つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

烏滸がましいわ

2014-02-11 01:54:57 | 日記
何だかとてつもない人と話をしていた。
別に私は相手がどんなにお偉い人であっても、比較的怖気づかずに話す。
それは良い場合と悪い場合と、たぶん半々だろうと思う。
しかし実際には私はお偉い人が、お偉いと立てないことで非礼だと怒ったり不機嫌になっているのを見たことはない。

私の思いとは別物で身体が動く人だったけれど、私は本当に自分の怠慢さと情けなさを恥じたし、何も言えなかった。
こんなに良い意味で打ちのめされたのは久しぶりだった。

もっとも、それでも私は結果的にロックンロールについてに持っていって消化できそうなものを愛してしまうだけだけれど、他の人がそう考えないことは問題ではない。
ただ単純にロックンロールの話ができることはかけがえのない貴くて愛しいことではあるし、本当のことが見えずに既成概念を自分のものとして押し付けられることは酷く嫌うけれど。

「尊敬している人はいますか?」と聞いたらもうそれは即座に「俺」と言った。
ついでにガハハと笑ったけれど、どこからも文句のつけようもないくらい努力と研鑽をしている人だから、私は「素晴らしいですね」としか思えなかったし言いようもなかった。

そしてやはり思ったのは、「覚悟ある表現者」というのはある大きな欠如を抱えている、ということだった。
そういう意味でその人は、大きな意味でのプロデューサーであってどうしようもないアーティストではないのだろう。
しかし天然の能力に加えて、努力の仕方が人と比べて半端なくて知識も情報量も膨大なものだから、たくさんの分野においてその辺のアーティストをも抜いて一通りはできるようになってしまうのだと思う。

そういうふうになりたいと私は全く思わないけれど、とても偉大なことだ。
実際にやっている、完遂している、というのはできそうでできない、ありそうでない。
たとえ、時間との勝負だ、と眠ることを捨てたと言っても、本当に眠らないでいることは難しい。
真剣白刃取りのように、本当に真剣を使っていると仮定して行動することは難しい。

ちなみに、「覚悟ある表現者」は私風に言いかえると「本物のロックンローラー」というふうになる。
「覚悟ある表現者」に、「本物のロックンローラー」に、いつか私もなりたい。


間違えてアメリカ産の玉ねぎを買ってしまって、それでもおいしければいいかと思っていたけれど、案の定それはおいしくなかった。
玉ねぎの皮の噛み切れない感じが、玉ねぎの身の部分にもある。
何となく、玉ねぎ臭さというか、甘味にも欠けるような気がする。
もう買わない。

「ふぞろいの林檎たち」は時々シリアスなコントみたいに見えてくる。
登場人物の女性たちは、女性だからと言って卑下されたり軽く扱われることを嫌い、男の言いなりには絶対にならないという我の強い女性像だ。
その男女のやりとりを山田太一の独特の言い回しを使って言うと、なんとも笑ってしまうことがある。

「もっと女らしくなれ!!」
「男の言いなりになれって言うの?!できっこないわ!!」
「このタコ!!」
「失望したわ、失望しちゃったわよ」

と中井貴一(良雄)と石原真理子(晴恵)がいたって真剣にやり取りするものだから、見ていて飽きない。

この確立された世界観には脱帽である。


先生の俳句をお借りしました。
「問う」は「問ふ」の方が、書的にバランスが取れそうだったので変更させていただいています。
「寒鰤の~」の方もお借りします。





透明な言い訳

2014-02-09 03:06:53 | 日記
降り始めた雪は瞬く間に一面を白く覆っていった。
窓から見ると、私の取り戻した愛車が倒れて、どんどんとこんもり雪が積もっていった。
やがて私の愛車は雪漬けになった。

ちなみに今日の写真の雪景色は、先月の金沢に行った帰り道、越後湯沢のあたりがあまりにも雪深かったので車中から撮ったものである。
息を吸い込むと肺が冷える、そんな空気が今日の東京にもある。

