郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

トゥオネラの舞姫

2007年01月29日 | 読書感想
舞姫(テレプシコーラ) 10 (10)

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それほど詳しいわけではないのですが、その昔、少女漫画のあけぼのの時代から、バレー漫画は定番であったようです。

【図書の家】少女漫画研究室

昭和20年代に『赤い靴』という題名が見えますのは、モイラ・シアラー主演、昭和23年製作の名作バレー映画『赤い靴』の影響でしょうか。
『赤い靴』は、子供の頃、テレビで見た覚えがあるんですが、あまりに子供で、内容をよく覚えていません。ただ、モイラ・シアラーのバレーが美しかったことは、とても印象に残っています。
バレーに憧れたのも、小学校にあがる前後のことで、バレー漫画はほとんど読んでおりません。
山岸涼子氏の『アラベスク 』の第2部が、最初に読んだバレー漫画でした。
この『アラベスク 』、第1部は『りぼん』連載で、第2部は『花とゆめ』連載。この二紙では、ダーゲットとしていた年齢が、多少ちがうのではないかと思うのです。第2部があまりに面白かったため、第1部はコミックスを買って読みました。
第1部の方は、少女漫画の王道をいくような設定ではないかと思うのです。
主人公のノンナ・ペトロワは、キエフでバレー教師をする母の元、優等生で母の期待を一身に受ける姉とともに、バレリーナを志しています。母に認められないため、自分に自信がもてず、それでもバレーへの思いが消せないノンナが、ある日、真夜中のバレー学校で練習をしていますと、突然、すばらしい男性パートナーが現れ、ノンナは夢のようにきれいに踊ることができたのです。闇で顔も見えなかった男性は、かき消すようにいなくなりますが、その翌日、その男性の正体がわかります。レニングラード・バレー団から地方視察に来ていたソ連若手有数の男性ダンサー、ユーリ・ミロノフだったのです。
そして、優秀だった姉ではなく、ノンナが、レニングラード・バレー学校へさそわれ……、そこからは、ライバルと戦い、挫折を繰り返しながらも、プリマへの道を歩むノンナが描かれるのですが、醜いアヒルの子が白鳥になってはばたく、という大筋は、まさに少女漫画の王道ですよね。
ただ、山岸涼子の場合、非常に丁寧にバレーそのものの魅力と、ノンナの心理を描いていて、引き込まれる感じでした。ソ連が舞台というのも、当時の日本では、プリマをめざすということ自体が特殊で、現実感がなさすぎたのでしょう。それによって、リアリティーのある物語に仕上がっていたんです。
第2部は、まだ学生でありながらすでにスターとなったノンナの、新たな成長の物語なのですが、心理描写はさらに細やかになり、絵も細密に美しくなってきまして、クラシック・バレーとはなんぞや? という本質的な問いかけにまで、お話は深まります。
お話の終盤近く、ノンナが到達したラ・シルフィードの忘我の舞い。これはもう、何年たっても忘れられない美しい画面でした。

