郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

坂本龍馬と中岡慎太郎

2007年02月16日 | 幕末土佐
『流離譚』

講談社

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再び、安岡章太郎氏の『流離譚』です。英国へ渡った土佐郷士の流離 で、少しだけ触れました、坂本龍馬と、そして中岡慎太郎のお話。

自由というものは、おそらく寂しいものなんです。藩の束縛から逃れ、自由に才能を発揮し、しかし、規格外れの組織を維持していくには、はったりも必要ですし、力のなさに、侘びしさを噛みしめることも多いでしょう。安岡氏の描く龍馬像は、龍馬が得た自由の代償を描いて、龍馬の息づかいを感じさせてくれるほどに、迫真です。
だからこそ、なぜ龍馬が、最後の最後に、倒幕から遠い位置に軸足を移したのか、その解説も説得力を持つのです。
ちなみに安岡氏は、龍馬暗殺薩摩藩説、後藤象二郎説は、筋が通らないこととされていますし、「大政奉還の建白案なるものは結局、徳川家の温存策」であるという、中岡慎太郎の認識の方を、基本的には、現実に即したものと見られているようです。
徳川家を温存する、ということは、けっして、新しい政体の創造にはつながりません。これまでの龍馬の信念からは遠いはずのその建白案に、なぜ龍馬は肩入れしたのか。望郷の念が‥‥‥、といいますか、なんの後ろ盾もなく、できることの限界を感じた龍馬が、山内容堂との折り合いをつけて土佐藩に尽くすためには、そうするしかなかったのではないかと、安岡氏はおっしゃるのです。
龍馬が死の直前のころに書きつけたのではないか、といわれている「新政府綱領8策」の後書きに、「○○○自ら盟主となり、此を以て朝廷に奉り、始て天下万民に公布云々」とあり、普通、この「○○○」に慶喜公を当てはめる論が多いのですが、三宅雪嶺のみが、これを容堂公としているんだそうです。安岡氏も、「なるほど○○○が慶喜公ならば、別に伏せ字にする必要はなさそうだ」と、この案に引かれる様子を、示しておられます。

一方で、安岡氏は、理論家としての中岡慎太郎を評価しつつ、しかし、陸援隊にどれだけのことができたのか、として、維新後にもし慎太郎が生き残っていたにしても、薩長から重要な役割を与えられることはなかっただろう、としているんです。
それは「たら」話で、私も、あるいはそうであった可能性もあるだろう、とは思うのですが、安岡氏が描く慎太郎像は、はつらつとして、けっして龍馬のようにくたびれてはいないのですね。
後ろ盾もなく苦労したといえば、この人もそうなのですが、慎太郎の場合は、龍馬とちがって、規格外の組織を背負ってその維持に苦労した、というのではなく、個人で動いているんですよね。
地味ながらも、その動きが的確で、理詰めで一人立ちしている。元が庄屋さんですから、末端ながら、行政慣れしているんでしょうか。
しかし、農村に密着しているとなりますと、町育ちの龍馬よりも、望郷の念は強くてもおかしくない気がするのですが、この人の場合、故郷で親族を殺されています。土佐勤王党の弾圧に憤慨して決起し、藩に斬殺された野根山二十三士の中に、親戚がいるんです。
藩の役人として、ですが、その自らの郷党を斬殺した小笠原唯八や、やはり勤王党には敵対的だった板垣退助。容堂側近の上士二人に、しかし慎太郎は恩讐を越えて近づき、その鋭い理論をもってして、なんでしょうか、説得して、自分の側に引き寄せ、倒幕派にしてしまうんですよね。
元が容堂側近の二人であるだけに、これは薩長にとっては、とてもありがたいことです。いざ、というときに、土佐が藩として倒幕派に加わる種は、しっかりと、慎太郎によって蒔かれたわけなのですから。
あるいは、慎太郎が生きていれば、維新後にも、薩長は無視はできなかったのではないでしょうか。いえ慎太郎ならば、結局反政府の側に立って、板垣といっしょに自由民権運動を繰り広げた可能性の方が、高そうな気もしますけど。そうであったとき、もう少し、地に足の着いた反政府運動になりえたのではないかと‥‥‥、これは私の夢想なのですが。
郷里で流された血は、むしろ慎太郎を強くして‥‥‥、つまり、郷里もまた激動の外にはない、帰る場所は自分で作るしかないのだという覚悟、あるいは諦念でしょうか、に慎太郎を至らしめ、流離の憂いから遠ざけたのではなかったでしょうか。

