郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

死人のおっかけの国語漢文

2005年12月13日 | 読書感想
昨日の続きです。現在の日本の国語教育について、少々。
といっても、ろくに知らないわけでして、下の本を読んでから、と思っていたのですが、昨日、言い足らなかった部分がありましたし、中学生になった姪が、国語の成績が悪いというので、相談にのったところでしたので。

国語教科書の思想

以下、野口武彦氏の解説の主要部分です。

 この一冊が告発するのは、国語科でひっそりと進行している危機である。「戦後の学校空間で行われる国語教育は、詰まるところ道徳教育なのである」というのが著者の基本的な現状批判である。道徳が悪いのではない。特定の徳目を国語が唯一無二の「正しい読み」として教え込むことが危なっかしいのだ。
 今や息の根を止められた「ゆとり教育」を「いつも『正解』ばかり答えていたような頭でっかちの官僚が作った、歴史に残る大チョンボ」と断言する著者は、その凋落(ちょうらく)とワンセットで騒がれはじめた「読解力低下」というフレーズの独り歩きにも警告を発している。
 日本の十五歳の読解力が低下しているという主張の根拠になったのは、PISA(生徒の国際学習到達度調査)のテスト結果である。ところが、そのPISAの試験が求める読解力とは、「批評精神」であり、「他人とは違った意見を言うことができる個性」であって、文章の暗唱とか漢文の素読とか、教育方針を復古的にすれば得点が上がるものではないという指摘は大切だろう。

 この最後の部分なんですが、「批評精神」や「他人とは違った意見を言うことができる個性」と、「文章の暗唱とか漢文の素読とか」と、ほんとうに関係がないのでしょうか?
 なんの知識もない子供が、批評ができたり、他人とは違った意見を言えたり、するわけがありません。
 たしかに、学校教育において教師が、一定のパターンにあてはまる意見のみを求める姿勢は問題かもしれません。しかしそれは、ある程度は仕方のないことです。
 例えば、「戦争はよくない」というだけの感想は、思考停止を産むわけなのですが、そこから先、ではなぜよくないのか、いや、戦争とはそもそもなになのだろうか、と思考を進めていく部分まで、すべて学校教育に求めるわけにはいかないでしょう。
 学校教育では当然、「人を殺すのは悪い」となります。「人を斬るのは悪い。でも新撰組が好き。なぜかといえば……」というように、思考停止が解かれる鍵は、学校教育ではありません。
 しかし、その鍵を与えてくれる世の中の媒体が、これまた思考停止のワンパターンであったり、情調をかきたてるものばかりであったならば、「単純に善悪を決めつけるだけでいいのか」という、根本的な鍵にまでいきつけないで終わってしまいます。
 そして、ワンパターンではない思考材料に触れるには、基礎的な国語力が必要になってくるのです。

 生徒の側で、教師の求めるパターンを察知し、それにうまく応じているだけなのであれば、かならずしも問題ではないでしょう。応じる能力があるということは、基礎的な国語力がある、ということですから。
 なぜ中高生になっても、教師が、あるいは世の中がおしつけるパターンを疑わないか、あるいは、求められるパターンがなんであるかを洞察できない子が、増えたのでしょうか。
 基礎ができていなければ知的欲求がわかず、知識の仕入れようがないではありませんか。知識は、言葉で成り立っているものなのですから。
 世の中には多様な価値観があるのだと知り、知るだけではなく、押しつけられるものに正面から反論できるだけの論理性を身につけるには、その前提として基礎学力が必要です。
「文章の暗唱とか漢文の素読とか」をこなさなければ、「批評精神」やら「他人とは違った意見」なぞ、生まれる確率は少ないのです。
 気分や好き嫌いだけでは、「批評」にも「意見」にもなりません。

