、帯刀は結婚して、小松家の養子になるんですが、清猷、千賀の姉(長女)・国子(波)が、町田兄弟のおかあさんです。漢学にすぐれ、とてつもなく教育熱心なおかあさんでしたが、久成が19歳の年に死んだそうで、末っ子の清蔵少年は、さっぱり漢学をやってなかったような次第みたいです。
えーと、町田家って、おかあさんが漢学熱心で、おとうさんが「漢学なんぞ国を滅ぼす」と、蘭学、国学熱心。なんといいますか………。
私、この町田かあさんの妹である千賀さんが、です。いまのドラマみたいにおとなしかったろうとは、ちょっと思えませんです。これからの話ですが、家付き娘ですし、はい。
またまた話がそれますが、いまちょっと検索をかけていて、おもしろいことを書いておられるサイトさんを見つけました。
神保町系オタオタ日記 町田久成失脚の真相
三村竹清の日記に、以下の記述がある、ということなんですが。
町田久成氏の不遇となりしはしめは 大久保公の死もさる事なから一ト年京ヲ遊ひし折 其頃京の名妓にておかよお千代の二人あり 其かよの方なりしやニ馴染ミ根引きして本妻とせんとしたる事あり 久成夫人は小松帯刀の女也 妾もありたるなれは妾とする分にはよかりしも この小松氏を出して京の妓女を納れんとしたるより上の人々も異見したるが聞入れざりし これ等が原因也と黒川氏話
町田久成は、エジンバラ公の歓迎行事を成功させるのですが、にもかかわらず、その直後に謹慎を命じられ、やがて外務省から出されて、いわば左遷されます。
これを「博物館の誕生」では、外務省の中で「エジンバラ公は皇太子ではなく、次男であるのに歓迎のしすぎだ」というような突き上げがあり、明治3年7月、久成を支持していた小松帯刀が病没したことによって、その直後に久成は左遷された、というように推測していたんですが、私も、この推測は正しいと思います。つけ加えますならば、その突き上げには、おそらく薩長の対立も影響しただろうことでしょうか。
三村竹清の日記に載る話のもとになったのは、おそらく、小松帯刀の養子のいきさつでしょう。
帯刀と千賀さんの間には、子供が出来ませんで、町田久成の弟の一人(おそらくは四男)、町田申四郎(英国留学生です)が、久光公のお声掛かりで小松家の養子となったんです。千賀さんにとっては、姉さんの息子、実の甥ですから、自然な話です。
ところが、その後になって、祇園の名妓で、帯刀さんの妾になっていたお琴さんが、実子の男子を生むんですね。それで、やがて、なんですが、申四郎くんとの養子縁組は解消となりました。
小松帯刀には、やはりお琴さんが産んだスミという女の子がいるんですが、少なくとも帯刀が生きているうちには、久成にいさんの嫁になりうるような年齢には、達していないはずです。お琴さんの女の子が、男の子より先に生まれていたのであれば、あるいは、養子に入る申四郎くんと結婚する予定ではなかったか、と思われますが、もしそうだとすれば、養子縁組解消と同時に婚約解消、ではあったと思います。
で、話が脱線しまくりなんですが、明治2年、エジンバラ公の来日時、ですね。
日本側接待の責任者としては、伊達宗城中納言(元宇和島藩主)と大原重実(公家)がお飾りで、実務を取り仕切ったのは、町田久成、中島錫胤(徳島藩士)、宮本小一(旧幕臣)です。となれば、君が代誕生の謎の以下の部分。
で、「接伴掛は英語に堪能な原田宗助、乙骨太郎乙」という「接伴掛」なのですが、リーズデイル卿は「その当時は、現在のように日本人は、西洋の週間に慣れていなかったので、パークス公使に対して準備不足のないように私に手伝って欲しいとの依頼があった。それで現地に駐在するため、浜御殿の部屋の一部が私のために準備され、そこに私は一ヶ月の間滞在したのである」と述べていまして、この接待準備、横浜での行事も含めて、イギリス側との連絡係だったのが、接伴掛の二人じゃなかったでしょうか。
