つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

ミニーちゃんの手招き

2014-02-19 00:00:49 | 日記
初めて人前で、というかカメラの前で書を書かせてもらった。
一応事前の準備は私としてはかなりやったつもりだったし、最終的な納品物は事前に仕上げていた。

スタジオは目黒川を望む日がさんさんと降り注ぐ申し分のない場所だった。
撮影の場所がどうにも真っ白で、目が眩むほど真っ白で、音も私も吸い込まれそうだった。
外では、積もった雪が道路脇に寄せられていて暖かな日差しに雪解けしていた。

私は自分が小心者であることを理解しているつもりだ。
人前で喋ることも、歌うことも、退職するときの挨拶ですら、とてもとても緊張する。
自意識過剰、といったらそれまでだけれど、緊張するのだから仕方がない。

幼い頃も、ピアノの発表会やマラソン大会や英語のスピーチコンテストなどの前日は死ぬほど緊張していた。
とにかく緊張することが大嫌いで、それがまた緊張を煽って、本当に当日の朝気持ちが悪くなったりしていた。
ただ本番で失敗して恐ろしいトラウマになった、という経験はなくて、ただただ人知れず緊張していた思い出ばかりが色濃く残っている。
それからと言うものの、大人になればなるほど緊張する事態を自分で避けられるのでとりあえず避けられるものは全力で避けてきた。
こういうのはおそらく事前の準備と、あとは場数によって解消されるのだとは思うけれど、そういうことはしてこなかった。

今回、撮影をしてくれる人はほとんど知り合いだし、人前といっても編集可能なカメラの前なので前日にはさほど心配はしていなかった。
心配事といえば朝9時の集合で、私は前日というか当日の夜というか朝、何時に寝られるかだけは心配だった。
それもとりあえず3時半には寝つけた。
朝の段階でも特段緊張しているということはなかった。

でも思えば、私は必要な道具である墨池と朱墨を家に置いてきてしまっていたりしたわけで、心はわたわたとしていたには違いない。
忘れ物については、本当に申し訳ありません、だけなのだけれど。

真っ白なスペースで、諸々と準備をして華やかなタイパンツに着替えて撮影が始まる。
本番の紙に筆をおいて、私は、ヤバイ、と思った。

その瞬間にあり得ないくらいにドキドキと動悸がして、震えは腕から手へ、筆へ、穂先へと伝わった。
書けない。

10文字ほど書いたところで「止めてください」と言って止めてもらう。
そこから何度も何度も近くの要らない紙で試し書きをした。
しかし本番の紙に筆を乗せようとすると、またもうあり得ないくらいにドキドキとし始める。

結局、私は言い訳をしながら「すみません、ごめんなさい」と言い続けて1時間半くらい浪費した。
音楽を変えてもらったり、トイレに行ったり、色々しても震えは止まらなくて書けなかった。

気を使ってくれて、お昼にしようと、何もしてないのに休憩になる。
昼休憩も、「私がこのあと書けなければ今日のこのスタジオ代も人件費も全部無駄」というプレッシャーが一人勝手にのしかかって、買ってきてくれたカツサンドが半分くらいしか喉を通らない。

正直こんなに緊張するとは思わなかった。
何に緊張しているのかすら、「良いものにしたい」と思うこと以外にはなかったのに。
いつもやっていることをやればいい、ただそれだけのこと。
それができない。
さらに悪いことに、穂先の長い筆にしてしまったために震えるともろに字に出てしまう。

たぶん、私がこんなにも緊張していることは見ただけではよく分からないだろう。
顔と態度がそもそも小心者には見えない。
しかし、根っからの小心者であることは一緒にいた友人はもちろん知っていたし、この日の私の挙動の危うさも見ていただろう。

お昼休憩が終わる頃、アシスタントでいた役者の卵の女の子が「紙はあるのでとりあえず本番用紙に練習したらいいじゃないですか」と言ってくれて、私は結果的にそれに救われた。
そうか、とりあえず何とか気を落ち着けて本番用紙に練習で書き始める。
アシスタントも友人も更に気を使ってくれて、普通に世間話的にうるさい方がいいよねと、そんな環境も演出してくれた。

練習と書き始めたその紙で、何とか進みそうだったのでそのままカメラを回してもらう。
とりあえず私が書く部分の撮影はそれで終わり、あとはその他の撮影を行う。
その後は滞りなく、片づけまでして終了。

なんて迷惑な奴だったろう。

だけれど、私としては本当に良い経験をさせてもらった。
改めて自分の極度な小ささも改めて認識できたし、もし何かで人前に出るようなことがあればもう少し準備できることもあるだろう。
まあ場数を踏むことが最も有効で、ほとんど唯一な方法のような気もするけれど。

