すみません。シリーズの途中で、ちょっと寄り道を。
19世紀のイギリスが舞台になっているというので、かなり以前に買って、一度は見ていたDVDです。
最初に見たときの印象は、それほど強いものではなかったんです。
地味で、品はいいけれども、わりに通俗的なメロドラマ、といった感じでして。
この映画は、イギリスを舞台に、現代と19世紀と、百数十年の時を隔てた2組の恋人たちを、平行して描いています。
イギリス・大英博物館の研究施設で、19世紀イギリスの桂冠詩人、ランドルフ・ヘンリー・アッシュを研究しているアメリカ人の青年が、ふとしたことから、アッシュ直筆の女性宛手紙の下書きを発見します。調べたところ、どうもその手紙は、女流詩人のクリスタベル・ラモットに宛てたものらしく、青年は夢中になります。アッシュには、妻以外の女性との浮いた話はまったく伝わっておらず、もし、手紙が本当に出されたものであり、二人の間に交流があったとすれば、英文学史上の大発見なのです。
青年は、クリスタベル・ラモットの研究家である若い女性教授を訪ね、二人はともに、19世紀の恋人たちの足跡を追いかけつつ、自分たちも恋に陥っていきます。
こういう筋立ては好みのはずですし、役者さんも悪くないですし、19世紀の風俗もけっこう忠実に描かれています。で、あるにもかかわらず、なぜ印象が薄かったか、といいますと、19世紀の部分があんまりにも絵画的で、よくある名画調で、一方、現代の二人はあまりにも普通の現代人すぎでして、なるほど、二つの恋は時代に応じて、それなりによく描かれているのですが、なぜ現代の二人が、過去の二人の足跡を夢中になって追いかけるのか、その熱情が伝わってこないんです。あー、きれいな恋よね、というだけで終わってしまう、というんでしょうか。
とはいうものの、なにかひっかかるものがありまして、今回、もう一度、見直してみました。で、思ったんです。これは、原作の方がおもしろいのではないだろうか、と。
読んでびっくり、です。よくもまあ、これを映画化できたものだと。
久しぶりに読んだすばらしい翻訳小説でした。といいますか、文学が力を失いました現代において、映像ではできないこと、小説ならではの試みが存分につめこまれていまして、著者に脱帽です。
これほど懲りに凝った作品を、です。ごく一般向けの映画にしようと思えば、古典的なロマンスにするしかなかったのだと、それも納得です。ただ……、まったくもって一般的ではない私の好みからしますと、もっと原作に忠実に登場人物を設定し、作中の叙事詩をも映像化し、かぶせて、登場人物の心理を掘り下げた長編が見たい!のですが、いまどき、そんなことにお金をかけてくれる映画会社は、ないんでしょう、おそらく。
クリスタベル・ラモット役のジェニファー・エイル(エール)は、BBCドラマの「高慢と偏見」 [DVD]で、主人公のエリザベスを演じた役者さんです。演技達者で、19世紀の雰囲気にぴったりではあるのですが、自己主張の強い、時代の枠をはみだそうとする女の強烈な個性や、なんというんでしょうか、いかにも冷ややかな隔絶した美しさが、容姿にないんです。オースティンの作品や、あるいはジェイン・エアならばお似合いなのですが。
第一、原作におけるクリスタベル・ラモットの髪は、白に近い金髪、つまりプラチナ・ブロンドでして、それが、物語のキー・ポイントになっています。一言でいって、クリスタベルは塔に閉じこめられたラプンツェルであり、ラプンツェルを閉じこめる魔女でもありました。
私のイメージでは、ニコール・キッドマンです。見てないんですが、「めぐりあう時間たち」 [DVD]で、ヴァージニア・ウルフを演じたのですから、十分にこなせただろうに、と思います。
ランドルフ・アッシュは、もうこれは好みの問題なんでしょうけれども、ルパート・エヴェレット。ジェニファー・エイルは、アッシュの妻、エレンだとぴったりだったんですが。映画では、あまり強いイメージがなかったエレンですが、原作では、陰の主役です。クリスタベルを裏返してみればエレン、という感じで。
現代の恋人たち、アッシュを研究する学者の卵、ローランド・ミッチェルは、原作ではアメリカ人ではありませんで、イギリス人。これはもう、ぜひ、コリン・ファース。クリスタベルの研究家、モード・ベイリーは、グウィネス・パルトロウでも悪くはないんですが、見た目の氷の姫君然とした冷たい雰囲気がいま一つ。ニコール・キッドマンの一人二役希望、です。
