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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

〝ムラ〟破る反逆精神 田原牧

2012年03月19日 | 日の丸・君が代関連ニュース
 ◆ 〝ムラ〟破る反逆精神
田原牧(東京新聞記者)さんの講演

 「日の丸・君が代」強制に反対!板橋のつどい2012が1月21日、東京都内で開かれた。都立板橋高校卒業式での元教諭の保護者への呼びかけを威力業務妨害とされた事件に端を発して始まったこの集会で、東京新聞記者の田原牧さんを招き、激動の2011年を振り返って講演してもらった。その要旨を主催者発行の『手と手と』から転載する。
 ◆ 自己決定と倫理を対置する
 2011年初めに、アラブ諸国で、民衆のデモによって独裁政権が倒れる通称「アラブの春」が起きた。2月11日、地域の中心であるエジプトで、ムバラク大統領が政権を降りた。ちょうどそのーカ月後に東日本大震災が起きた。ともに、世界史に書き込まれる出来事だ。東日本大震災では、歴史上最悪の福島原発事故が起きた。
 ◆ 原発事故の構造
 原発事故を通して、日本社会がよく見えてくる。原発というのは下品な装置で、人柱と未来へのつけが不可欠なシステムだ。人の命と引き換えに繁栄が成り立っている。下品なものだからやめなければならない。
 原発は、日本のムラ構造抜きにしては成立しない。

 9・19集会までは、原発がなくなるのではないかという雰囲気があったが、原発推進派は世間の風をみながらアクセルの踏み具合を考えている。持久戦になるが、原発依存をひっくり返さなければならない。
 ムラは原子力ムラに限らず、日本の至る所にある。成員が悪いやつばかりなら単純な話だが、そうではない。(ナチスの)アイヒマンは個人として怪物であるというイメージだが、「上から言われたからちゃんとやりました」というまじめな小役人だった。日本社会や原子力ムラも同じ。怪物一人なら分かりやすいが、多数の小役人がムラを支えている。
 原発地域格差や労働者の階層性など、差別の複合体として成立している。高橋哲哉さんはこれを「犠牲のシステム」と呼んだ。原子力ムラの成員も、まじめで保身にいそしむ小役人たちである。
 「日の丸・君が代」の問題も同じ。ファナティックに「ヒノキミ」をと言う人はそうはいない。都教委の役人「上から言われたからやらなければいけない。われわれは役人だから」というタイプが多数派。ムラの成員なのだ。個人として考えればこのシステムはだめだと思っても、集団の一員になると、しょうがないと考える。怠惰な精神の結晶が原発なり、ヒノキミを推進する役所の本質だ
 戦争責任と原発もそっくりだ。天皇の戦争責任をうやむやにし、「1億総ざんげ」になった。福島原発事故でそれを繰り返してはならない。責任を東電にしっかりとらせる。そうしないと、ムラ構造は変わらない。
 震災直後、日本人の忍耐強さが世界で称賛されたが、忍耐強いのではなく、異議が唱えられないだけ、と次第に評価が変わってきている。「すね男・ナショナリズム」への蔑視が強まっている。
 橋下徹大阪市長は「グローバル化適応人間」を育てると言っているが、彼の主張も基本的にムラの論理。海外に行くと、確かに日本人はグローバル的ではないと感じる。一対一での主張、会話ができない。どの国の人も、もっと自分の意見を言える。語学力の問題のみではなく、中身で負けている。基礎学力、常識力がない。力強さ、社会性もない。社会の一員であるという「公人」の感覚がない
 グローバル化とはそういう力をつけることだが、橋下の言っている改革は、社会的人間(成熟した公人)を作るのではなく、単なる労働力商品の量産で、その昔、中教審が言っていた「期待される人間像」の内容と同じ。当然、グローバルでも何でもない。
 ◆ 公の対置がカギ
 「倫」とはなかま・同類の意味。この30年間で「倫理」がやせ細った。「ヒノキミ」反対でも、何を対置するかが問題。私の考えは公人の感覚である。
 フランスでは高校生のデモが多いし、激しい。自治意識を若いうちから徹底して訓練する伝統がある。そうしないと公人ができない。今問われているのは、グローバル時代を迎えて、仲間・同類意識、人類としての意識をどれだけ育てられるかである。
 国家の「がんばれ日本」に対し、社会、人類の一員としての倫理をどれだけ対置できるのかが大切。その点が従来、ヒノキミ批判派の中でも軽視されていたように思う。
 ”KY”という言い方がある。これは「同化の脅迫」である。クラスの中で人の顔色を見て、自分がいじめの対象にならないように、小学校の中学年から意識している。ムラの論理であり、その先に国家がある。この流れをひっくり返さねばならない。
 ◆ 共存する倫理を
  「アラブの春」は美しくかつ醜い。チュニジア、エジプト、リビア、シリアでそれぞれ事情が違う。
 エジプトでは革命といいながら、貧困層や農村は静かだった。つまり関係なかった。その意味で、いまだ革命は途上にある。
 「アラブの春」は、フェイスブック革命と呼ばれ、情報伝達の発達が革命を促進したというが、ネット情報は革命にも反革命にもなる
 情報操作はいとも簡単である。シリアでは情報があふれるほどあって、どれも信用できない。これも一面だ。
 エジプトでは、前衛イデオロギーを捨て去り、参加者一人ひとりが自分で決めてデモに参加した。特定のスローガンはなく、今の政権は不正義だという現実を問題視し、自らが政治参加の主体となる機会を取りもどしたことが画期的だった。
 ここでは、他人と共存するための倫理(例えば「ごみを捨てるな」)を掲げた>。ごみを捨てる旧社会に対し、これまでなかった空間を対置した。その新しい社会で、人びとは生まれ変わる。自由の獲得とともに、新しい個人と、新しい人と人との結び付きを確認する試みが繰り返された。
 生き方が問われた2011年だが、エジプト革命は本質的には「革命」ではなく、「叛逆」であると思う。
 革命は常に腐る危険を内包する。リビアもシリアもエジプトも革命国家だった。だから、人びとの叛逆精神が欠かせない。それは自立と自由を求める精神であり、疲れる生き方だろうが、永遠に持ち続けねばならない。
 福島を意識した教育、報道ができないかを考えている。
 福島に矛盾が集まっている。学校外で「公」教育の構築が追究できないか。
 学校はいま「私」しか求めない。でも、偏差値主義自体が破産している。
 学校教育や教育委員会に対する批判は大切だが、一方で対置する教育内容をつくらねばならない。
 2011年は転換の年といわれたが、そうではない。
 求められていることは古いこと自己決定と倫理の確立。これまでやってきたことを誇りを持って、突き進めていくこと。
 その道にはゴールはないが、それでいい。

 ※田原牧(たはら、まき)
 1962年生まれ。新聞記者。1987年、中日新聞社入社。社会部を経て1995年、カイロ・アメリカン大学留学。その後、カイロ支局勤務。現在、東京新聞(中日新聞東京本社)特別報道部デスク。

『週刊新社会』(2012/3/6)

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