で、数年前のことです。なにかの書評で、山岸涼子氏がまたバレー漫画を書かれていると知り、慌てて買いに走りました。それから半年に一冊、つい先日に発売されましたこの10巻で、『テレプシコーラ』第1部が完了です。
最初は、はっきりと気づかなかったのですが、基本的な設定は『アラベスク 』に似ているのです。
舞台は日本ですが、バレー教室を開いている母の元、姉の千花は天賦の才と身体能力、美貌と負けず嫌いの根性をあわせもち、母の期待を一身に背負っています。妹の六花は、身体能力に欠け、のんびりとして気が弱く、母の関心が自分にはないことに、寂しさを感じています。
『アラベスク 』においては、そういった親子姉妹の葛藤は、物語の冒頭でわずかに語られるだけなのですが、『テレプシコーラ』では、少女にとってはもっとも重いはずのその肉親の相克の心理が、ごく身近な日常的な場面を丁寧に描くことで、ずっと物語の底流に響いているのです。
私が、最初にそれに気づかなかったのは、最初の三巻の間、もっと衝撃的な登場人物にスポットが当てられていたからでした。
千花、六花の姉妹は、バレー教室を開いている母親の実家は裕福ですが、父親は地方公務員で、少々経済的には恵まれていますが、ごく普通の家庭の子供です。
ところが、六花の小学校に、非常に貧しく、容貌にも恵まれず、性格もどこかゆがんで、いじめの対象になる少女が転校してきます。その少女、空美に六花の関心が引きつけられたのは、彼女がバレーにおいては天才的な能力を持ち、しかもしっかりとした基礎を身につけていたからです。実は空美は、今は足を悪くして落魄れたかつてのプリマの姪だったのですが、この落魄れたプリマが、テネシー・ウィリアムズの戯曲『欲望という名の電車』の主人公ブランチのパロディのような人物なのです。いえ、元プリマはかわいがっている猫にブランチと名付けていますから、あきらかにパロディなのでしょう。
その落魄の描き方も壮絶なのですが、元プリマの弟、空美の父親のだめ男ぶりが強烈で、空美は児童ポルノ写真のモデルまでやらされる、というすさまじさですから、これはもう、こちらの方に気をとられてしまいます。
とはいえ、コンクールなどの山場は実に華やかですし、読み進むにつれ、六花は身体能力には恵まれないものの、どうやら別な才能、別な才能とはコリオグラファー(振り付け師)なのですが、があるのではないか、という展開が見えてきます。すべてに恵まれていたはずの千花が、次々に災難に見舞われる一方で、六花は少しづつ弱気を克服して、成長していきます。
年齢を経て、より緻密に、よりしっかりとした心理描写を、それも大上段にふりかぶらず、さりげなく重ねていく山岸さんの腕には、ただただ脱帽です。そして、ほんとうにバレーがお好きなのでしょう。実に美しい絵によって、細かなバレー技法の解説がけっして邪魔に成らず、むしろ確かなリアリティーと臨場感をそえてくれます。
途中から、大筋は読めてきたのですが、ぐいぐいと引き込まれ、半年に一度の新刊を、いつも待ち望んでいました。
母親に期待される姉と、期待されない妹。よくある話ですよね。しかし、よくある話であるだけに、作者が思春期にまだ近い時期には、それを綿密に表現することが、むつかしいのかもしれません。
今回は、期待される姉の側の苦悩をも、見事に描ききっておられました。
そして、第1部の最後は……、六花が自らの振り付けで舞う、トゥオネラの白鳥です。「あの世とこの世の境を流れる河トゥオネラ」。
ノンナの到達した舞いも、「妖精が生身の人間であってはならない」という言葉で言い尽くされていますように、観客を魅了してやまない舞踏の魔力は、結局、彼岸に心を遊ばせ、生身の人間ではなくなる忘我の境地にあるのだと告げていたのですが、いささか抽象的で、観念に流れていた感がありました。
しかし六花は、生身の女の子として日常を生き、傷つきながら衝撃を乗り越え、涙とともに得た表現欲で、トゥオネラの白鳥を舞うのです。
第二部で、六花は三巻で消えてしまった空美と出会うんでしょうね。
第二部での再会が、待ちきれない気持ちです。


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2 コメント

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Unknown (匿名)
2021-12-21 14:24:05
何故頑なに「バレー」なのでしょうか
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外来語のカタカナ表記 (郎女)
2021-12-22 10:10:48
 いらっしゃいませ。ようこそ。
そういや昔、某掲示板で、バレエ! と叫ぶ声を読んだように、薄ぼんやりと覚えています。
 私、基本、外来語のカタカナ表記につきましては、どうでもいい人なんです。ごめんなさい。明治、大正、昭和、平成と、変遷を重ねてきていますし。
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