と述べたんですが、町田久成が薩摩の原田宗助を起用し、宮本小一が同じく旧幕臣の乙骨太郎乙を起用した、と考えれば、ごく自然なことでしょう。
だとすれば、です。フェントンが「なにか国歌になりそうな歌はないか」と、原田宗助、乙骨太郎乙に聞き、二人が軍務局に問い合わせたところが「よきにはからえ」となって、「そこで協議した」とか、君が代で「評議一決した」とか言っているのは、当然、原田宗助、乙骨太郎乙の二人だけ、ということはなく、町田久成や宮本小一が入っているんじゃないんでしょうか。
町田にいさんは、イギリスでは、例えば陸軍の大規模演習だかを見物しただか参加しただかですし(すみません。資料見ないで書いてます。またいつものお方に𠮟られるかも……)、あるいはフランスでの万国博覧会関連でも、軍楽隊が活躍し、国歌が吹奏される場面をいろいろ見学したはずでして、当時の日本で、これほど軍楽や国歌に詳しかった人は、数少ない、はずです。
しかも、清蔵少年がいうには、にいちゃん音楽好きです。
えーと、そういえば小松帯刀も、青少年のころ、ですから、現在のドラマのころ、ですが、薩摩琵琶が好きでたまらず、一時も琵琶を手放さないほど懲りに凝っていたそうですが、肝付家の家令からたしなめられ、やめたそうです。
とすれば、この薩摩琵琶歌「君が代」決定の過程に、町田にいさんも一枚噛んでいるとみて、まちがいないんじゃないでしょうか。
そして、です。薩摩鼓笛隊、フェントン弟子入りの過程なんですが、エジンバラ公来日の少し後のことです。
吹奏楽発祥の地・記念碑について
上のサイトさんにあるんですが、フェントンとのつながりの経緯は以下です。
1869(明治2)年
5月、薩摩藩一等指図役肝付兼弘は、藩命により練兵法質問のため横浜英国歩兵隊に派遣され、11月まで大隊長ローマン中佐について勉強し、この間軍楽隊の行進を見、楽長フェントンに紹介され、指導を依頼した。同年9月、鹿児島から歩兵第2大隊が天皇の徴兵として上京し神田に駐在していたが、肝付はこの隊長に軍楽隊の伝習を進言した。すぐそれは受け入れられ、上京した藩兵のなかから20名を選んで9月横浜本牧北方の妙香寺に派遣し、フェントンに師事した。その後すぐ、フェントンの意見により、30余名に増員された。これが日本最初の吹奏楽の伝習であり、軍楽隊であった。同時に英国ベッソンへ楽器発注、隊員は妙香寺に宿泊して調練と 信号ラッパを習い、11月に入って読譜練習と鼓隊を習うようになった。
肝付兼弘って、名前からして、どうも、小松帯刀の実家の肝付氏の一族ではないかと思うんですね。(ご存じの方がおられましたらご教授のほどを)
となれば、原田宗助が肝付兼弘に相談しないはずがないですし、当然、君が代決定の過程には、肝付兼弘も噛んでいたはずです。
で、町田にいさんは、実際にエジンバラ公歓迎の実務責任者としてやってみて、儀礼音楽の貧弱さは、痛感したはずです。
イギリス側には、フェントン率いる駐日陸軍軍楽隊だけではなく、当然のことながら、エジンバラ公を乗せていたガラティア号の軍楽隊もいたでしょうし、どちらの軍楽隊が演奏したかわかりませんが、横浜のイギリス公使館では舞踏会が催され、兵部卿小松宮や参議大久保利通などが、招かれているんです。(町田にいさんは招かれなかったんでしょうかしらん。ご存じの方、おられませんか?)