ランドルフ・アッシュとクリスタベル・ラモット。19世紀の二人の詩人は、架空の人物です。
訳者あとがきによれば、アッシュのモデルはロバート・ブラウニング。うーん。バーティ・ミットフォードの友人ですわね(リーズデイル卿とジャパニズム vol5 恋の波紋参照)。
クリスタベルの方は、クリスティーナ・ロセッティ(ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの妹)、エミリー・ディキンスン、そしてブラウニング夫人のエリザベス・バレットが、モデルとして考えられるそうです。
物語の焦点となる二人の往復書簡はもとより、二人の恋をぬきには成り立たなかった重要な長編詩も、全部、著者が作り上げたものでして、そればかりか、エレン・アッシュをはじめ、二人の周辺の人物の日記や書簡が次々に引用されるのですが、これも全部、創作です。驚嘆しますことには、ちゃんとヴィクトリア朝の文体なのだそうです。
さらに、現代の登場人物は、主人公の男女二人をはじめ、その多くが、アッシュまたはクリスタベルの研究者です。それぞれに個性的な研究者たちの、詳細な脚註付きの論文が引用され、いえ、実はこの脚註、あまりにも専門的にすぎまして、全部は訳出されてないそうなのですが、すべてが創作なのです。アッシュに関する創作論文に以下の脚註がありまして、もう、目眩がしました。
「(アッシュの葬式の様子について)スウィンバーンがセオドール・ワッツ・ダントンにあてた手紙の中でそう記録している。A.C.スウィンバーン『書簡集』五巻 二八〇頁。スウィンバーンの『老いたる世界樹と教会墓地のイチイ』なる詩はR.H.アッシュの死去を悼む思いに誘発されたものと言われている」
「わあっ!!! アッシュって架空の人物……、だよねえ???」と、思わず叫びたくなるではありませんか。
アルジャーノン・チャールズ・スウィンバーンはもちろん実在の詩人で、バーティ・ミットフォードの従兄弟です(リーズデイル卿とジャパニズム VOL1ほか参照)。ワッツ=ダントンも、もちろん実在しますし、アルジー(スウィンバーンを私が勝手にこう呼んでいます)の友人だったことも事実です。
アルジーは、クリスタベルの長編叙事詩『妖女メリュジーヌ』の評価者としても登場します。「控えめながらも、たくましい蛇の物語で、女性の手になる作品とは思えぬほどの力強さと毒気をはらんでいるが、それは迫力あるストーリーの展開によりも、むしろ想像力を象徴するコールリッジの蛇のように、己れの尾を己れ自身の口にくわえたイメージによるところが大きい」と評しているとされていまして、伝説を素材にしたクリスタベルのこの作品は、一度は忘れ去られながら、1960年代以降のフェミニズム文学興隆の流れの中で見直された、という設定ですので、後期ラファエル前派の仲間だった唯美派詩人のアルジー(リーズデイル卿とジャパニズム vol10 オックスフォード参照)が評価していた、というのは、いかにもありそうなことなのです。
アルジーだけではありません。エドマンド・ゴス(リーズデイル卿とジャパニズム vol9 赤毛のいとこ参照)も評論文に出てきますし、ウィリアム・ロセッティも出てきます。ウィリアムは、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの弟でして、英仏世紀末芸術と日本人に出てきました薩摩密航イギリス留学生の吉田清成と畠山義成がロセッティとお茶したらしい話は、このウィリアムの書簡の中に出てきます。アッシュとクリスタベルは、バーティ・ミットフォードと同世代で、二人が生きたイギリスには、長州や薩摩の密航留学生たちがいて、見事に、幕末から明治初年のお話なのです。
そういえば、映画でもさわりだけは描かれていますが、19世紀の恋人たちの関係に、降霊会(まあー、その、コックリさんの世界です)が重要な役割を果たしていまして、その関係で、スウェーデンボルグの名も出てきます。吉田清成や森有礼が傾倒していましたハリス教団は、このスウェーデンボルグの流れをくむもので、「江戸は極楽である」を書いたときには、よく知らなかったのですが、19世紀の英米で流行った降霊会も、同じ流れの中にあるものだったんです。「ねじの回転 」の著者、ヘンリー・ジェイムスの父親が、スウェーデンボルグを信奉する宗教哲学者だったりします。