撮影した映像はYouTube上に後日アップされる。
それはそれで、私は自分をまじまじと見ることをほとんどしないので、恐ろしく恥ずかしいかもしれない。
私はいつも自分という容姿から逃げている。
書は、このように撮影やパフォーマンス書道などでなければ、私という人間性は反映されても容姿は写らないから、そういう意味では楽である。

しかしながら思うのは、今回の作品は私がメインではないけれど、やはり表現の世界というのは私にとって「嬉し恥ずかし」の世界であって、火がついてしまいそうな恥ずかしさをも超えて露出したいものがあるのであれば、そうするしかないのである。
それは「嬉し」の世界であることもささやかながら経験している。
そして自分がもっと恥ずかしいことをしたがっていることも知っている。







判断

2014-02-18 14:51:11 | 日記
ワインが本当にだめになってきた。
赤ワインが体に合わないことは少し前からそうだったのだけれど、どうやらあまり白ワインも良くないらしい。
悪酔いをしてしまうし、翌日の疲労感、倦怠感が強い。
葡萄酒がだめなのか、ブドウがだめなのか、今度ブドウだけたくさん食べて実験してみようと思う。

ワインの会社に勤めていたくらいワイン好きないもうとにこのことを話すと、曰く「ワインは高いものに限る」ということらしい。
「安ワインを店で飲むからいけないのだ」と。
醸造や精製の過程が違うらしく、悪酔いしてしまう人も高級ワインであれば問題はないと言う。
アルコール問題は別にして。

いもうとが言う「高いワイン」というのは、デパートなどで買っても5000~6000円、飲食店で飲むと1万とか2万とかするものである。
もっとも、ワインの高いものはもっとべらぼうに高いわけで、「高い」という中で美味しく悪酔いせずに飲める下限金額がこのくらいらしい。
いもうとは輸入原価で良いワインを買うことができるので、いもうと経由でそういう「高いワイン」を飲ませてもらうことがよくあるのだが、確かに「高そう」な味はする。

世の中の「高いもの全てが良品」であるなんてことは絶対にないわけだけれど、ワインに関しては飲むのなら高いワインを飲むべきだ、といもうとは主張する。
一理ありそうだ、ということを私は体で知っているけれど、普段そこまで高いものを飲みたいと思うほどワインが好きなわけではないので、これからはワインは控えようかと思う。
ただ、「酔える」という最初の状態にはワインが一番持ってきやすい。
まあでもそこから気持ち悪くなって、夜も眠れず、翌日まで支配されるくらいならやめた方が良い。

私の体が消化しづらい食べ物というのはいくつかあって、牛肉やチーズ、ワイン、フレンチ料理全般。
いずれもアレルギーではないので、一定量を越えなければ全然問題はないのだけれど、要は脂気の強い西洋料理全般はあまり体に合っていないらしい。
けいこがこのようなことを昔からよく言っているのを聞いていて、アレルギーでなく食べ物が体に合う合わないということがあるのか、と他人事に思っていたけれど今ならよく分かる。
これは明らかに年のせいだと思われる。

だから私が自分で作るものは基本が和食になる。
よく考えてみても、自分で作ったものを食べているときが一番平均満足度が高い気がする。
それは、お味噌汁にごはん、鶏肉と白菜の煮物、納豆、鯖缶、焼うどん、水菜と油揚げの煮びたし、のようなそんな粗食で、それが体に合っていて且つとても好きだということだ。
納豆も鯖缶も自分で作ってないけれど。

これは自由業になってほぼ自炊の毎日で身に染みて分かり、そんな生活を可能にした良いことのひとつである。


以前空港で何となく買ったクロレッツのガムを出かけに1粒口に入れていく。
ガムを噛むと、ミントのせいでびっくりするほど余計に寒さを煽ってしまった。
瞬間的に体に震えが起こる。


今日は自分の句。
途端に恥ずかしくなるのはなぜだろう。





それならそれで

2014-02-15 21:02:32 | 日記
昨日、ツタヤのレンタル期限が過ぎてしまうものがあったので、降り積もる雪の中返しに行こうと思っていた。
しかし建物の扉を開けようとしたら入口の10センチほどの段差まで雪が積もっていて、扉も、がががが、と開けなければならないくらいだった。
先日の雪のときも私は一歩も外出していなかったので知らなかったが、長靴が欲しいとみんなが言っていたのはこういうことだったのか。
自転車のかごいっぱいに雪が積もっている。

深夜も深夜、寒いも寒い、雪も雪、とこんなにも悪条件が重なったので、延滞料金を支払うことを決めた。

翌日、延滞料金はいくらだろうと恐る恐る返しに行くと、レジの数字に1,400円と出た。
あーあと思いながら払おうとすると、「雪が酷かったので延滞料金はいただきません」と言われた。
あぁ、嬉しい。
よかった。