「夫れ攘夷というは皇国の私語にあらず。その止むを得ざるに至っては、宇内各国、皆これを行ふもの也。メリケンは嘗て英の属国なり。ときにイギリス王、利を貪ること日々に多く、米民ますます苦む。因ってワシントンなる者、民の疾苦を訴へ、税利を減ぜん等の類、十数箇条を乞う。英王、許さず。爰においてワシントン、米地十三邦の民をひきい、英人を拒絶し、鎖港攘夷を行う。これより英米、連戦7年、英遂に勝たざるを知り、和を乞い、メリケン爰において英属を免れ独立し、十三地同盟して合衆国と号し、一強国となる。実に今を去ること80年前なり」

翻訳ではない、血肉にくいいる理論を述べうる人だったのにと、早世が惜しまれるのです。


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英国へ渡った土佐郷士の流離 2

2007年02月15日 | 幕末留学
『島津久光と明治維新―久光はなぜ討幕を決意したのか』

新人物往来社

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この本、著者の芳即正氏が、薩摩藩の幕末維新史料の専門家でいらして、幕末薩摩藩の動向を、久光を中心とした視点から、コンパクトにうまくまとめておられます。
以下、この本から、ばかりというわけではなく、他の資料や、私の解釈も多大にまじりますが、昨日書いた英国へ渡った土佐郷士の流離 の続きです。

「ここらへんが、このころの薩摩藩のやることのわけのわからなさ」と昨日は書いたのですが、細かく見ていくと、わからないわけでもないのです。上洛した久光は、浪士取締の勅命を受けたんですね。
つまり、浪士の策動を、孝明天皇が嫌がっておられ、久光は勅命にしたがって、上意討ちをしたわけです。さらに、田中河内介殺しについていえば、完結・倒幕の密勅にかかわった明治大帝の母系一族で少しだけ触れましたが、田中河内介は、上意討ちにされた薩摩尊攘檄派とつながり、清川八郎などともいっしょになって、西日本の志士に、檄文をまいて歩いていました。それに、中山家の跡取り、忠愛卿もかかわっていて、青蓮院宮(中川宮)の討幕の密旨があるという話にまでなっていまして、孝明天皇が浪士の策動を嫌がっておられるとなりますと、皇子(後の明治天皇)の母系一族である中山家にとっては、非常に困った事態だったわけです。久光は、当主の中山忠能に会っていますし、隠蔽策を頼まれて、殺して口を封じる決意をしたのではないか、とも考えられるでしょう。

で、吉田東洋暗殺なんですが、これは他藩のことです。土佐勤王党が、土佐藩政を握ろうとしていた時期ですし、薩摩藩にとっては、他藩のうちわもめでしかありません。勅命とはなんの関係もないんですよね。

高見弥一が、薩摩人となることを選んだ最初の動機も、幕末における「勅命」のゆれ動き、にあったのではないかと思うのです。『流離譚』によれば、三人の暗殺者の中で、高見弥一はただ一人、藩外で活動していて、長州、薩摩藩士とも面識があったので、脱藩後の身の振り方を決めるに必要な人物として選ばれたのだろう、ということです。つまり、他藩士との付き合いに慣れていて、社交性があった、ということなのですが、同時に、土佐藩内の情勢の上にあった、久光上洛にともなう西日本一帯の志士活動のうねりを、熟知していたことになります。
それがなぜ、上意討ちという無惨な形になったのか、彼は真剣に知ろうとしたのではないでしょうか。
奈良原をはじめ、上意討ちにおもむいた薩摩藩士たちにしても、好きで同じ藩の仲間に斬りかかったわけではありません。ちゃんと聞く耳を持った者には、勅命があったことを説明したはずです。
その後の久光の動きも、勅命遵守が基本にあったことを知っていれば、長州主導で煮えたぎった京の情勢も、しごく冷静な目で見えてしまって、一歩引いてしまうことになるのではないのでしょうか。自分が、藩の重役殺しに手を染め、もはや故郷へは帰れない身になっていればこそ、なおさらに。
土佐勤王党の大儀が、彼にとっては、しだいに遠いものとなっていったのでしょう。