つまり、です。君が代とともに、薩摩バンド結成の直接的動機もまた、エジンバラ公来日行事だったんじゃないでしょうか。
そして、町田にいさんは、育ちがよすぎる、というんでしょうか、政治力のないお方です。しかし、名門ですし、久光公や藩主忠義公へ、軍楽隊の必要性を訴えた人物としては、もっともふさわしいんじゃないでしょうか。
もちろん、肝付兼弘とともに、ですけれども。
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「黎明期の明治日本」の情報、ありがとうございます。読んでみます。
ただ、明治二年当時、明治政府高官の大多数が、国歌がなにやら、さっぱり認識がなかったと思うんですね。現在の日本人が忘れがちになるのですが、乃木希典の連隊旗と同じで、国歌というものは日本の伝統にないものですから、「国歌? なにそれ?」というだけのことでして。
どこかに書いたと思うのですが、フェントンが日本の国歌を演奏したのは、イギリス公使館としましては、横浜の歓迎式で、慣例通り両国の国歌を演奏するべきだと考えた結果で、しかし日本に国歌はないので、日本側に相談を持ちかけ、で、日本側に、国歌というものが理解できる人材としましては、町田久成と、もう一人、事実上外務省を取り仕切った外務省の寺島宗則がいます。文久遣欧使節、薩摩藩遣英使節団と2度の渡欧経験があり、フェントンが日本の国歌を必要としていることは十分に理解できますし、私はいまや、この当時攘夷派が力を持っていたとは思えないのですが、たとえ持っていたところで「国歌? なにそれ? 勝手にすれば?」という話だと思います。
それと、攘夷派が「天皇は神の子孫」といったことをやたらに気にする日本人がいるのですが、別に攘夷派ではなくとも「天皇は神の子孫」というのは、この当時の常識です。町田久成も平田国学の門人ですし、薩摩英国留学生は、薩摩藩の国学の大家、八田知紀の著書を携えて、欧州に渡ったんです。
http://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/6cece90dbbca1a960a539e8bfcb51566
薩摩藩留学生だけではなく、幕府オランダ留学生で、明六社に参加した津田真道も国学者です。天皇は神の子孫、といいます国学的概念と、外国人排斥は、決してイコールではないんです。
この当時、外務省の頭痛の種は、攘夷派よりもイギリスVSフランス外交合戦の構図で、私は儀礼でイギリスのいう通りにするくらいのことは、当然寺島が大久保を後ろ盾に、簡単にはからったと思います。
http://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/ea6d5eb4bba981c2b2de1d227bb923bf
ちょうど上の時期なのですが、攘夷感情への配慮から、モンブランの名前は大方の記録から消された可能性があり、非常に複雑ではあるのですが。
以下の内容がもう既出でしたら、すいません。
古本屋で
岡義武 著「黎明期の明治日本」未来社1964年
という本を見まして、中を見ましたら、
明治二年のエジンバラ公来日の前日談が書かれていました。
明治政府が実権を握った後でも、政府内の攘夷派がいろいろ騒動を起こしていたのですね!
その度に各国公使たちが明治政府に「なんとかしろ!」と詰め寄り、だんだんと攘夷派の活動も制限されてきた中で、エジンバラ公来日が決まり、公を明治帝と対等に扱うか私人として遇するかの議論が起こったそうです。
対等なんてもってのほかだ!という側の意見は
「外国の一王子と神の子孫である日本の帝室が対等の地位にあることをかりそめにも承認したように見られ得るような態度を陛下がとられることは、御門の御稜威を傷つけるものである」だそうです。(あ、日本に来る前に寄った清国は中華思想で面倒なんで、英国も私人扱いで了承したそうです)
他にこの時期、外国官知事伊達宗城が散々「もう疲れた、辞めたい」と言ってきたのが認められ辞職しましたが、これが英公使パークスには「攘夷派の巻き返しか?」という懸念材料になったりして、
こりゃ明治政府高官が国歌をどうしようなんて考える場合じゃなかったと考えられます。
でまぁエジンバラ公の船が日本に来たときに国歌吹奏があったかは書かれていませんで、その辺の参考文献に、
太政官日誌、第百号所蔵の英国王子参内略記と、
大日本外交文書、第二巻、第二冊、六四四の五一ページ所収の在神奈川県外務大少丞より外務省大少丞宛書面の付属書、と挙げています。