その足で、上野の東京都美術館まで東京書作展の選抜作家展を見に行く。
この展覧会は「選抜」と言われるだけあって、一定の得点を持った人しか出品できない。
といっても、毎年出していればなんてことはない得点で、私も一応出す資格はあったのだが、出品料が高いのでやめた。

私は最近、私が通う教室の創始者が作った作風は、「書で自分を表現するための最も幅の広い書風」というふうに理解することにしている。
「最も」というほど他の書風を知らないかもしれないけれど、結局字は記号だから読めなければならない以外には決まりごとなんてないはずで、好きにやればいい。
しかし、「書作品風」に見せるにはいくつかの要素があって、それを上手く踏まえた上で、動きを最大に自由にできるということが必要になる。
それが創始者の書風は可能にしているような気がしている。

もっとも、その域から出られないというのは、新しい価値やスタイルを生む芸術家のタイプでは明らかにない。
というか、そんな大それたことを自分に当てはめて言う資格など露もないし、これは一般論だ。
それを目指す人もいるだろうけれど、私が重んじるところはそこではない。
まあただ、やる中でルールからはみ出ようと試みることもまた忘れてはならないとも思っている。

大切なのは、勇気と遊び心だ。

展示作品を見ていてつくづく思うことは、やはり「“自分”でなければならない」ということだ。
全体を通して上手いかどうかというのも見てしまうけれど、より“自分”が出ていそうな作品が気になる。

一番印象に残ったのは、一昨年退職された先生の作品だった。
潤滑がほどんどなくて比較的大きめの字で太ぶとと、たっぷり真っ黒に書かれていた。
作品の見せ方の一つとして、墨の潤滑(墨が入っている箇所と、掠れる箇所を比較的極端に出す)ということがある。
しかし、この先生の作品は終始たっぷりの墨で紙が真っ黒だったのだ。

いかにも“自分”といった妖艶な字を書く先生だけれど、こんなに真っ黒な作品は初めて見た。
それでいて、もちろん流れがあって、きちんと終われている。

良いものを見た、という気がした。

他の書道団体の展覧会もいくつかあってそちらも見たかったのだが時間切れになってしまった。


マーシー「ガタガタゴー」
放送禁止用語入りである。






敬意と素直と敗北感

2014-02-14 16:21:04 | 日記
そろそろ真剣に、また展覧会について考えねばならない。
まあ別に、展覧会でなくても好きなように書けるわけだから特段悩むことはないのだけれど。
それでもやはり、大きな会場に展示されることや、大金を払って書くわけなので規模的に大きなことをしたくなる。
というかそれをやらねば展覧会でなくてもいいわけだから。

それに、普段書いているものは大抵2枚書くだけなので、内容を詰めるところまではいかないことが多い。
とは言え、2枚目の出来が最も良くて、それ以降はダメになるパターンが多いのでたくさん書けばいいというものでもないけれど。
あとは先生の批評ももらえるから、それはありがたい。
自分が良いと思えば良い、というのは最終的な地点で、私は先生の言うことが的を射ていることを十分に知っているので意見はもらいたい。

53×234の紙を3,4枚。
横段での展示にすることは決めた。
あとは詞と構成。

無論、詞は甲本ヒロトか真島昌利のものにする。
他にも好きな歌詞や、谷川俊太郎の詩なども、もちろん書きたいと思えるものはたくさんあるけれど、私にとっての甲本ヒロトと真島昌利の詞は別格過ぎてまだまだ他のを選べない。

最近展覧会用に何を書こうか、曲を聴きながらなんとなくイメージをしていた。
結局一貫して私は、ぎゅうっとなりたいというだけなので今でもそうなるものを気に留めていた。

「月の爆撃機」
「旅人」
「日曜日よりの使者」
「平成のブルース」

これまで2回「情熱の薔薇」と「リンダリンダ」を展覧会で書いたけれど、このときもこれらが候補に挙がっていた。
実際に、「月の爆撃機」も「日曜日よりの使者」も既に書いたことがある。
今回追加になっているのは「平成のブルース」

「平成のブルース」は9分あまりのマーシーの長い曲。
ブルースなので滔々と長い詞を書くのも面白いかなと思う。
フレーズの繰り返しはどれをとっても避けられないし、そのための挑戦が「リンダリンダ」だったはずだ。

「旅人」は「プルトニウムの風に吹かれていこう」から始まるので、ああいう場においてはなかなかインパクトがあるかと思うが、私はそれほど力を込めて原発について叫ぶことはないので誤解されると困る。
主旨が原発の歌では全然ないのけれど、インパクトとしてそちらが取られてしまうことも否めない。

