けいこは起きるのが早いから、私も仕方なく9時半に起床した。
今の私にとって、9時半というのは通常朝方の人が早朝4時くらいに起きるようなものだ。
2人分、食パンを焼いて、お味噌汁を作って、目玉焼きを焼く。
簡素な朝ごはんを食べて、とうきょうスカイツリーに出向く。
スカイツリーは初めて行ったのだけれど、一般的な商業施設であった。
もっとも、天候不良で展望台に登らなかったので、スカイツリーの一番の見どころ知らずになってはいるけれど。
プラネタリウムでも見ようかと入ったはいいものの、暗い、暖かい、座席が倒れる、その上寝不足、となれば寝てしまうのは当然だった。
いや、寝不足でなくても、暗い、暖かい、だけあれば私は寝てしまう。
結婚式のビデオのようなナレーションが流れているのをところどころ聞きながら、私はほぼ寝ていた。
「雪のとき会社行くの大変だったでしょ」と聞かれて、その流れで「会社に行ってないからわからない」と自由業になった話をする。
特段突っ込まれもしなかったけれど、いささか心配そうというか、「何を言っても仕方ない」という気配だった。
私がこういうときに言ってもらいたいことなど、ただひとつしかないのだけれど。
それは30にもなる大きな子どもがそんなこと言ってもらいたいのかと、そんな類の幼き感情だけれど。
2か月ほど前に全巻買って、と言っても全14巻のうち3巻が抜けているが、やっと読み始めた「ザ・ワールド・イズ・マイン」。
大学時代「デスノート」を読んで以来、漫画は読んでおらず、漫画とはこういう手触りなのかと思いながら読む。
くるりの岸田さんが影響を受けていた理由も、友人が私に勧めていた理由も1巻で分かった気がした。
ひとつ言うなれば、私はあまり暴力シーンが得意ではない。
人が殴られる音が耐え難く嫌いなのだ。
しかし「ワールドイズマイン」は凄惨な暴力漫画である。
漫画なので音がないからさほど問題はないけれど。
漫画というものがどういうふうに描かれていくのか分からないけれど、その労力はすさまじいものだろうと想像はできる。
ストーリーがあって、言葉があって、絵がある。
作り手のイメージが重要であることはどんな創作物にも言えることだと思うけれど、映画や漫画のように、シーンを紡いで形にしていくものは、そのために必要な要素と量が多すぎて本当に大変だなと思う。
すごく単純な意味で。
また漫画は、小説よりも絵という情報が多い分、読み手のイメージは制限され画一化される。
読み手の想像によるところの幅が狭く、「漫画を読む」という行為はその限定的な世界のコマを自分のペースで送っていくことだ。
文字量のせいもあるが、小説よりも想像力を要さなくて読むのが楽だ。
また、小説のように読み手の想像上の人にセリフを言わせているわけではなくて、その絵のその人に言わせているわけだから、作り手の頭の中により近い気がする。
この点においては、イメージが既に確立している場合、映画が役者また役者の演技にも影響され、自分の頭の中のイメージを思い通りに近く表現できる可能性というのは高くないとすると、漫画のイメージは漫画家と絵の間に介在するものはないから映画のそれよりも正しく表現できる可能性が高そうだ。
どちらも、ある程度イメージを具現化できるほどのイメージの整理と理解と、表現における高い技量があることを想定した場合に。
それに、たとえば確固たるひとつのイメージを取り込みたいとすれば、漫画は一コマ一コマは静止画であるからそこに圧倒的に注力することもできる。
実際にどういうふうに作るのか作り手それぞれであるのはもちろんだが、漫画は作り手の身体性が乗り移りやすい表現物なのだと思う。
吐瀉物、という言葉は少し行き過ぎかもしれないけれど、そういう要素を含んだ漫画は私でも読めるかもしれない。
それにしても、久しぶりに漫画を読んで、あまりに興味深い擬態語や擬音語が随所に出てくるものだから、そちらに気を取られてしまって本文が疎かになってしまう。
これには慣れたい。
元々本を読むのがとても苦手な私である。
一語一語噛み砕かないと進めなくて、噛み砕いているうちに他のところに思考が派生してしまって、遅々としてとても時間がかかる。
しかし、どうにもこうにも、読めた方が世界は広いことは分かっているから、少し強いてみようかと思う。
ジャンルも問わず、漫画でもなんでも、とりあえず本という媒体で活字を読むことに慣れたい。
細部にこだわりすぎず、集中力を切らすことなく、本を読めるようになりたい。
本がないと落ち着かない、という友人がいるが、私は本があってもなかなか開けない。
小学生の読書目標みたいに、月に何冊、と作ってみようか。
そういうことで、まず読んだ書の批評本2冊は割に難なく読めた。
しかしやはり、インプットすると今度は自分なりの解釈をまとめておかないともったいないように思えて、その本を読んだことによる着地点を探し始めてしまう。
考えたければ考えればいいのだけれど、それについての答えが簡単に出そうもないとき、そのことを置き去りにしてまた全然違うインプットを行って良いものなのだろうか。