非常におおざっぱな感触でしかないんですが、ラファエル前派や唯美主義と、霊体験を重んじるスウェーデンボルグの神秘主義は、ごく近い場所にあり、平田国学が霊界を重んじていたことを考えますと、案外、幕末日本の文化は、19世紀欧米のこういった流れになじみやすいものであった、という気がします。
ところで、クリスタベルの名は、サミュエル・テイラー・コールリッジの「クリスタベル」を、モード・ベイリーの名は、クリスティーナ・ロセッティの「モード」を連想させますし、私が思いつくのはその程度でしかないのですが(といいますか、コールリッジが登場しまして、私ははじめて、連想を期待した名だということに気づいたのですが)、この小説は、例え英語圏の住人であっても、よほどの文学オタクでなければ、十二分には鑑賞しきれないのではないでしょうか。
英文学通が読めば、そういう深い、といいますかディープな楽しみ方ができる小説なのですが、とはいうものの、この小説のすばらしさは、例え私のようにろくに英文学を知らなくても、19世紀のロマンスを掘り起こし、その時代に生きた人々を生々しく甦らせる、という、架空の探検に参加できるところにあります。これぞ、小説を読むことの醍醐味、です。
いい作品にめぐりあいました。
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最初に見たときの印象は、それほど強いものではなかったんです。
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この映画は、イギリスを舞台に、現代と19世紀と、百数十年の時を隔てた2組の恋人たちを、平行して描いています。
イギリス・大英博物館の研究施設で、19世紀イギリスの桂冠詩人、ランドルフ・ヘンリー・アッシュを研究しているアメリカ人の青年が、ふとしたことから、アッシュ直筆の女性宛手紙の下書きを発見します。調べたところ、どうもその手紙は、女流詩人のクリスタベル・ラモットに宛てたものらしく、青年は夢中になります。アッシュには、妻以外の女性との浮いた話はまったく伝わっておらず、もし、手紙が本当に出されたものであり、二人の間に交流があったとすれば、英文学史上の大発見なのです。
青年は、クリスタベル・ラモットの研究家である若い女性教授を訪ね、二人はともに、19世紀の恋人たちの足跡を追いかけつつ、自分たちも恋に陥っていきます。
こういう筋立ては好みのはずですし、役者さんも悪くないですし、19世紀の風俗もけっこう忠実に描かれています。で、あるにもかかわらず、なぜ印象が薄かったか、といいますと、19世紀の部分があんまりにも絵画的で、よくある名画調で、一方、現代の二人はあまりにも普通の現代人すぎでして、なるほど、二つの恋は時代に応じて、それなりによく描かれているのですが、なぜ現代の二人が、過去の二人の足跡を夢中になって追いかけるのか、その熱情が伝わってこないんです。あー、きれいな恋よね、というだけで終わってしまう、というんでしょうか。
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クリスタベル・ラモット役のジェニファー・エイル(エール)は、BBCドラマの「高慢と偏見」 [DVD]で、主人公のエリザベスを演じた役者さんです。演技達者で、19世紀の雰囲気にぴったりではあるのですが、自己主張の強い、時代の枠をはみだそうとする女の強烈な個性や、なんというんでしょうか、いかにも冷ややかな隔絶した美しさが、容姿にないんです。オースティンの作品や、あるいはジェイン・エアならばお似合いなのですが。
第一、原作におけるクリスタベル・ラモットの髪は、白に近い金髪、つまりプラチナ・ブロンドでして、それが、物語のキー・ポイントになっています。一言でいって、クリスタベルは塔に閉じこめられたラプンツェルであり、ラプンツェルを閉じこめる魔女でもありました。