迷う。
どれも好きすぎて迷う。
本当に迷う。

構成も、ただ普通に書くことからは冒険心のある、はみ出たものにしたい。
少しでもいい、私的な新しさは欲しい。
何か絞り出てくるものがあるといい。


また雪が降っている。
けいこが来る予定だったけれど、キャンセルになった。
隅田川のライン下りがしたい、ということだったのだが、この寒いのになぜそんなことがしたいのだろうか。
それに、東京に10年いる私が隅田川のライン下りがあるなんてこと一度も聞いたことはなかった。

雪や雨でライン下りができなかったらどこかの美術館でも行こうと話していたが、良さそうな展示がやってなさそうだったので、前々から行かねばと思っていた書道博物館に付き合ってもらおうと思っていた。
ついでに選抜作家展の書作展に書道のはしごでもしようかと思っていた。
けいこはアートはそれなりに好きだけれど、特段書道が、ということはないし、幼い頃けいこの書いた字のせいでいくつか漢字を間違って覚えていたくらい、適当な字を書く。

それと、そろそろ私の自由業の話でもしようと思っていたけれど、先延ばしならそれでも全然構わない。
けいこは私のところよりも孫のいるいもうとのところへよく行っているみたいなので、いもうとが先にそれを喋ってしまわないかが心配である。

「こっちは霙が雨に変わったよ」とメールが来ていた。
あのあたりは温暖なのだ。


またお借りしています。
次は自分の句を書きます。




フィルター通して発射

2014-02-12 01:48:53 | 日記
「BECK」
監督が堤幸彦さんということを知らずにいたけれど、そうであるなら見なければと観てみる。
青々しい青春バンド映画。
しかし、堤さんらしい奇妙な効果音の使い方や、飲み込まれていく走馬灯のような映像シーン、どこか滑稽で壮大な設定、くだらなく愛すべきギャグが散りばめられた映画。

有吉が熱狂的なファンとして奇抜な格好でちらっと出演していたり、フジロックの苗場の会場が出ていたり、いろんな要素で面白い。
それに、ギターの演奏が上手くても下手でも見たい私は、たくさんのロックっぽい音が聞けて、たくさんの演奏が見られてそれだけでも楽しめた。
ギターをかじる身としては、弾き方を見てみたり、それは弾いていないだろうと分かってみたりするのも面白い。

堤さんは私のイメージでは、全体的にキッチュだ。
私は決して卑下してもいないし揶揄してもいない。
キッチュな堤さんの作品が好きだ。

ひどいギャグだったり、意味もないハチャメチャさだったり、やりすぎのばかばかしさだったり、しかしそれをやり抜くことによって良い意味の気抜け感を与える。
「こんなことをやって変に思われないだろうか」という一時の懸念は大昔にあったかもしれないけれど、もうそんなことはとうに通り過ぎているだろう。

これは熱く真面目な何かを自分で茶化すようなことで、そしてくだらなく単純に面白いことが好き、そんなところだろう、と私は勝手に思っている。
実際のところどうなのだろう。
そういうことが、私の好きな“お茶目感”だから、私が良いように解釈しているというのも大きい。

肝心のバンドの天才ボーカル、佐藤健演じるコユキの声は最後まで流れることはない。
このことが批判を食らっているようだけれど、私はこれで良かったのではないかと思う。
佐藤健はあくまで俳優であって歌手ではないし、ボーカルが入ってしまったら歌は完成してしまうわけだし、完成してしまったらその歌が評価の対象になってしまう。
演出云々は置いておいたとしても、ボーカルは入れられなかっただろうと思う。

それに、“青春”とか“ロック”とかの“イメージ”を伝えたかったのだと思うから、そういう意味でも特に必要なかったし、重要ではなかったと思う。
またこれは私の飛躍的意訳かもしれないが、ロックのメッセージというのは「自由」や「自分」という要素が入っているから、「あとは各々好きなように完成させてくれ」もしくは「お前自身でやれよ」ということだったようにも思う。

エンディングがオアシスの「Don't look back in anger」で、私はこの曲をハイロウズの「アネモネ男爵」ほどに聴いているのに、エンディングロールを見ながら食い入るように聞き入る。

最近観たバンド映画の「リンダリンダリンダ」は青春時代の男女問わずのもどかしさや気怠さの雰囲気がよく出ていたけれど、「BECK」は完全に男の子たちの青春、音楽バンドを描いている。
男の子の青春物語を見ると、私は少し複雑な気持ちになる。
まあでもそれも認めて私である以外にはない、というところにいつも落ち着くのだけれど。


くるり「ハイウェイ」
初めて横書きをしたように思う。
書を壊すという意味は毛頭なくて、この詞のイメージが横書きだったのだ。

これはこれで面白かった。