外が吹雪いている中で、私は一日中書を書いていた。
自分の不甲斐なさとか、ちっぽけな美意識とか、とても単純で且つ重要な発見とか、そんなものと向き合う。
雪だからと、昨日から行かないと決めていた書道教室の提出物もすべて済ませる。

一日中書を書いていた気になっているけれど、ごはんも食べたし「ふぞろいな林檎たちⅡ」も5話分くらいは観た。
新しく借りた18枚のアルバムの音楽もiTunesに取り込んでいた。

夕方に3回、停電になった。
ブレーカーが落ちたのかと思って見てみるも、そうではなさそうだった。
辺りを見回してみても向かいの介護施設のような建物には電気が点いているいるし、その隣りのビルの明かりも灯っている。
となるとこの建物自体が停電かとドアを開けてみると、やはり共用部の電気も消えていた。

原因はよくわからないけれど、古い建物なので、雪でどうにかなったのかもしれない。
「雪でどうにかなった」と想像してみるものの、電気が建物に対してどういう構造なのかさっぱりなので、全く見当がつかない。

3度とも数分で勝手に電気は戻った。
停電になって、この寒い中一晩中電気が使えなかったらどうしようと、この後の停電に備えて暖をとるためにお湯を沸かしておこうかとか、携帯を充電しておこうとか、大家さんの電話番号を探しておこうとか、マンガ喫茶に行こうかとか、お風呂に入って早々に寝てしまおうとか、色々とぼんやり考えた。
しかしどれも実行に移すことなく、電気は安定した。

あのまま停電していたらどうなっていただろう。
想像すると結構大変なことで、寒さに耐えられずにマンガ喫茶に行くのが一番有力だったかもしれない。

私は停電にほとんど焦ってはいなくて、たぶんものすごく危機的な状況になってからでないと動けないのだなと思う。

ホットケーキが食べたくて、ホットケーキミックスと牛乳と卵を買っていたのに、ちょうどバターを切らした。
マーガリンもない。
イメージのホットケーキができないと思って今日はホットケーキを諦める。

しかし一歩も外に出なくても十分な食料は家にあってよかった。


バーズというバンドを初めて聴いて、ストーンローゼズみたいだと思った。
2つのバンド名を入れて検索してみると、やはりストーンローゼズはバーズに影響を受けていたらしい。
テイストや、手触りというのは重要なことだと思っているので、今までこんなことが私に分かるはずもなかったことから考えて、こういうことは嬉しい。

新しくアルバムをたくさん借りるけれど、実際にはあまり真剣に聴いていることはなくて、しかしそれでも「ロック海の海図」を私なりに作りたいとは思っている。
その中に超ラッキーで、また私を震わすものに出会えたらいい。

どうしてもこれまでに見つけた大好きなものを聴きがちになってしまうし、それはそれで悪いことではないけれど、「音楽を聴く」という行為は、他のことをしながら聴いていても案外時間のかかるものなのでなかなか自分に取り込むまで聴くことが難しい。
お風呂で湯船に浸かっているときに聴くようにしようと思っていたけれど、そもそも湯船に浸かる習慣が根付かない。


先ほど書いたくるりの「ロックンロール」。
これを書くまでは、くるりのアルバム「さよならストレンジャー」を聞いていた。
最近岸田さんについて興味深く思っているけれど、私が射抜かれるのは、このような感覚を持った人で、おそらくもっとお茶目感たっぷりの人なんだろうなと思う。
いや、岸田さんのことは知らないけれど、目に見えて強いお茶目感を出す人ではないのかと思う。

くるりの「ロックンロール」を書くのに、くるりに黙ってもらって、二―ルヤングを流す。
意味を感じやすい言葉を書くときに、私は引っ張られてしまう音楽は流せない。





トライトーンの海

2014-02-06 18:11:25 | 日記
また自転車が撤去されてしまった。
ここに越してきて3度目である。
と、そんなことは公に言うものではないけれど。

今度は区をまたいでいて、私の住む区の撤去料は2000円だったのに対し、そこでは5000円だ。
しかも警告はなく、一発撤去となる。
私が悪い、確かに悪い、と乗ったことのない東武東上線の、降りたこともない北池袋まで愛車を迎えに行く。

