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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

自由の理

2005年01月02日 | たまにはまじめに?しっかりトーク
掲示板の運営に関して、しきりに「言論統制」というこわい言葉が使われる。使われ方を見ていると、「言論の自由」の意味をきちんと理解した上で使っているのか、疑わざるをえない。もしかしたら、大きな意味の取り違えをしておられるのではないか。

そもそも、「自由」の意味が、正しく理解されているか。日本語の「自由」には、おおむね3つの使い方があって、世間一般の誤解は、そのあたりに発する。しばらくお勉強にお付き合いを。

  1,自分の思うままにふるまうこと。(⇔規律)
  2,他からの束縛・強制をうけないこと。(⇔強制)
  3,他からの強制ではなく、自分の責任で行うこと。(⇔必然)

漢語に「自由」があり、韓愈の昔から使われている(『漢字源』)。
しかしそれはもちろん、近代の「自由」とは使われ方が違う。
当初の意味は、おおむね1,の「放縦」のニュアンスである。
つまり、日本人も東洋人の端くれだから、「自由」を「我が儘勝手」の意味によく使うわけだ。

ところが、西洋人の使い方には、1,のニュアンスは少ない。
libertyでも、freedomでも、主に2,3,の使い方だ。

1.の自由とはいかなるものか。
よく極端なたとえとして、「殺人の自由」「泥棒の自由」「カンニングの自由」「無免許運転の自由」などが、使用例として引用される。
これらは、いうまでもなく「権利」とは呼べない、むしろ「犯罪」そのものの行為であることは言を待たない。「犯罪」はもちろん「自由」であってはならないものだから、従って1,の意味での「自由」は、社会科学的な意味の「自由」とは区別しなければならない代物である。
「わがまま」と「自由」を履き違えるな、との教訓が良く語られるが、それを自分のものとして理解していない人がまだまだ多いのは残念だ。
西洋で呼ぶ時は、egoとか、それが社会制度になればanarchyとかになる。
1,の自由の反対語は「規律」である。
「無規律」を、自由とはき違える誤りが、そんなわけで長幼を問わず日本人に結構多い。
この掲示板でも、誹謗中傷レッテル貼り罵詈雑言いかなる言論でも掲載させろという類がいるが、あんたはアナーキストか、と言いたくなる。
アナーキーな掲示板もあるらしいが、それが好きならそこへ行けばよい。
少なくともこの掲示板は、「規律」を重んずる言葉の真の意味での「自由」な掲示板なのである。

さて次に、2,3,の真の自由の意味するところを確認しておこう。

2,の自由は、主に「自由権」という形で表現されるものである。
「自由権」(権利としての自由)は、言うまでもなく17~18世紀の市民革命で獲得されたものであり、政治分野の用語である。
身体の自由(故なく拘束されない、拷問・強制労働の禁止等々)、経済の自由(職業選択、居住移転、財産権等々)、そして言論の自由や思想良心の自由を含む精神の自由である。
これらは、封建時代には支配階層に独り占めされていたものを、人間は皆平等の理念に基づき、「強制」や「命令」を排除して万人のものとして獲得されてきたものだ。これにより、人間は自由を手に入れた、と称する。
就中、「精神の自由」は、生きるためにパンも体力も必要だが、考える葦である人間にとって、最も人間らしい自由なのである。
こんな自由を21世紀になっても使いこなせず、自分から権力の奴隷になりたがったり、逆に「自由」を我が物顔に履き違えて、いい気になってアナーキーやってる奴もいる。
2,の自由の反対語は、「強制・束縛」などである。
生徒や教師に、君が代への敬意を「強制」する行為は、いうまでもなく限りなく「不自由」な営みである。奴隷になりたくない、というのは、精神の自由から発せられる人間らしい叫びなのである。

3,の自由は、主に「自由意志」という形で表現される。
これは、哲学の分野でよく使われる自由である。
「鳥はいいなあ、自由に大空を飛べて」「水はその姿を自由に変える」
そんな表現から、動物や無機物にも、自由があると思いこんでいないだろうか。
水が、低きに流れるか、高きに向かうか、自分で選んだ上で低きに流れるなら、自由意志といえるだろう。だが、水は決して高きに向かうことはない。それが自然法則だからだ。自然法則とは「必然」であり、「自由」の対極の概念である。
動物が、自由意志で、空を飛んだり、獲物を追いかけたするのだろうか。残念ながら、それ以外の選択肢が、彼らにはない。それらは、本能に基づく行為に過ぎず、本能=自然法則=必然、であって、やはり「自由」の対極の概念というしかない。
ただ「人間」のみが、「自由な存在」なのである。なぜなら私たちは、時に「本能」に逆らってでも、「良心」「良識」「理念」などに基づいて、自らの行為を選択する。「必然」ではないから、「個性」があり、人間の数だけ「主体的」な人生があるわけだ。
「本能」に基づいてしか行動できない(幼児のわがまま、本能の奴隷…)人間がいるとしたらは、彼は畜生にも等しい、全く非人間的な存在であり、「自由」から最も遠いところのある存在なのだ。

お分かりだろうか。
上からの命令や権威の示すところに、自らの頭で考え検証し判断することをせずに、盲目的に服従するのは、人としての自由を放棄しているのである。
子どもたちに、刑罰などを用意して、権威への服従を迫るのは、人間の教育ではなく、動物の調教なのである。
あなた方は、子どもたちを、忠実な犬にしたいのか。
私たちは、子どもたちを、自由意志を持った人間に育てたいのだ。
自分が子ども時代に戻るなら、どっちを選ぶだろうね。

(「たまにはまじめにしっかりトーク」http://8710.teacup.com/kurage/bbs 12/30から転載)

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