薩摩藩士であることを選び取った時点で、弥一は、部外者であることを選んだことにもなります。薩摩生まれの薩摩育ちでなかったからこそ、彼は、薩摩藩がその中心にあった激動に巻き込まれることもなく、血しぶきをさけて、静かな日常に埋没できた、ともいえるでしょう。そして、流離こそが彼の平安であったのだとすれば、海のむこうのイギリスを目指したことも、彼にとっては、新しい刺激を求めたというよりも、より郷里から遠い場所こそが、流離するしかないその心の均衡を、保証してくれそうに思えたからでは、なかったのでしょうか。


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英国へ渡った土佐郷士の流離

2007年02月14日 | 幕末留学
流離譚〈上〉

講談社

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『流離譚』は、数多い幕末ものの著作の中で、私にとっては、屈指といっていい名著です。
安岡章太郎氏は、土佐出身の小説家ですが、土佐にいたのはごく幼いころのみです。その著者が、丹念に古文書を読み解いて、幕末維新期を生きた祖先たち、安岡家の人々を描いているんです。
安岡家は土佐郷士で、男たちは勤王党員となり、横死したり、入牢したり、戦死したりもするのですが、ごく日常的な日記や手紙が、幕末維新の動乱に結びついていて、安岡氏の筆は政治的な大局におよび、あの時代に身を置いたかのような確かな感触で、しかし客観的に、描写を重ねています。

最初にこの本を読んだ動機は、昔、吉田東洋暗殺犯の一人である、大石団蔵、後の高見弥一に関心を持ったこと、でした。
吉田東洋暗殺は、土佐勤王党が組織ぐるみで企てた事件で、後の藩内大弾圧につながり、多くの者が死に、土佐郷士はぞくぞくと脱藩し、高市半平太は切腹に終わります。
暗殺志願者は多く、何組かにわかれて狙っていたようですが、最終的に実行したのは、那須信吾、安岡嘉助、大石団蔵の三人です。そうなんです。安岡嘉助は、安岡章太郎氏の血縁です。
三人はただちに脱藩し、島津久光の上洛でわいていた京へ上り、最初は長州藩邸にかくまわれました。しかし、土佐藩庁の追求はきびしく、長州藩邸でかくまいきれなくなり、久坂玄瑞が頼み込んで、薩摩藩邸が引き受けるんですね。
ここらへんが、このころの薩摩藩のやることのわけのわからなさ、なんですが、自藩の過激尊攘派は寺田屋で上意討ちにし、しかも、行動をともにしようとした他藩士は国元へ送り返し、後ろ盾のない田中河内介などは殺害し、ですね、土佐藩の重役殺害犯は、かくまって丁寧にもてなす、わけです。
しかし、京の情勢は転変し、長州藩主導で過激尊攘派が主導権を握り、結局、那須信吾、安岡嘉助は薩摩藩邸を出て、同じく土佐郷士の吉村虎太郎とともに、天誅組の義挙に参加したところで、薩摩藩が8.18政変を引き起こします。
天誅組のお話は、またの機会にゆずりたいと思いますが、結論だけいいますと、那須信吾は戦死、安岡嘉助は捕らえられ、翌年、処刑されました。

大石団蔵がなにをしていたかと言いますと‥‥‥、彼は薩摩藩邸をでることなく、薩摩藩士になったんです。寺田屋事件で上意討ちの中心になっていた奈良原喜八郎と親しくなり、その親戚だったかの養子になった、というんですが。
いえ、それだけだったら、私はさほど関心を持たなかったかもしれません。これも昔読んだ犬塚 孝明氏の『薩摩藩英国留学生』によれば、なんと大石団蔵改め高見弥一は、幕末薩摩藩英国留学生の一人になったのです。
なにかもう、すごい転変じゃないですか?
土佐郷士で、勤王党員。刺客を志願して、藩の重役を暗殺。土佐藩にとっては犯罪人で、この事件のために勤王党は壊滅状態。自分が深くかかわった故郷の流血沙汰をよそ目に薩摩の人となり、薩摩藩士でも厳選された数少ないイギリス留学生におさまっているんです。いえ、おそらく、けっこう年がいっていたせいもあるんでしょうけれど、あまりイギリスにはなじめなかったみたいで、短期間で引き上げ、それから後は鹿児島で学校の先生。以降、歴史の表舞台には、いっさい顔を出しません。