北池袋駅は池袋のすぐ隣りなのに、なんとも下町な感じで、「孤独のグルメ」の井之頭五郎がまさにいそうな商店街があった。
「孤独のグルメ」は大好きだけれど、私はあまり下町の商店街そのものに惹かれることはなく一人で立ち入ろうとも思わない。
だから、雰囲気だけ一瞥して自転車保管場所へ向かおうと遮断機の下りている踏切を待つ。

東京には「あかずの踏切」があるというのは何となく耳にしたことはあったけれど、実際に私が10年東京にいてそれに出くわしたことはなかった。
それは、それだった。

最初は「あかずの踏切」とは思っていないから通常通りに待っているのだけれど、1つ電車が過ぎ、反対から電車が過ぎ、鳴り止まない踏切の音に辟易とし始めた頃に、「あかずの踏切 北池袋」とgoogleで検索してみる。
やはりそうなのか。
向こう岸に渡る鉄橋なども見渡す限りでは見当たらない。

おそらく、この近隣の人はそれを知っているのだろう。
一人二人と踏切が開くのを待っている人が増えるけれど、車は大渋滞というふうにはならないしそれほどまでに人は溜まって行かない。

電車が右から左から何往復も通り過ぎるのを待ちながら、向こう岸の人の居場所と交換できたらいいのに、とぼんやり考えていた。
そういえば、私は小学校の通学路でも同じことを考えていたことを思いだす。

向こう岸のあの人と、こちら側の私の今の要求は全く等価値で交換できる、双方にとってメリットしかない対等な交換だ、だから交換できてもいいではないか。
小学生の頃にこんな言葉で考えてはいなかったけれど、そんなことを思っていた。
「だから」という順接はおかしいのだけれど、「私はあちら岸に行きたい、あの人はこちら岸に来たい」ただそれだけの需要と供給は、双方の願いが一致しているのだから叶うのではないか思っていた。
もちろん、そんなことは叶わなかったし、小学生の私も本気ではなかったけれども。

そうこうしているうちに遮断機は上がった。
しかし、驚くべきことにそれはほんの一瞬だけで、踏切を走っても渡りきれない間にまた遮断機が下りた。
正確には、片側ずつ遮断機が時間差をもって上がり、両方が上がりきっている間もなくまた下りてきたのだった。

この区の自転車保管場所はまるで牢獄のようだった。
高い灰色の塀に覆われていて、半開きの背の高い門は私が一歩踏み入れると大きくて激しくはない警告音が鳴った。
係員の人が3人も出てきて、自転車を出してくれて、書類を書いて、5000円を支払った。

帰り道、注意深く地図を見て、行ったり来たりしながら進む。
昔いもうとと住んでいたところの近くで、何となくそのマンションを見たくなって寄ってみる。
ステンドグラスのあるそのマンションは健在だった。
写真を1枚撮っていもうとに送る。

なぜだか、ということもなくその理由も自分が一番よく知っているけれど、大好きな部屋だったけれど私はここにいた頃、今よりもずっと寂しい思いをしていた気がする。

買い物をして家に戻って、買ったばかりのごま油の瓶がぬるっとしている。
卵が3つ、割れていた。
袋の中だったので惨事は免れたけれど、割れた卵をそのままボールに移して作るはずのなかったオムレツをその場で作り始める。

買ったはいいが使い道がよく分からないブロッコリーを入れてみる。
ブロッコリーは大木を切り分けているようで、自分が巨大になった感じがした。

ものすごく良いことがあったわけでもないし、まだ巨木のオムレツは食べていないし、どちらかというと災難の日かもしれないのだけれど、こういうのは私のちょっとした愛すべき日常なのである。