 戦後の国語教育を受けた私が、心底悔しく思ったのは、幕末にはまったときでした。これは、知り合いの長州好きの女性も、同じことを言っていましたが、「なんで小学校のころから漢文をたたきこんでくれなかったの! みみず文字の読み方も教えといて欲しかった!」と嘆きあったものです。
おたがい、すでに成人して仕事をかかえている身です。学者のように勉強するだけの余裕はなかったんです。せめて、大学生のころだったらよかったんですけどね。
それでも、「死人のおっかけ」と自嘲するほど入れ込んでいた男たちの書き残したものが、まず現物は読めず、活字になっていても漢文のままではいまひとつよく意味がわからない、引用している漢籍がなになのかわからない、では、悲しくなりますよね。ほんの百数十年前の日本語なのです。
ああ……、下手すると、全集の書き下し文や注釈が、まちがっていたりするんですよ。戦後の『松陰全集』で、私はまちがいを見つけましたもの。戦前の漢文の全集で意味がわからなかったものですから、戦後の書き下し全集を持っている友人に、その部分のコピーを送ってもらいましたところ、それでも意味がわからず、図書館に通って漢籍をあさって、ほんの短文にものすごい時間をかけて、ようやく全集の書き下しと注釈がまちがっているとわかって、意味がとれたという、苦い経験でした。
しかしまあ、おかげで私は、当時の人々の学識といいますか、知識量のすさまじさを、実感することができました。

で、例えばこの幕末の歴史です。なにをどう評価するか、世の中には、さまざまな意見があるわけですよね。それぞれにちがう専門家の意見を考察し、この人が鋭い見方をしているのではないのか、これはちょっとちがうだろう、結局私はこう考える、といったぐあいに自分の意見を持つためには、少しは原資料を……、いえ、少しではなくたくさんだったらもっといいんですが、読んでみることができるならば、それにこしたことはないわけです。物語や思想から得た思い込みではなく、実際はどうなのかと、考えてみることができますから。
 あるいは、歴史は不適切な例であったかもしれません。時事問題でもいいのですが、さまざまな角度から物事を見てみるためには、基礎知識が必要でしょう。

マザー・タングは思考の道具です。基礎をきっちりたたき込まれていなければ、なにごともはじまりません。
現代日本語、それも情緒的ではなく思考にふさわしい日本語の基礎には、漢文の書き下し文があるわけでして、漢文の素読が、意味がないわけはないのです。

しかし、それにしましても……、父が難病でして、月に一度大学病院につれていくのですが、担当の先生は助教授でおられて、とはいえ、お子様が小さいようですし、それほどお年の方ではないのですが、世間話のついでに盛んにこぼされるのです。「なぜ最近は、こんなに勉強していない学生が医学部に入ってくるのか」と。数学、英語がまるでできないので、高校程度から教えないとだめだそうでして。

ああ、書いているうちに、姪へのいいアドバイスを思いつきました。
姪は、本が嫌いなわけではないのです。物語は好きなのですが、ただどうも、説明文とか批評文とかが苦手のようでして、そういうものを読んだら、と言ってはみたのですが、嫌いなものをただ読め、といいましてもねえ。
文章を丸写しすることを勧めてみたら、いいかもしれませんね。
言い古されたことですが、これが案外、文章の組み立てを知るいい勉強になるのですよね。

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2 コメント

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そういえば (郎女)
2005-12-20 02:38:55
なんで書き順を覚える必要があるのか、と、小学生のときに首をかしげたことを思い出しました! でも、当時はきびしい先生が多くて、たたきこまれつつ、書き順が必要な理由も、ちゃんと説明してもらったような記憶があります。



私も詰め込み教育は苦手で、おまけに暗記も苦手で、中学校からはまったく勉強しない子でもあったんですが、小学校の基礎と読書好きゆえか、国語は勉強しないでもできました。

姪は暗記は得意で、漢字の書き取りとか、勉強すればできるものはできるんです。ところが読解がだめで、どうすればいい? と聞かれても、答えるのがむつかしく、つい国語教育を考えてしまった次第です。

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嗚呼、またまた同感! (へいたらう)
2005-12-19 11:16:07
私は子供の頃から、書き順という物をまったく覚える気がありませんでした。

私にとって書き順とは、小学校一年のときから、「どこを通っても目的地に行けばいいわけだろう!」と思っていたものでした。



でも、今、書き順をきちんと覚えていたら、古文がよめるんですよね。

今となっては、子供の時に、先生に「文字とはルールである」ということをしっかりと納得させて欲しかったです。



私自身、詰め込み教育にはまるでだめな子供だったんですよ・・・。
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