つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

大丈夫じゃなくてもいい

2013-03-21 23:56:14 | 日記
もう本当に今やらずしていつやるのだというタイミングまで追い込まれて、展覧会の作品の大枠を作る。
下書きを綿密に縮小サイズで普通の紙に作る人もいるのだけれど、私は面倒なのでそれをしない。
一発目は大きくて高価な紙も捨てるつもりで書く。
おそよの大きさとかも行き当たりばったりなものだから、たいてい最初に書くものは最後まで入らないことが多い。

今の私の部屋は90×240の紙を1枚広げるのが本当にぎりぎりである。
ベッドが大きすぎる、というのは一つ大きな原因であるのだが、ベッド下も収納として使っているのだから仕方がない。
1枚広げられたからいいというものではなく、書いたものの墨が乾くまでそれをどこかに置いておきたいのにそれができない。
しかたなく、カーテンや布団に墨がつかないように細心の注意を払いながらベランダに出す。
洗濯物を干すようにして、上から吊るす。

程なくして雨が降ってくる。
紙も墨も雨はまずい。
と思って急いで部屋に引き入れたら、自分のTシャツに墨がついてしまった。

「月の爆撃機」「日曜日よりの使者」「不死身の花」「情熱の薔薇」
詞だけで決められなくて結局4つすべてを書いてみる。
先生にも相談するのだが、「不死身の花」か「情熱の薔薇」になりそうである。

ブルーハーツとハイロウズをシャッフルして流しながら書く。
それだけでもう入ってしまって、ぎゅうっとなりながら、深呼吸しながら、書く。

今回は最も自分が恥ずかしい感じを採ろうかと思っている。
どうせやるのであれば、嘘になってしまいそうなほどの恥ずかしさを採るべきなのだと思う。
となるとたぶん、「情熱の薔薇」になる。
あの下書き、先生はなんて言うだろう。

そういえば、先日私の誕生日に私がブル―ハーツが大好きなことを知っているので、「情熱の真っ赤な薔薇で花を咲かせてくださいな」とメッセージを下さった方がいた。
私は「情熱の真っ赤な薔薇で花束を作ります」と返信をした。
笑ってしまうけれど、そうできたらいい。

幼い頃、恥をかけずにお手本のない何かを作ることが本当に苦手だった。
泣きたいくらいに、逃げたいくらいに、嫌いだった。

だから書道を習うことは、字や言葉を書くことが好きであることが一番の理由であるけれど、私の通う教室で創作を根気強く強いてくれたことは本当に幸いであったと思う。
まっさらな大きな紙に自分の好きなように書いていいよ、という私の最も苦手なことを、好きなことでやる、という止められない修行のような感じだ。

ただ趣味に圧迫されないと決めている私は、創作について怠慢極まりなく今までを過ごしてきたわけだけれど、今こうして自分で創るということをすると、それが書道を続ける一番の理由に取って代わるかもしれないと思うほどの大きさを確かに感じている。
私は詩は書かないけれど、いずれ自作の詩を書いているようなことがあったらそれはそれで微笑ましい。

本当に自分がそう思っていることの表現というのは、ある恥ずかしさも全部込みでのものなのだと思う。
それに、恥ずかしさを突っ切ったら、それは恥ずかしいを超えてしまうものであるのだろう。
恥ずかしいことなんて恥ずかしくないんだと、誰に向けてでなくて自分に向けて言う。
「怖くない怖くない怖くない怖くない」と声を発しながら暗闇を行くようなそんなことにも少し似ている。
開き直り、とも言う。

私自身によって押し込められ続けてきたかわいそうな私の感情を、私が自分の手で愛でたいと思う。

裏のマンションの駐車場に生えている紫ピンクの木蓮が、それに気づいた昨日、すでに満開。
通勤路の白木蓮は、寒そうな裸の枝の時期から見守っていて、ふくふくと動物みたいな毛の生えた蕾が芽生え膨れて、少しずつ清廉な白が見え始めて、こちらも今満開。
来週には白を減らして緑が芽吹くだろうか。

夜桜のつもりはなかったのだけど、外に出たのが夜だった。
いくつかの花がまとまって咲いている三分咲きの桜は、大きなおおきなカスミソウのよう。