いろはにほへとちりぬるを わかよたれそつねならむ
ういのおくやまけふこえて あさきゆめみしえひもせすん

ひらがなの元の漢字。
完全に備忘録。






漆黒の美意識

2014-02-05 00:26:27 | 日記
ここ何日間か、色々と重なって少しまずい時間帯へと睡眠時間がずれこんでいる。
これから日が昇るのが早くなるにつれて、空が白むのが早くなって、完全に明るくなってから寝るのはさすがに良くないなどと懸念していたのだが、既に何日かそうなってしまっている。

仕事として携わっていることも流動的で、しかし私が重視しているコミュニケーションや趣味の世界は何としても譲れない。
基本形が怠惰な私は、睡眠も休息も気を抜いた娯楽も欲しい。

そんなことを好き勝手やっていたらちょっと良くない感じになってきた。

しかし例えば普段12時に寝る人が、休みの前に夜更かしして朝方4時や5時に寝ることは、今通常に5時に寝る人が9時や10時に寝るのと一緒のことだ。
というふうに考えることもできなくはないのだけれど、朝9時や10時や11時に寝ると起きるのが夕方の日が暮れた頃になって、それは明け方に寝る罪悪感よりも恐ろしく酷い。

歯止めをかけるべく、部屋の掃除をして、空っぽの冷蔵庫に野菜や肉や納豆や豆腐を補充して、今年何株めかの白菜を豚ひき肉と一緒に煮る。
溜まっているのも嫌なので、必死で仕事もする。


「奇跡」
くるりの岸田さんが映画全体の音楽を手掛けている映画。
この「奇跡」はくるりの曲としてもエンディングに使われている。
物語のあらすじから質感まで、全てがこの「奇跡」という一曲に入っている感じの曲。

九州新幹線が開業して、博多から南下する“つばめ”と、鹿児島から北上する“さくら”の2つの新幹線がすれ違っているときに願い事を叫ぶと叶う、奇跡が起こる、ということを信じて子供たちの無謀な計画が始まる。
主人公の2人の小学生の男兄弟は、両親の離婚でそれぞれ父と母のもとでそれぞれに暮らす。
お兄ちゃんの方が「もう一回4人で暮らしたい」という願いをずっと持っていたのだけれど、離婚の原因にもなったお父さんの“世界”というものを何となく体で分かって、皆が新幹線の通る騒音の中で叫んでいるのに、お兄ちゃんは何も叫ばない。

いつでもそのままで 泣いたり笑ったりできるように
曇りがちなその空を 一面晴れ間にできるように

神様ほんの少しだけ 絵に描いたような幸せを
わけてもらうその日まで どうか涙を溜めておいて

言葉は転がり続け 思いの丈を通り越し
上手く伝わるどころか 掛け違いのボタン困ったな

あぁいつもの君は振り向いて笑う
ため息交じりの僕を許してね

退屈な毎日も 当然のように過ぎてゆく
気付かないような隙間に咲いた花 来年もまた会いましょう

さあここへおいでよ 何もないけれど
どこえでも行けるよ 少し身悶えるくらい


本当に、この曲の歌詞に集約された話だった。
たぶん、岸田さんが描き続けているロックンロールの話でもある。

お兄ちゃんが新幹線がすれ違うのに向かって叫ばなかったとき、他の子どもたちは騒音に負けないように必死に大声で叫んでいた。
私はそれを見て不意に目頭が熱くなった。
「キャサディキャサディ」でマーシーが叫んでいるのを見たのと同じ感じを覚えた。
自分が信じることに、あんなに必死に何も疑うことなく、あるいは何か少しの疑いを蹴散らすように叫ぶというどうしようもなさに打たれたのだと思う。
それは自覚的であっても、子どもたちのようにそうでなくても、私にとって震えることなのだなと思う。

全てが自分の心の中心が何であるかのメタファーに思える、とある人と話していた。
その人と話していると、いつもいつも、どんなときでも結局大きくたったひとつのことについて延々話している。
その大きくたったひとつのことを2人とも探し続けている。
その大きくたったひとつのことは日常に存在し得るもので、むしろとても日常に、というか自分に根差した話だ。
というか、紛れもなく日常の自分の話だ。