いえね、『流離譚』が追っているのは安岡嘉助で、高見弥一のことが詳しく載っているわけではないと、知ってはいたのですが、どういう心境で、弥一がこの転変を選び取ったのか、なにか手かがりでもあるかな、と。
『流離譚』は、人にとって、切っても切れない故郷の原風景への思いを、淡々とうたいあげた物語です。
幕末も押し詰まった時点での、坂本龍馬の心境も、その故郷への執着から読み解いていて、それは、とても説得力のあるものでした。
高見弥一はどうだったのでしょう? なにが彼を故郷から断ち切り、流離させたのか。個人の日常の平安を選び取り、そのことが流離につながったのだとすれば、彼は、もはや帰ることのできなくなった故郷に、どんな思いを抱き、維新後の日々を生きたのでしょうか。
いまなお、そのことが、心にひっかかっています。


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勝海舟というお方は‥‥‥

2007年02月12日 | 幕末雑話
どういうお方なのかと思います。
いえね、私、勝さんについてはさっぱり詳しくないんです。
なんとなく虫が好かない、とでもいえばいいんでしょうか、妙に好きになれなくって‥‥‥、といいますか、たいして好きではなくとも、その人物について詳しく調べる、ということはあるんですけど、いったいなにをしたっていうの? という気分がぬけなかったんです、この人に関しては。
そこへもってきまして、晩年のおしゃべりぶりが、あまり好感を持てませんで。とはいえ、談話集とかは読んでいて、たしかにおもしろいおしゃべりなんですけど、要するに、おしゃべり男は好みにあわない、わけでして。

で、ですね。甲賀源吾と回天丸、そしてwiki に書きましたような事情で、記事を書いていましたところ、甲賀源吾の師匠だった矢田堀鴻の項目が、ないんですね。『回天艦長 甲賀源吾傳』に写真と略歴が載っていますので、じゃあついでだ、これも書こう! ということになりまして、読み返してあきれました。勝海舟というお方に‥‥‥。

詳しくはwikiの記事を見ていただきたいんですが、矢田堀鴻は、勝海舟より6つ年下で、同期で長崎海軍伝習所でオランダ海軍の伝習を受け、勝さんより優秀だった幕臣なんですね。幕府の最後、海軍総裁を務めますが、維新以降は不遇で、勝さんより先に死に、勝さんが墓碑銘をよせているんです。それがまあ、なんといいますか。
「利刃缺けやすく、敏才伸びがたし」って、ねえ。「鋭い刃物は欠けやすく、学業秀才は案外のびねえもんだよな。あんたの人生もそうだったよ」って、ことですよね? 私が矢田堀の遺族だったら、つっかえしますよ。いくらそれが勝さんから見た真実だったにしても、墓碑銘なんですから。
もちろん、そんなことはwikiには、書いてませんけど。

『長崎海軍伝習所 十九世紀東西文化の接点』

中央公論社

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で、この本です。この本で、謎がとけました。
私、カッテンディーケの『長崎海軍伝習所の日々』は、昔読んでいたんですが、読んだ視点が「オランダ人は当時の日本をどう見たか?」というものでして、伝習所に関しては、司馬遼太郎氏の『胡蝶の夢』で、薄ぼんやりとしたイメージをもっていたくらいのものでした。それで、幕府海軍といえば勝海舟、という話を、あまり疑ってはいなかったのですが、今回、資料を読んでいますと、どうもおかしいのです。
根本資料の「海軍歴史」は、勝海舟著となっていますように、勝さんが中心になってまとめたものなんですが、それでも、資料部分を読んでいますと、なにやら少々、話がちがうんです。

それで、この『長崎海軍伝習所』を読んでみますと、やっぱり、勝さんの話には、そうとうな潤色があるようなんですね。この本の後書きによれば、『海軍歴史』は資料部分は信用できるけれども、そこに勝さんのホラ話がまじるんだとか。いや、実は主に必要な資料部分しか見てないもので、ホラには気づかなかったんですが、資料部分だけ見ていたら、薄ぼんやりともっていた、勝さんイコール旧幕府海軍、みたいなイメージは変ですわ。
それで『長崎海軍伝習所』の著者は、オランダ人が書いた長崎海軍伝習に関する論文と、『海軍歴史』の資料部分だけを使って、この本を書かれたんだそうで。海軍兵学校出の方で、海軍知識が確かで、いい本でした。

