おせっちゃんの今日2

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生き抜く総合力

2022-11-02 13:58:37 | いろいろ

自分の万全でない身体に加えて、夫が老いてまいりましたので、ほとんど家に引っ込んでいる生活です。それでなくても狭い主婦の世界が、ますます狭まっております。ブログネタも同じようなもの、きょうも「折々のことば」を使わせてもらいます。

10月29日にこんな言葉がありました。

「彼自身は何も持っていなかったけれど、困った時にたくさんの仲間から必要な支援を得られるのだから・・・持っているのとほぼおなじだ」・・タンザニアの一女性

解説にこんなことが書かれていました。初デートの時、相手が借り物の服や靴、自動車で富裕さを装っているのを、見ぬいた。でも後に彼と結ばれた。
いざとなった時、「頼れるネットワーク」を持っている人だ。こんな「生き抜く総合力」が「人の甲斐性」だと確信したからだ。

あ、これと同様な意見を確か以前「折々のことば」で読んだ、と思い出しました。
タンザニアだったかどうか分かりませんが、確かアフリカでのことだったと思います。現地に暮らす日本人。多くの友人を呼んでパーティーを開くことになった。「おや困った、大きな鍋がない、あれがない、これもない」とあたふた。現地の女性が不思議そうに笑った。鍋は1個あればいいの。必要な時は友人から借りればいい。すぐ集まるよ、と。そのあっけらかんとした言葉に、自分が捨ててしまったおおらかさを惜しんだ、というものだった。

そうですね。私が田舎育ちだからでしょうか。5・60年前、足りないものは隣に借りに行きました。
「お醤油がみてちょったんよ。貸してくれん」。醤油が米の時もあり、砂糖の時もありました。こちらから行くときも、お隣さんが来るときも。いとも自然に普通のことの様に貸し借りをしたものです。何の疚しさも、引け目も感じませんでした。

40年ほど前に、今住んでいる東京の土地を父から相続し、夫の兄一家と隣同士で暮らし始めました。初めのうち、お互いの主婦は拘りなく、貸し借りをしておりました。その後も仲が悪くなったわけではありません。これが日本社会の発展だったのでしょうか。なんとなく、借りに行くことにためらいを覚えるようになりました。
貸してもらう時の微妙な気兼ねをするよりは、一寸スーパーまで走ったほうがいいか、という気持ちが湧いてくるのでした。
一つには、商店街までが田舎に比べれば格段に近いことです。便利なことは不便なこと、距離と、気持ちとが反比例で何の理由もなく隣の勝手口を訪れることを阻止するのでした。

田舎者が東京で暮らすようになった時、都会は煩わしさがないよ。気を使う煩わしさのないことがメリットということを教えてくれた人がありました。確かにそうでした。でも大事なものを、失くしたのかもしれないと思わせる「折々のことば」でした。