物理的な隔絶感だけではない隔絶感が膨れてきた私にとって、大きくたったひとつのことは、最大で唯一かもしれない癒しであって、その話が成立するという現象は格別で貴いことだと思う。

その人が言う言葉は、いつもとても印象深い。
その言葉たちも、詰まるところ、その大きくたったひとつのことを手を変え品を変え表現しているということなのだけれど。
後々、持ち帰って咀嚼しなければならない言葉が多すぎていつも脳内は満腹になる。

曖昧で掴みづらいことを的確に言葉にできる、ということは、その言葉の対象について自分の中である程度整理がついた状態だと思う。
何かに対する説明を怠っていると言葉は自在さが失われていくし、自由な思考も鈍る。

“うまいこと言いたい”という欲求は私の中に確かに存在する。






箸が休まるほど

2014-02-03 04:04:24 | 日記
創作において、放っておくとすぐに「狭い自分」に捕らわれて身動きが取れなくなる。
確かに、「せんはじゆう せんはどこにでもゆける」けれど、そのかじ取りをしている自分の意志がなくてはならない。
意志を重ねた上で、思いがけぬラッキーも起こる。

どう書いても、臨書してでさえも、結局全部がぜんぶ「自分」の域を出られることは一生ない。
しかし、何とか自分にとっての新しさが欲しいと思えば、「今の自分」の領域をストレッチ、ストレッチと伸ばして行く以外には「自分」を広げていく方法はない。
それに、ストレッチし続けないと、「元の自分」よりも小さくなってしまうことさえある。

だからこそ古典やその他の作品の臨書というのはとても大切なことだ。
それも、見るだけではなく実際に書いてみることだ。
書いた人の意志や呼吸を体に取り入れてみなければならない。

久しぶりに、私の通う書道教室の創始者の作品を臨書していた。
授業の中で何度も臨書したことはあるのだけれど、そこには確かに新しい風が吹いていた。

風は留まらないもので、一瞬ハッとするような風が吹いたとしても忽ち消えてしまう。
作品は、時間とともに色褪せていくのが常だ。

しかし、作品によってはずっと新鮮な風が吹き続けているように感じるものがある。
廃れずに一定の風を吹かせ続けることができているもの。
「殿堂入り」みたいな、そんな作品。

やることによって知れること。
やること以外には知れないこと。

進んで行くと、同じものにまた新しくもう一度出会うことができる。


私は色んなものを“今さら”見たり聞いたりすることが多いのだけれど、ドラマの中では私の中で最も“今さら”に「ふぞろいな林檎たち」を観ている。
山田太一の会話の世界は独特で、それぞれのキャラクターが、というよりはドラマ全体に漂う空気感にとても一貫性があって面白い。
比較的最近の「ありふれた奇跡」の方がその独特の言葉の世界観は出ていたけれど、山田太一の会話の世界はあまり曖昧な言い回しがなくて、ゆっくりだけれど丁寧に言葉を紡いで会話をしている、という感じがする。
ボキャブラリーが豊富でその使い方を自分の物にできていないと、ああいうふうには話せないように思う。

登場人物の、今でも活躍している中井貴一、時任三郎、柳沢慎吾、小林薫、吉行和子らが本当に若くてびっくりする。
若い、というのは「艶がある」ということかもしれない。

また、俳優たちの凸凹さというか、俳優の人間そのままの感じがよく出ている。
これは加工して画一化されていないという意味で、化粧やドーランも薄いし、歯並びや眉毛などもそのままであまり作り込まれていない。
時代が違うからということと、このドラマだからこその朴訥さがあるからかもしれないけれど、最近の俳優がいかに作り込まれキレイに修正をされているかがわかる。

それにしてもこれはシリーズ4まであるとは知らなかった。
全部は見ないと思うけれど、いつもと全然違う感じのものを観た感じがして満足だ。


ほんの少し体の調子がおかしいのは、先日の無茶が響いているせいもあるだろうけれど、たぶん花粉のせいもあるような気がする。
ここから丸々3か月ほど、冬よりむしろ好ましくない季節だ。