自分の中に核ができてくると、人との違いが明確に違うと認識できるようになる。
そもそも本来皆が皆、そういうものだ。
近しいと思えている人でさえ、当たり前にそういうことだ。
しかしながら、一部の近しさに余計な期待を抱いてしまうのはどうしようもない。
しかしながら、どうしようもなく、違うのだ。
私は感謝の強要が好きではないらしい。
心からそう思えないことを、そう思いなさい、というのは無理な話だ。
私が跳ね除けたい、あるいは見たくない何かがそこにあることを同時に知るけれど、そう思えないことに感謝などできない。
素直になりなさい、というのもその時点では無理だからそうなっているのだ。
たとえば、空気や酸素があることに感謝しなさい、という類のことに私は常日頃感謝をしているタイプではない。
ある一時に瞬間的にそういう思いに駆られたとしても、それはその一瞬だけで、私の心の基盤となるようなものを形成するものではない。
親に感謝しなさい、というのもまた然り。
残念だけれど、手放しでそうだと言えるほど、私はクリーンな人間ではない。
そう思えないことをそう思うように努力できないし、その場しのぎでそう思いますとも今の私は口を割いて言ったりできない。
たとえば後にそれについて感謝できるようになったとしたら、過去を振り返っておそらく素直でなかったとか強がっていただけだとそう思えるのかもしれない。
でも今思えないことは今本当なのだ。
誰かが誰かと出会って影響を受ける、これは人生の人との関わる意味であろうと思う。
たいていは良い影響を与えてくれる人と近くにいるものだと思うし、そういう理由で自分の人間関係が成り立っていると思う。
そして本来影響はお互いが同量だけ受けているものだと思うけれど、表面上は影響力を与えている側と受けている側に分かれる。
影響を与えている側は、最終的なところで自分本意であるべきだと私は思っている。
人にかける思いやりや優しさも、かける側がしたいからそうしている、という以上には存在し得ないと思っている。
誰かが良い変化を遂げられたことは、間違いなく誰かのおかげかもしれないけれど、それについて影響を与えた側が受けた側に何かを求めるのはおかしいと思う。
受け手側が感謝しているとかいないとか、そういうことは置いておいて、全ては与えた側が勝手にやったことだと思うのだ。
そして与えた側も自分で何かを受け取っていた、ただそれだけだ。
私は私の持ち手でできることをするだけだ。
私が思うように。
悩むとしたら、“私が思うように私がどうしたいのか”、というくらいにしたい。
10月に入って復活した回線スピードで、「たべるダケ」の最終回を観る。
本当はリアルタイムに観ようと思っていたのだけれど、眠気との必死の格闘の末に負けてしまった。
1~7話、11、12話を観たけれど、回を追うごとに次第に後藤まりこが食べるシーンが衰えていっているような気がするのは私だけだろうか。
その大胆さというか、官能性の幅というか。
料理をするシーンとそれを口にするシーンの、あまりにも艶っぽい音と映像はもっと欲しかった。
ちょっとした恥じらい、とか、ネットバッシング、のようなものがそうさせたとしたら、あれだけロックな話にもったいない話である。
ふとこのドラマの評価のようなものを見てみると、8割くらいすこぶる悪い。
それが大半のネットの意見なのかと私は少し驚いた。
情熱の真っ赤なバラ。
そもそも本来皆が皆、そういうものだ。
近しいと思えている人でさえ、当たり前にそういうことだ。
しかしながら、一部の近しさに余計な期待を抱いてしまうのはどうしようもない。
しかしながら、どうしようもなく、違うのだ。
私は感謝の強要が好きではないらしい。
心からそう思えないことを、そう思いなさい、というのは無理な話だ。
私が跳ね除けたい、あるいは見たくない何かがそこにあることを同時に知るけれど、そう思えないことに感謝などできない。
素直になりなさい、というのもその時点では無理だからそうなっているのだ。
たとえば、空気や酸素があることに感謝しなさい、という類のことに私は常日頃感謝をしているタイプではない。
ある一時に瞬間的にそういう思いに駆られたとしても、それはその一瞬だけで、私の心の基盤となるようなものを形成するものではない。
親に感謝しなさい、というのもまた然り。
残念だけれど、手放しでそうだと言えるほど、私はクリーンな人間ではない。
そう思えないことをそう思うように努力できないし、その場しのぎでそう思いますとも今の私は口を割いて言ったりできない。
たとえば後にそれについて感謝できるようになったとしたら、過去を振り返っておそらく素直でなかったとか強がっていただけだとそう思えるのかもしれない。
でも今思えないことは今本当なのだ。
誰かが誰かと出会って影響を受ける、これは人生の人との関わる意味であろうと思う。
たいていは良い影響を与えてくれる人と近くにいるものだと思うし、そういう理由で自分の人間関係が成り立っていると思う。
そして本来影響はお互いが同量だけ受けているものだと思うけれど、表面上は影響力を与えている側と受けている側に分かれる。
影響を与えている側は、最終的なところで自分本意であるべきだと私は思っている。
人にかける思いやりや優しさも、かける側がしたいからそうしている、という以上には存在し得ないと思っている。
誰かが良い変化を遂げられたことは、間違いなく誰かのおかげかもしれないけれど、それについて影響を与えた側が受けた側に何かを求めるのはおかしいと思う。
受け手側が感謝しているとかいないとか、そういうことは置いておいて、全ては与えた側が勝手にやったことだと思うのだ。
そして与えた側も自分で何かを受け取っていた、ただそれだけだ。
私は私の持ち手でできることをするだけだ。
私が思うように。
悩むとしたら、“私が思うように私がどうしたいのか”、というくらいにしたい。
10月に入って復活した回線スピードで、「たべるダケ」の最終回を観る。
本当はリアルタイムに観ようと思っていたのだけれど、眠気との必死の格闘の末に負けてしまった。
1~7話、11、12話を観たけれど、回を追うごとに次第に後藤まりこが食べるシーンが衰えていっているような気がするのは私だけだろうか。
その大胆さというか、官能性の幅というか。
料理をするシーンとそれを口にするシーンの、あまりにも艶っぽい音と映像はもっと欲しかった。
ちょっとした恥じらい、とか、ネットバッシング、のようなものがそうさせたとしたら、あれだけロックな話にもったいない話である。
ふとこのドラマの評価のようなものを見てみると、8割くらいすこぶる悪い。
それが大半のネットの意見なのかと私は少し驚いた。
情熱の真っ赤なバラ。
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