こういうところの器用さが私にはないのである。

今の私にとって、9時半というのは通常朝方の人が早朝4時くらいに起きるようなものだ。
2人分、食パンを焼いて、お味噌汁を作って、目玉焼きを焼く。
簡素な朝ごはんを食べて、とうきょうスカイツリーに出向く。
スカイツリーは初めて行ったのだけれど、一般的な商業施設であった。
もっとも、天候不良で展望台に登らなかったので、スカイツリーの一番の見どころ知らずになってはいるけれど。
プラネタリウムでも見ようかと入ったはいいものの、暗い、暖かい、座席が倒れる、その上寝不足、となれば寝てしまうのは当然だった。
いや、寝不足でなくても、暗い、暖かい、だけあれば私は寝てしまう。
結婚式のビデオのようなナレーションが流れているのをところどころ聞きながら、私はほぼ寝ていた。
「雪のとき会社行くの大変だったでしょ」と聞かれて、その流れで「会社に行ってないからわからない」と自由業になった話をする。
特段突っ込まれもしなかったけれど、いささか心配そうというか、「何を言っても仕方ない」という気配だった。
私がこういうときに言ってもらいたいことなど、ただひとつしかないのだけれど。
それは30にもなる大きな子どもがそんなこと言ってもらいたいのかと、そんな類の幼き感情だけれど。
2か月ほど前に全巻買って、と言っても全14巻のうち3巻が抜けているが、やっと読み始めた「ザ・ワールド・イズ・マイン」。
大学時代「デスノート」を読んで以来、漫画は読んでおらず、漫画とはこういう手触りなのかと思いながら読む。
くるりの岸田さんが影響を受けていた理由も、友人が私に勧めていた理由も1巻で分かった気がした。
ひとつ言うなれば、私はあまり暴力シーンが得意ではない。
人が殴られる音が耐え難く嫌いなのだ。
しかし「ワールドイズマイン」は凄惨な暴力漫画である。
漫画なので音がないからさほど問題はないけれど。
漫画というものがどういうふうに描かれていくのか分からないけれど、その労力はすさまじいものだろうと想像はできる。
ストーリーがあって、言葉があって、絵がある。
作り手のイメージが重要であることはどんな創作物にも言えることだと思うけれど、映画や漫画のように、シーンを紡いで形にしていくものは、そのために必要な要素と量が多すぎて本当に大変だなと思う。
すごく単純な意味で。
また漫画は、小説よりも絵という情報が多い分、読み手のイメージは制限され画一化される。
読み手の想像によるところの幅が狭く、「漫画を読む」という行為はその限定的な世界のコマを自分のペースで送っていくことだ。
文字量のせいもあるが、小説よりも想像力を要さなくて読むのが楽だ。
また、小説のように読み手の想像上の人にセリフを言わせているわけではなくて、その絵のその人に言わせているわけだから、作り手の頭の中により近い気がする。
この点においては、イメージが既に確立している場合、映画が役者また役者の演技にも影響され、自分の頭の中のイメージを思い通りに近く表現できる可能性というのは高くないとすると、漫画のイメージは漫画家と絵の間に介在するものはないから映画のそれよりも正しく表現できる可能性が高そうだ。
どちらも、ある程度イメージを具現化できるほどのイメージの整理と理解と、表現における高い技量があることを想定した場合に。
それに、たとえば確固たるひとつのイメージを取り込みたいとすれば、漫画は一コマ一コマは静止画であるからそこに圧倒的に注力することもできる。
実際にどういうふうに作るのか作り手それぞれであるのはもちろんだが、漫画は作り手の身体性が乗り移りやすい表現物なのだと思う。
吐瀉物、という言葉は少し行き過ぎかもしれないけれど、そういう要素を含んだ漫画は私でも読めるかもしれない。
それにしても、久しぶりに漫画を読んで、あまりに興味深い擬態語や擬音語が随所に出てくるものだから、そちらに気を取られてしまって本文が疎かになってしまう。
これには慣れたい。
元々本を読むのがとても苦手な私である。
一語一語噛み砕かないと進めなくて、噛み砕いているうちに他のところに思考が派生してしまって、遅々としてとても時間がかかる。
しかし、どうにもこうにも、読めた方が世界は広いことは分かっているから、少し強いてみようかと思う。
ジャンルも問わず、漫画でもなんでも、とりあえず本という媒体で活字を読むことに慣れたい。
細部にこだわりすぎず、集中力を切らすことなく、本を読めるようになりたい。
本がないと落ち着かない、という友人がいるが、私は本があってもなかなか開けない。
小学生の読書目標みたいに、月に何冊、と作ってみようか。
そういうことで、まず読んだ書の批評本2冊は割に難なく読めた。
しかしやはり、インプットすると今度は自分なりの解釈をまとめておかないともったいないように思えて、その本を読んだことによる着地点を探し始めてしまう。
考えたければ考えればいいのだけれど、それについての答えが簡単に出そうもないとき、そのことを置き去りにしてまた全然違うインプットを行って良いものなのだろうか。
こういうところの器用さが私にはないのである。

