―「昨日(令和5年6月3日)の記事」を書き直します。―
(01)
1 (1)∀x{犯人x→(x=佐藤)∨(x=鈴木) ∨(x=高橋)} A
2 (2)∀x(犯人x→~アリバイx) A
3 (3)アリバイ高橋&アリバイ鈴木 A
1 (4) 犯人a→(a=佐藤)∨(a=鈴木) ∨(a=高橋) 1UE
2 (5) 犯人a→~アリバイa 2UE
6 (6) 犯人a A
2 6 (7) ~アリバイa 56MPP
8 (8) 高橋=a A
9 (9) 鈴木=a A
2 68 (ア) ~アリバイ高橋 78=E
2 6 9 (イ) ~アリバイ鈴木 79=E
3 (ウ)アリバイ高橋 3&E
3 (エ)アリバイ鈴木 3&E
2368 (オ)アリバイ高橋&~アリバイ高橋 アウ&I
236 9 (カ)アリバイ鈴木&~アリバイ鈴木 イエ&I
236 (キ) 高橋≠a 8オRAA
236 (ク) 鈴木≠a 9カRAA
1 6 (ケ) (a=佐藤)∨(a=鈴木) ∨(a=高橋) 46MPP
1 6 (コ) {(a=佐藤)∨(a=鈴木)}∨(a=高橋) ケ結合法則
サ (サ) {(a=佐藤)∨(a=鈴木)} A
サ (シ) ~~{(a=佐藤)∨(a=鈴木)} サDN
サ (ス) ~{(a≠佐藤)&(a≠鈴木)} シ、ド・モルガンの法則
サ (セ) ~{(a≠佐藤)&(a≠鈴木)}∨(a=高橋) ス∨I
ソ (ソ) (a=高橋) A
ソ (タ) ~{(a≠佐藤)&(a≠鈴木)}∨(a=高橋) ソ∨I
1 6 (チ) ~{(a≠佐藤)&(a≠鈴木)}∨(a=高橋) コサセソタ∨E
1 6 (ツ) {(a≠佐藤)&(a≠鈴木)}→(a=高橋) チ含意の定義
1236 (テ) ~{(a≠佐藤)&(a≠鈴木)} キツMTT
1236 (ト) ~(a≠佐藤)∨(a=鈴木) テ、ド・モルガンの法則
1236 (ナ) (a≠佐藤)→(a=鈴木) ト、含意の定義
1236 (ニ) (a=佐藤) クナMTT
123 (ヌ) 犯人a→(a=佐藤) 6ニCP
ネ(ネ) (a≠佐藤) A
123 ネ(ノ) ~犯人a ヌネMTT
123 (ハ) (a≠佐藤)→~犯人a ネノCP
123 (ヒ) 犯人a→(a=佐藤)&(a≠佐藤)→~犯人a ナニヒ&I
123 (フ)∀x{犯人x→(x=佐藤)&(x≠佐藤)→~犯人x} ヒUI
従って、
(01)により、
(02)
(ⅰ)∀x{犯人x→(x=佐藤)∨(x=鈴木)∨(x=高橋)}。然るに、
(ⅱ)∀x(犯人x→~アリバイx)。然るに、
(ⅲ)アリバイ高橋&アリバイ鈴木。従って、
(ⅳ)∀x{(犯人x→x=佐藤)&(x≠佐藤→~犯人x)}。
といふ「推論」、すなはち、
(ⅰ)すべてのxについて{xが犯人であるならば、(xは佐藤である)か、(xは鈴木である)か、(xは高橋である)}。然るに、
(ⅱ)すべてのxについて(xが犯人であるならば、xにはアリバイが無い)。然るに、
(ⅲ)高橋にはアリバイがあるし、鈴木にもアリバイがある。従って、
(ⅳ)すべてのxについて{(xが犯人であるならば、xは佐藤であり)、尚且つ(xが佐藤でなければ、xは犯人ではない)}。
といふ「推論」は、「述語論理(古典論理)」として、「妥当」である。
従って、
(02)により、
(03)
(ⅰ)犯人は、佐藤か、鈴木か、高橋である。然るに、
(ⅱ)犯人であれば、 アリバイが無い。然るに、
(ⅲ)高橋と鈴木には、アリバイが有る。従って、
(ⅳ)犯人は佐藤であり、佐藤以外(高橋と鈴木)は犯人ではない。
といふ「推論」は、「述語論理(数学語)」だけでなく、「日本語」としても、「妥当」である。
従って、
(03)により、
(04)
② 犯人は佐藤である。
③ 佐藤以外は犯人ではない。
に於いて、
②=③ である。
然るに、
(05)
Q:誰が犯人か。
A:佐藤が犯人である。
であって、
Q:誰は犯人か。
A:佐藤は犯人である。