そういえば、忘れていましたけど、『軍艦奉行木村摂津守 近代海軍誕生の陰の立役者』にも、福沢諭吉がなぜ勝海舟を嫌ったか、ということで、勝さんは『海軍歴史』で、あたかも自分一人で幕府海軍を作ったかのようにしてしまっていることが、許せなかったのだと、していましたね。
渡米時の咸臨丸での勝さんを見ていた諭吉さんにとっては、諭吉さんにとっては恩人である木村摂津守をないがしろにして、しかもさっぱり艦長の役目を果たすことができなかったくせに、という思いが、生涯ぬけなかったのだとも。
さらに当時の勝さんは、年下の木村奉行が、航海術も知らないのに、門閥であるというだけで咸臨丸の長におさまっているのが気に入らなくて、すねていたのだというんですけど。

えーと、じゃあ、あれなんでしょうか。矢田堀の場合は、年下であるのに、自分よりはるかに学問吸収が上で、航海術に長けていたのが、気に入らなかったんでしょうか。出身身分は同じ小普請組で、かわりませんし。
それにしても勝さんは、オランダ海軍伝習では、出来がよくなかったらしいにもかかわらず、カッテンディーケにもうまく取り入っていますし、アメリカ行きも、幕閣への売り込みが功を奏したようなんですのに、すねるって、ねえ。
これじゃあ、咸臨丸の部下たちから嫌われて、帰国後しばらく海軍をはずされた、って話にも、うなずけますわ。

まあ、なんといいますか、歴史は勝者が作る、といいますけどねえ。勝さんも立身出世街道では、勝者だったわけで。
おそらく、薩摩の海軍閥が勝さんを持ち上げたんでしょうね。肥前海軍閥を押さえるために。それに勝さんが、うまく調子をあわせて乗った、と。勝さん、薩摩が好きですしねえ。
いやしかし、やはり、好きにはなれないお方です。
政治的、といっても、大久保利通くらいすさまじく政治的ですと、それはそれで、私はけっこう評価したりするんですが、こう、なんといいますか、ねちねちねちねちと政治的なのは、どうにも好きにはなれないんです、はい。


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甲賀源吾と回天丸、そしてwiki

2007年02月06日 | 幕末雑話
いやもう、疲れました。
なにに疲れたって、wikiの記事を書くのに、です。
桐野の記事は、ちょこっとつけくわえさせてもらっただけだったので疲れなかったのですが、それで、甲賀源吾と回天丸を書く気になったのが、まちがいのもとでした。
なんで書く気になったかといえば、昔、けっこう奮発して、あまり人様の持っていない古書を買っていたから、なんですね。
いえ、図書館にもなかなかない本でしたし。昭和8年に発行された『回天艦長 甲賀源吾傳』です。
函館戦争のフランス人vol3(宮古湾海戦) ではちらっとしか書きませんでしたが、この宮古湾海戦の主役となった回天丸と、その船長だった甲賀源吾が、昔、どうにも気になりまして。気になったのに資料がない、というので、買ったものです。

しかし、まあ、けっこう内容を忘れているものです。
他の書籍と読みくらべて、ああでもない、こうでもないと、まるで仕事をしているようでした。
このブログだったら、うろ覚えで、けっこういいかげんに書き飛ばし、ずいぶん後になって、あれ? もしかしてまちがえたよねえ、と思い出して直したりもするのですが。めんどうになると、細かなことははぶいちゃいますし。
回天丸が奪取をめざした甲鉄艦のことも、あとから、高杉晋作「宇宙の間に生く!」と叫んで海軍に挫折で補ったりしてますよねえ。

それがwikiとなりますと、なにしろ、他人様の書いておられることを消したり直したりするわけですから、くれぐれもまちがいのないようにと、あっち見てこっち見て確かめて、きっちり客観的に、って、ほんと仕事ですよねえ。つくづく、無料でやることじゃありませんわ。
桐野の項目だって、あれほどに正確に、詳細に書いていただいた後でなければ、とても手をつける気には、ならなかったんですのにねえ。

あー、それでちょっと気になったことがあります。篠原宏著『海軍創設史 イギリス軍事顧問団の影』では、甲賀源吾と荒井郁之助の名が、長崎のオランダ海軍伝習生名簿に載っているのですが、ぐぐってみましたところ、他にはそれを書いたものがないようなんですね。篠原氏は、主に勝海舟の『海軍歴史』を資料になさって名簿を作られたようなので、これは見てみるつもりなんですけど、長崎オランダ伝習生に関する根本資料って、ほかにはないものなんでしょうか? もし、おわかりになられる方がおられましたら、ご教授のほどを。