公が帰った後の町田久成左遷も書かれてはいません。この本自体が明治最初期の攘夷問題がテーマだからかも知れませんが、
公が来る前は「ヴィクトリア女王の第二王子として遇するか、ガラティア号艦長として扱うか」という議論は、岡氏の解釈では、無かったようです。
しかしパークスの側では、
「私的な来訪と扱われても仕方が無いが、国賓として遇されたらイギリスは日本の厚情を高く評価するだろう」
みたいに、遠回しには言っていたようです。
でも、私の説明も間違っている可能性があるので、是非読んでみてください。(^^;)
あと、ご存じかもしれませんが、中村理平著『洋楽導入者の軌跡-日本近代洋楽史序説-』刀水書房、平成5年(1993年)、ISBN 4-88708-146-4が、いま一番詳しい、明治の洋楽導入の研究書です。雅楽の人々と洋楽とのかかわりも、詳細に参考文献を入れて解説してくれていまして、私はこれを参考に、ここらあたりを書いたんですけど、やはり基本文献は見る必用があったんだなあ、と、いま思います。
碑の写真、ご厚意、ありがとうございます! 楽しみにお待ちします。
小山作之助は、「夏は来ぬ」の作曲者ですよね。最近、抒情歌の本を作るときに知りました。ぼくは学生時代、6年間吹奏楽をやってたんですが、不勉強だったなー。
吹奏楽、君が代両碑は人物が入っているかもしれないので、週末にでもあらためて碑銘をキッチリ撮ってお送りしますね。生麦の碑も、興味があるので近々訪問してみます。
最近になって、小山作之助の「国歌君が代の由来」を読んだんです。えらく高価な古書でして、ここらへんの図書館にはないんです。日本の吹奏楽の歴史を語るとき、この本は、欠かせない基本文献なんですけど。
薩摩バンドの生みの親、肝付兼弘と小山作之助の往復書簡が収録されていまして、さらに薩摩バンドの年少メンバーで、初代海軍軍楽長だった中村祐庸が加わって、「肝付兼弘は、旧藩で藩主の君側にありたる人、つまり藩主の側近だった人だから信用できる」と保証するんです。そうこうするうちに兼弘が死去し、どうも、当時通訳だった原田宗助に聞けばもっと詳しいことがわかる、という話になったようなんですが、原田宗助はすでに死去していました。
肝付兼弘は、細かなことはなにも覚えていなかったようで、ともかく明治2年、国歌が必要だというフェントンの話があって、これから吹奏楽を勉強する薩摩バンドのために、自分が君が代を選んだ、みたいなことを言い、エジンバラ公来日の話は、まったく忘れていたんです。
実際、兼弘はエジンバラ公の接待とはなんの関係もなかったですから、印象が薄かったんでしょう。でも、フェントンが国歌がいる、といえば、最初に兼弘に相談したことは頷けて、なんとも、だれが君が代を歌詞に選んだかは、もう誰ともいいがたい状態、なんですが。
で、兼弘が藩主の側近なら、町田にいさんとも親しかったはずなのですが、さっぱり、調べがつきません。
「国歌君が代の由来」、読んでみたいと思われましたら、「吹奏楽発祥の地」「君が代」両碑のデジタル画像とひきかえに、コピーをさしあげますけど、いかがですか?(笑) 生麦の碑も加わると、もっとうれしいですけど。
って、本当にお入り用でしたら、onaraonara@goo.jpまで、ご住所を。
本牧北方の妙香寺、実はぼく、いまそのすぐ近所に住んでいるんです。朝夕、いつもその鐘が聞こえてきます。
「吹奏楽発祥の地」「君が代」両碑も、もちろんみました。やはり町田久成とも関係があったんですね! うれしいです。ぼくも調べてみよう。
彼は幕末密航留学生の一人でしたね。
村橋久成、森有礼、長沢鼎、南貞助、湯地定基etc. 幕末明治の留学生の生き様はどれも面白く、興味がつきないなぁ。
これらを一冊にまとめたい思いです。
正名くんは、桐野より12歳年下っ!!!!!
と同じような感覚で?
なにしろ、横笛ですからねえ(笑)
1841年で町田にいさんより3歳年下です。
だからどうしたなんて、野暮なことはおっしゃらないでくださいまし~。
海軍おじさんに聞いてみますわ。
町田にいさん、政治的に見ると「ぽーっとしてないで!」と思わず声をかけたくなるんですが、それだからすごい趣味人だったのかもしれず。
町田一家は、ほんとうにおもしろいですよねえ。
久成サン、スキャンダルもあれば(事実は、違うかもしれませんが)、音楽もありで、なかなかに興味深い人ですね~♪
益々、ファンになりました。エディンバラ公が乗ってきた船がガラティアという名前なのも、いいですね~♪