ではない。
従って、
(04)(05)により、
(06)
① 佐藤が犯人である。
② 犯人は佐藤である。
③ 佐藤以外は犯人ではない。
に於いて、
①=②=③ である。
然るに、
(07)
よく知られているように、「私が理事長です」は語順を変え、
理事長は、私です。 と直して初めて主辞賓辞が適用されるのである。また、かりに大倉氏が、
タゴール記念会は、私が理事長です。
と言ったとすれば、これは主辞「タゴール記念会」を品評するという心持ちの文である。
(三上章、日本語の論理、1963年、40・41頁)
従って、
(06)(07)により、
(08)
① 私が理事長である。
② 理事長は私である。
③ 私以外は理事長ではない。
に於いて、
①=②=③ である。
然るに、
(09)
私が理事長です(理事長は私です)。
のように、ガの文はハを内蔵していることがあるから、その説明が必要である。
このような「私が」を強制的になっていると言うことにする。そこには発音上のストレスを与えたのと似た効果をもっているからである。
(三上章、日本語の論理、1963年、105頁)
然るに、
(10)
清音の方は、小さくきれいで速い感じで、コロコロと言うと、ハスの上を水玉がころがるような時の形容である。ゴロゴロと言うと、大きく荒い感じで、力士が土俵でころがる感じである(金田一春彦、日本語(上)、1988年、131頁)。もし濁音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「濁音=大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)。
従って、
(08)(09)(10)により、
(11)
① 私が理事長である。
② 理事長は私である。
③ 私以外は理事長ではない。
に於いて、
①=②=③ であって、尚且つ、
①「私が(濁音)」は、「濁音」による「強調形」である。
然るに、
(12)
エゴー・エイミ(古代ギリシャ語: ἐγώ εἰμι ギリシャ語の発音: [eɡɔ̌ː eːmí] ) 「私はいる」、「私は存在する」は、古代ギリシャ語の動詞「である」を示す一人称単数 現在 能 動詞です(ウィキペディア)。
(13)
(a)この理由は、動詞の語尾が、主語が一人称であるか、それとも二人称であるか、または、三人称であるかを充分に示しているからである。つまり λεγω は「私は言う」(I say)である。故に、特に「私」を強調が置かれるのでなければ、εγω を付け加えない。
(b)強調というのは、通常対照によって生ずる。たとえば、εγω λεγω,συ δε γραφειs,「私は語るが、しかし汝は書く」(I say,but you write)という文で,εγω と συ とは強調されている。εγω と συ は互いに対照されているからである。そして、εγω λεγω、「私は語る」(I say)という文では、誰か他の人は語っていないということが、当然、類推されるわけである。
(J.G.メイチェン著、田辺滋 訳、新約聖書ギリシャ語原点入門、1967年、55頁)
従って、
(11)(12)(13)により、
(14)
① 私が理事長である。
② εγω・ειμι the 理事長。
③ 私以外は理事長ではない。
に於いて、
①=②=③ であって、尚且つ、
①「私が(濁音)」は、「濁音」による「強調形」であって、
②「εγω+一人称動詞」は、「一人称代名詞・主格」による「強調形」である。
然るに、
(15)
③ 私以外は理事長ではない。
のやうな「命題」を、「排他的命題(Exclusive propsition)」といふ。
従って、
(14)(15)により、
(16)
① 私が理事長である。
② εγω・ειμι the 理事長。
は、両方とも、「強調形」であって、尚且つ、「排他的命題」である。