つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

全裸のクロマニヨン

2013-10-22 22:47:01 | 日記
私を揺さぶっている一番根底はなんだろう、とずっと考えてきた。
それがだいたい言葉になるようになって、その思いは決して透明で純度の高い水のようなものではなくて、全然きれいなんかではないことも分かった。

一番中枢の部分に触れてみると、そこはまだ驚くほど熱くて、どうにもしようがない。
言葉にしてしまうと、それは本物の嘘みたいに思えて、でもそれが私を揺さぶっているという本当のことを、私はずっと誰かにわかってもらいたいような心持ちと、そうすることが卑しいような心持ちの両方を抱えてきた。

今でも変わらず、抱えている。
そのことで私は自分自身を破壊してしまうことはないのだけれど、誰かが私の思うようにそれを赦してくれることを夢見ているのかもしれないし、でもそれをたとえ私の思うように赦してくれる人がいたとしても、最後の最後で私の満足はたぶん得られないだろうことも想像がつく。

とても傲慢で、とても独りよがりで、とてもずるくて。
自分でわざと作り上げたような思考を、私は時に自分で疑う。
跳ね返らないことをいいことに。

人は大袈裟だと言うかもしれない。
私だってそう思わなくはない。

少しずつ、遅々と変化する心の動きを見ながらやっていく。

悲観は嫌いだ。
卑屈も嫌いだ。
それに全面的に悲観しているわけでも卑屈になっているわけでもない。

見えない自由を、掴みかけの自由を、自分のものにするために。
その自由をずっと手放さないために。

時々、自分で自分を実験してみる。
私は何をすると喜ぶのか、何をすると笑うのか、何をすると熱くなるのか、何をすると悲しいのか、何をすると怒るのか。
自分でも計り知れない深淵に、はまってみたり、楽しんでみたり。


嬉しい話を聞いた。
望んでいることが叶うことは、とても嬉しい。

人の自由は自分の自由だよ、と友人は私に対して言った。
自分の側にいる人が自由を手に入れると、自分も自由になるきっかけを得られる、と。

私を見て自由になるきっかけを友人が感じてくれて、実際に友人自身の自由の方向に動き出したとしたら、それはそれは嬉しい。
各人にとって自由が真に良いことどうかという点も含めて、私はその自由に責任は持てないけれど、私は自由であることはとても良いことだと思っているし、好きな人たちにも自由であってほしいと願う。


“ロックっぽい”ギターの演奏がどうにかやりたくて、YouTubeで探してみると、懇切丁寧に説明をしてくれる動画があった。

マーシーのギターが耳コピできればまた違うけれど、とりあえずブルーハーツやハイロウズの曲をコードだけで弾くのは飽きてきたのだ。
もちろん大好きな曲に触れられるのは嬉しい。
でも、さすがに3つから5つくらいの簡単なコードを繰り返すのは、ギターを弾くということにおいて面白味に欠ける。
そう思えるくらいには弾けるようにもなった。

だから最近は弾きやすい他の曲もコードで弾く。
「さすらい」「フロンティアのパイオニア」「イージュー★ライダー」「ずっと好きだった」「チェリー」「空も飛べるはず」「少年時代」「Whatever」「Don't look back in anger」「Stand by me」「Macy's parade」など。

ただあくまでコードを追っているだけなので、特に“ロックっぽい”感じはしない。

動画で演奏している人は大げさなくらいの弾きっぷりで、出している音は“ロックっぽい”感じ。
耳コピするのも、タブ譜を読むのも、諦めたくなって大方諦めているので、動画という手だてはありがたい。

「超初心者向け」というタイトルが付いているのだけれど、その演奏を通して聞いてみると、あまりに難しそうで手だしできないのではないかと思ってしまう。
見る人が見れば、「超簡単」なことをやっているのだろうけど、私が見ると「すごい」となる。
でも、その通し演奏の後に小節を分解して、一つひとつの音をものすごく丁寧に説明してくれるので、その通りに追いかけてみる。
それより細かいことを聞けはしないけれど。

やっぱり最初はできない。
ギターはよく“センス”が問われることが少ない楽器であると言われるが、いや“センス”だろうと思っていた。
それでもフレーズを分解して何度も反復していくうちに、なんとなくそれっぽくなってくる。
リフが手に馴染んで、スピードも出せるようになる。

「練習あるのみ」と言われて、「練習して本当にできるようになるのなら練習するけれど」と卑屈に考えたくもなったが、たぶんそれはある程度理解ができればあとは確かに「練習あるのみ」なのだろうと思う。

できると楽しい。
そう、できると楽しい。