資料を読んで、書いていて、あらためて確認したことがあります。
甲賀源吾って、理数系のテクノクラートなんですよねえ。その上に戦闘魂があるわけですから、海軍将官としては理想的な人だったように思えます。


付け加えます。
あーもう、篠原氏ったらば、甲賀本人と兄さんをまちがえるとは!!!
(のち回天艦長で戦死)とある注意書きに目を奪われて、名前をよく見ていませんでしたわ。
甲賀「郡之丞」って、それは兄さんで、回天艦長にはなっていませんし、戦死もしてませんってばさ。
ふりまわされました。

おまけにー、よーく考えたら、伝習生の名簿が載っている本を、他に持っていましたわ。文倉平次郎著『幕末軍艦咸臨丸〈上〉』です。「荒井郁之助」も、郁之助じゃなく光太郎だし、親の名前が全然ちがうし。。。 なんなんでしょう。。。
うー、篠原氏の著述、不安になってきました。イギリス海軍伝習の話は、だいじょうぶなんでしょうねえ。

あー、もう一言だけ。
近代デジタルライブラリーに『海軍歴史』がありましたので、見てみましたら、しかも荒井光太郎は、巳12月24日病死とあるし!!!!!!!


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史伝とWikiの桐野利秋

2007年02月02日 | 桐野利秋
『史伝 桐野利秋』

学習研究社

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もうずいぶん以前のことです。
桐野利秋について調べていました。同じ頃、知り合った女性は、入江九一について調べていました。
これが悔しいことに、長州はいろいろと資料が見つかりますのに、薩摩はなかなか苦戦です。
インターネットのなかった時代です。入江ファンの女性が、自分が調べたことをまとめ、それを無料で配りつつ、情報提供を求めておられるのを見て、私もこれをまねするしかない、と、それまでに見つかった書物を列挙したコピー冊子を作りまして、配って歩いたんです。期待を込めて、鹿児島県立図書館にも送ってみました。奥付には、住所と電話番号を載せて。
反響はなにもありませんでした。
そうこうするうちに仕事が忙しくなり、別な方面に関心が強くなったりもしまして、幕末維新から遠ざかっておりました。
数年前のことです。突然、まったく存じ上げない女性から、お電話をいただきました。
鹿児島県立図書館で、私の冊子を見られたというのです。感激しました。
聞けば、その女性は私よりずっと先輩で、桐野のファンであったために大学も史学科を選び、卒論も桐野がらみ。結婚して、お子さんも大きくなられ、再び桐野と向かい合いたいと、鹿児島を訪れ、私の冊子を目にしたとおっしゃるのです。
お電話で、いろいろと昔調べられたことや、最近の出版物などをうかがいました。
それで初めて、私は、この『史伝 桐野利秋』が出ていることも、知ったような次第です。
著者の栗原智久氏は、江戸東京博物館の司書でおられるとか。文庫本なのですが、これがなかなかのすぐれものでした。
おもしろおかしく語られてきた虚像ではなく、実像を、というその執筆姿勢が、そもそもこれまでの桐野に関する著作には、なかったものなんです。
ともかく、もう私の調べることは、ほとんどないかな、という気がいたします。
とはいえ、桐野利秋とアラビア馬に書きました件などは、ずっとひっかかっておりまして、こいう記事、古書について、お心あたりの節は、どうぞ、ご教授ください。



上は、昔、桐野について調べていたころ、ご近所に、西郷隆盛に関する本を集めていらっしゃるお年寄りがいまして、本をお借りしたりしていたんですが、長年の西南戦争錦絵コレクションを手放すといわれましたので、安く譲り受けた月岡芳年画のものです。なかなかに美しい桐野でしょう? 3枚続きの1枚目で、中央にはやはり西郷どんがおられます。

ごく最近のことなんですが、Wikiの桐野のページを見て驚きました。詳細で、正確で、どなたが書いているの??? と不思議だったんですが、リンクをたどって謎がとけました。西郷軍側の隊長・池上四郎のご子孫が、中国古代史で大学の先生になっておられて、西南戦争関係の記事を全部書いておられたのです。
感激のあまり、私、ついに決心をしまして、少々書き加えさせていただきました上に、この錦絵もあげておきました。
もう、ほんとうに、あの苦労しました昔からは考えられない現況です。
研究は専門家にお任せして、私はやはり妄想にひたって物語をつづればよろしいようなものなのですが。


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