私のイメージでは、ニコール・キッドマンです。見てないんですが、「めぐりあう時間たち」 [DVD]で、ヴァージニア・ウルフを演じたのですから、十分にこなせただろうに、と思います。
ランドルフ・アッシュは、もうこれは好みの問題なんでしょうけれども、ルパート・エヴェレット。ジェニファー・エイルは、アッシュの妻、エレンだとぴったりだったんですが。映画では、あまり強いイメージがなかったエレンですが、原作では、陰の主役です。クリスタベルを裏返してみればエレン、という感じで。
現代の恋人たち、アッシュを研究する学者の卵、ローランド・ミッチェルは、原作ではアメリカ人ではありませんで、イギリス人。これはもう、ぜひ、コリン・ファース。クリスタベルの研究家、モード・ベイリーは、グウィネス・パルトロウでも悪くはないんですが、見た目の氷の姫君然とした冷たい雰囲気がいま一つ。ニコール・キッドマンの一人二役希望、です。
ランドルフ・アッシュとクリスタベル・ラモット。19世紀の二人の詩人は、架空の人物です。
訳者あとがきによれば、アッシュのモデルはロバート・ブラウニング。うーん。バーティ・ミットフォードの友人ですわね(リーズデイル卿とジャパニズム vol5 恋の波紋参照)。
クリスタベルの方は、クリスティーナ・ロセッティ(ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの妹)、エミリー・ディキンスン、そしてブラウニング夫人のエリザベス・バレットが、モデルとして考えられるそうです。
物語の焦点となる二人の往復書簡はもとより、二人の恋をぬきには成り立たなかった重要な長編詩も、全部、著者が作り上げたものでして、そればかりか、エレン・アッシュをはじめ、二人の周辺の人物の日記や書簡が次々に引用されるのですが、これも全部、創作です。驚嘆しますことには、ちゃんとヴィクトリア朝の文体なのだそうです。
さらに、現代の登場人物は、主人公の男女二人をはじめ、その多くが、アッシュまたはクリスタベルの研究者です。それぞれに個性的な研究者たちの、詳細な脚註付きの論文が引用され、いえ、実はこの脚註、あまりにも専門的にすぎまして、全部は訳出されてないそうなのですが、すべてが創作なのです。アッシュに関する創作論文に以下の脚註がありまして、もう、目眩がしました。
「(アッシュの葬式の様子について)スウィンバーンがセオドール・ワッツ・ダントンにあてた手紙の中でそう記録している。A.C.スウィンバーン『書簡集』五巻 二八〇頁。スウィンバーンの『老いたる世界樹と教会墓地のイチイ』なる詩はR.H.アッシュの死去を悼む思いに誘発されたものと言われている」
「わあっ!!! アッシュって架空の人物……、だよねえ???」と、思わず叫びたくなるではありませんか。
アルジャーノン・チャールズ・スウィンバーンはもちろん実在の詩人で、バーティ・ミットフォードの従兄弟です(リーズデイル卿とジャパニズム VOL1ほか参照)。ワッツ=ダントンも、もちろん実在しますし、アルジー(スウィンバーンを私が勝手にこう呼んでいます)の友人だったことも事実です。
アルジーは、クリスタベルの長編叙事詩『妖女メリュジーヌ』の評価者としても登場します。「控えめながらも、たくましい蛇の物語で、女性の手になる作品とは思えぬほどの力強さと毒気をはらんでいるが、それは迫力あるストーリーの展開によりも、むしろ想像力を象徴するコールリッジの蛇のように、己れの尾を己れ自身の口にくわえたイメージによるところが大きい」と評しているとされていまして、伝説を素材にしたクリスタベルのこの作品は、一度は忘れ去られながら、1960年代以降のフェミニズム文学興隆の流れの中で見直された、という設定ですので、後期ラファエル前派の仲間だった唯美派詩人のアルジー(リーズデイル卿とジャパニズム vol10 オックスフォード参照)が評価していた、というのは、いかにもありそうなことなのです。
