初めて人前で、というかカメラの前で書を書かせてもらった。
一応事前の準備は私としてはかなりやったつもりだったし、最終的な納品物は事前に仕上げていた。
スタジオは目黒川を望む日がさんさんと降り注ぐ申し分のない場所だった。
撮影の場所がどうにも真っ白で、目が眩むほど真っ白で、音も私も吸い込まれそうだった。
外では、積もった雪が道路脇に寄せられていて暖かな日差しに雪解けしていた。
私は自分が小心者であることを理解しているつもりだ。
人前で喋ることも、歌うことも、退職するときの挨拶ですら、とてもとても緊張する。
自意識過剰、といったらそれまでだけれど、緊張するのだから仕方がない。
幼い頃も、ピアノの発表会やマラソン大会や英語のスピーチコンテストなどの前日は死ぬほど緊張していた。
とにかく緊張することが大嫌いで、それがまた緊張を煽って、本当に当日の朝気持ちが悪くなったりしていた。
ただ本番で失敗して恐ろしいトラウマになった、という経験はなくて、ただただ人知れず緊張していた思い出ばかりが色濃く残っている。
それからと言うものの、大人になればなるほど緊張する事態を自分で避けられるのでとりあえず避けられるものは全力で避けてきた。
こういうのはおそらく事前の準備と、あとは場数によって解消されるのだとは思うけれど、そういうことはしてこなかった。
今回、撮影をしてくれる人はほとんど知り合いだし、人前といっても編集可能なカメラの前なので前日にはさほど心配はしていなかった。
心配事といえば朝9時の集合で、私は前日というか当日の夜というか朝、何時に寝られるかだけは心配だった。
それもとりあえず3時半には寝つけた。
朝の段階でも特段緊張しているということはなかった。
でも思えば、私は必要な道具である墨池と朱墨を家に置いてきてしまっていたりしたわけで、心はわたわたとしていたには違いない。
忘れ物については、本当に申し訳ありません、だけなのだけれど。
真っ白なスペースで、諸々と準備をして華やかなタイパンツに着替えて撮影が始まる。
本番の紙に筆をおいて、私は、ヤバイ、と思った。
その瞬間にあり得ないくらいにドキドキと動悸がして、震えは腕から手へ、筆へ、穂先へと伝わった。
書けない。
10文字ほど書いたところで「止めてください」と言って止めてもらう。
そこから何度も何度も近くの要らない紙で試し書きをした。
しかし本番の紙に筆を乗せようとすると、またもうあり得ないくらいにドキドキとし始める。
結局、私は言い訳をしながら「すみません、ごめんなさい」と言い続けて1時間半くらい浪費した。
音楽を変えてもらったり、トイレに行ったり、色々しても震えは止まらなくて書けなかった。
気を使ってくれて、お昼にしようと、何もしてないのに休憩になる。
昼休憩も、「私がこのあと書けなければ今日のこのスタジオ代も人件費も全部無駄」というプレッシャーが一人勝手にのしかかって、買ってきてくれたカツサンドが半分くらいしか喉を通らない。
正直こんなに緊張するとは思わなかった。
何に緊張しているのかすら、「良いものにしたい」と思うこと以外にはなかったのに。
いつもやっていることをやればいい、ただそれだけのこと。
それができない。
さらに悪いことに、穂先の長い筆にしてしまったために震えるともろに字に出てしまう。
たぶん、私がこんなにも緊張していることは見ただけではよく分からないだろう。
顔と態度がそもそも小心者には見えない。
しかし、根っからの小心者であることは一緒にいた友人はもちろん知っていたし、この日の私の挙動の危うさも見ていただろう。
お昼休憩が終わる頃、アシスタントでいた役者の卵の女の子が「紙はあるのでとりあえず本番用紙に練習したらいいじゃないですか」と言ってくれて、私は結果的にそれに救われた。
そうか、とりあえず何とか気を落ち着けて本番用紙に練習で書き始める。
アシスタントも友人も更に気を使ってくれて、普通に世間話的にうるさい方がいいよねと、そんな環境も演出してくれた。
練習と書き始めたその紙で、何とか進みそうだったのでそのままカメラを回してもらう。
とりあえず私が書く部分の撮影はそれで終わり、あとはその他の撮影を行う。
その後は滞りなく、片づけまでして終了。
なんて迷惑な奴だったろう。
だけれど、私としては本当に良い経験をさせてもらった。
改めて自分の極度な小ささも改めて認識できたし、もし何かで人前に出るようなことがあればもう少し準備できることもあるだろう。
まあ場数を踏むことが最も有効で、ほとんど唯一な方法のような気もするけれど。
撮影した映像はYouTube上に後日アップされる。
それはそれで、私は自分をまじまじと見ることをほとんどしないので、恐ろしく恥ずかしいかもしれない。
私はいつも自分という容姿から逃げている。
書は、このように撮影やパフォーマンス書道などでなければ、私という人間性は反映されても容姿は写らないから、そういう意味では楽である。
しかしながら思うのは、今回の作品は私がメインではないけれど、やはり表現の世界というのは私にとって「嬉し恥ずかし」の世界であって、火がついてしまいそうな恥ずかしさをも超えて露出したいものがあるのであれば、そうするしかないのである。
それは「嬉し」の世界であることもささやかながら経験している。
そして自分がもっと恥ずかしいことをしたがっていることも知っている。