アルジーだけではありません。エドマンド・ゴス(リーズデイル卿とジャパニズム vol9 赤毛のいとこ参照)も評論文に出てきますし、ウィリアム・ロセッティも出てきます。ウィリアムは、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの弟でして、英仏世紀末芸術と日本人に出てきました薩摩密航イギリス留学生の吉田清成と畠山義成がロセッティとお茶したらしい話は、このウィリアムの書簡の中に出てきます。アッシュとクリスタベルは、バーティ・ミットフォードと同世代で、二人が生きたイギリスには、長州や薩摩の密航留学生たちがいて、見事に、幕末から明治初年のお話なのです。
そういえば、映画でもさわりだけは描かれていますが、19世紀の恋人たちの関係に、降霊会(まあー、その、コックリさんの世界です)が重要な役割を果たしていまして、その関係で、スウェーデンボルグの名も出てきます。吉田清成や森有礼が傾倒していましたハリス教団は、このスウェーデンボルグの流れをくむもので、「江戸は極楽である」を書いたときには、よく知らなかったのですが、19世紀の英米で流行った降霊会も、同じ流れの中にあるものだったんです。「ねじの回転 」の著者、ヘンリー・ジェイムスの父親が、スウェーデンボルグを信奉する宗教哲学者だったりします。
非常におおざっぱな感触でしかないんですが、ラファエル前派や唯美主義と、霊体験を重んじるスウェーデンボルグの神秘主義は、ごく近い場所にあり、平田国学が霊界を重んじていたことを考えますと、案外、幕末日本の文化は、19世紀欧米のこういった流れになじみやすいものであった、という気がします。
ところで、クリスタベルの名は、サミュエル・テイラー・コールリッジの「クリスタベル」を、モード・ベイリーの名は、クリスティーナ・ロセッティの「モード」を連想させますし、私が思いつくのはその程度でしかないのですが(といいますか、コールリッジが登場しまして、私ははじめて、連想を期待した名だということに気づいたのですが)、この小説は、例え英語圏の住人であっても、よほどの文学オタクでなければ、十二分には鑑賞しきれないのではないでしょうか。
英文学通が読めば、そういう深い、といいますかディープな楽しみ方ができる小説なのですが、とはいうものの、この小説のすばらしさは、例え私のようにろくに英文学を知らなくても、19世紀のロマンスを掘り起こし、その時代に生きた人々を生々しく甦らせる、という、架空の探検に参加できるところにあります。これぞ、小説を読むことの醍醐味、です。
いい作品にめぐりあいました。
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あんな稚拙で感情的な感想にTBしていただいて、なんだか申し訳ない・・・。
わたしは原作は読んでいないのですが、映画とは別物なのでしょうか?
雰囲気と大まかなストーリーだけ再現した感じなのかな?
たまに、それを原作にする意味があったのかという作品ってありますよね。
>ランドルフ・アッシュとクリスタベル・ラモット。19世紀の二人の詩人は、架空の人物です。
えっ、そうなんですかっ!?
またしても驚きの事実が・・・。
いろいろ勉強になります。
>雰囲気と大まかなストーリーだけ再現した感じなのかな?
うわっ! するどいお言葉です。おっしゃる通りだと思います。
「あの二人、身勝手なんじゃないの」というご感想も、とても鋭いんです、きっと。だって映画の方は、きれいに描こうとするあまりに、登場人物の背景、心理について、あまりにも説明不足なんです。それがもっとも大きいのがアッシュの妻、エレンでして、「子供がいない」ことについての夫婦の会話の場面で、新婚旅行の夜の無惨な場面がフラッシュバックしてほしいところなんですが、「異常」に見える映像は、いっさいカット。恋に身を焼く夫と耐える妻、という、一見、とてもわかりやすい図式におさめてしまっている、とでもいうんでしょうか。
降霊会の場面もきれいにおさめすぎで、友(クリスタベルにとっては、恋人ではなかったと思います)を失ったクリスタベルの悲嘆、絶望が、さっぱり伝わってこなかったり。
私は、バーティとアルジーを調べた関係で、19世紀イギリスの詩人について、一応、おおざっぱには知っていたものですから、映画を見た時点で、アッシュとクリスタベルが架空の人物だとまではわかったんですが、モデルが誰やらさっぱり見当がつかず、それもあって、原作小説を読んでみたんです。読んでよかった、です。
おつきあいくださって、ありがとうございました。