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一応事前の準備は私としてはかなりやったつもりだったし、最終的な納品物は事前に仕上げていた。
スタジオは目黒川を望む日がさんさんと降り注ぐ申し分のない場所だった。
撮影の場所がどうにも真っ白で、目が眩むほど真っ白で、音も私も吸い込まれそうだった。
外では、積もった雪が道路脇に寄せられていて暖かな日差しに雪解けしていた。
私は自分が小心者であることを理解しているつもりだ。
人前で喋ることも、歌うことも、退職するときの挨拶ですら、とてもとても緊張する。
自意識過剰、といったらそれまでだけれど、緊張するのだから仕方がない。
幼い頃も、ピアノの発表会やマラソン大会や英語のスピーチコンテストなどの前日は死ぬほど緊張していた。
とにかく緊張することが大嫌いで、それがまた緊張を煽って、本当に当日の朝気持ちが悪くなったりしていた。
ただ本番で失敗して恐ろしいトラウマになった、という経験はなくて、ただただ人知れず緊張していた思い出ばかりが色濃く残っている。
それからと言うものの、大人になればなるほど緊張する事態を自分で避けられるのでとりあえず避けられるものは全力で避けてきた。
こういうのはおそらく事前の準備と、あとは場数によって解消されるのだとは思うけれど、そういうことはしてこなかった。
今回、撮影をしてくれる人はほとんど知り合いだし、人前といっても編集可能なカメラの前なので前日にはさほど心配はしていなかった。
心配事といえば朝9時の集合で、私は前日というか当日の夜というか朝、何時に寝られるかだけは心配だった。
それもとりあえず3時半には寝つけた。
朝の段階でも特段緊張しているということはなかった。
でも思えば、私は必要な道具である墨池と朱墨を家に置いてきてしまっていたりしたわけで、心はわたわたとしていたには違いない。
忘れ物については、本当に申し訳ありません、だけなのだけれど。
真っ白なスペースで、諸々と準備をして華やかなタイパンツに着替えて撮影が始まる。
本番の紙に筆をおいて、私は、ヤバイ、と思った。
その瞬間にあり得ないくらいにドキドキと動悸がして、震えは腕から手へ、筆へ、穂先へと伝わった。
書けない。
10文字ほど書いたところで「止めてください」と言って止めてもらう。
そこから何度も何度も近くの要らない紙で試し書きをした。
しかし本番の紙に筆を乗せようとすると、またもうあり得ないくらいにドキドキとし始める。
結局、私は言い訳をしながら「すみません、ごめんなさい」と言い続けて1時間半くらい浪費した。
音楽を変えてもらったり、トイレに行ったり、色々しても震えは止まらなくて書けなかった。
気を使ってくれて、お昼にしようと、何もしてないのに休憩になる。
昼休憩も、「私がこのあと書けなければ今日のこのスタジオ代も人件費も全部無駄」というプレッシャーが一人勝手にのしかかって、買ってきてくれたカツサンドが半分くらいしか喉を通らない。
正直こんなに緊張するとは思わなかった。
何に緊張しているのかすら、「良いものにしたい」と思うこと以外にはなかったのに。
いつもやっていることをやればいい、ただそれだけのこと。
それができない。
さらに悪いことに、穂先の長い筆にしてしまったために震えるともろに字に出てしまう。
たぶん、私がこんなにも緊張していることは見ただけではよく分からないだろう。
顔と態度がそもそも小心者には見えない。
しかし、根っからの小心者であることは一緒にいた友人はもちろん知っていたし、この日の私の挙動の危うさも見ていただろう。
お昼休憩が終わる頃、アシスタントでいた役者の卵の女の子が「紙はあるのでとりあえず本番用紙に練習したらいいじゃないですか」と言ってくれて、私は結果的にそれに救われた。
そうか、とりあえず何とか気を落ち着けて本番用紙に練習で書き始める。
アシスタントも友人も更に気を使ってくれて、普通に世間話的にうるさい方がいいよねと、そんな環境も演出してくれた。
練習と書き始めたその紙で、何とか進みそうだったのでそのままカメラを回してもらう。
とりあえず私が書く部分の撮影はそれで終わり、あとはその他の撮影を行う。
その後は滞りなく、片づけまでして終了。
なんて迷惑な奴だったろう。
だけれど、私としては本当に良い経験をさせてもらった。
改めて自分の極度な小ささも改めて認識できたし、もし何かで人前に出るようなことがあればもう少し準備できることもあるだろう。
まあ場数を踏むことが最も有効で、ほとんど唯一な方法のような気もするけれど。
撮影した映像はYouTube上に後日アップされる。
それはそれで、私は自分をまじまじと見ることをほとんどしないので、恐ろしく恥ずかしいかもしれない。
私はいつも自分という容姿から逃げている。
書は、このように撮影やパフォーマンス書道などでなければ、私という人間性は反映されても容姿は写らないから、そういう意味では楽である。
しかしながら思うのは、今回の作品は私がメインではないけれど、やはり表現の世界というのは私にとって「嬉し恥ずかし」の世界であって、火がついてしまいそうな恥ずかしさをも超えて露出したいものがあるのであれば、そうするしかないのである。
それは「嬉し」の世界であることもささやかながら経験している。
そして自分がもっと恥ずかしいことをしたがっていることも知っている。
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