『ヤマギシズム学園顛末記』を読んで
『ヤマギシズム学園顛末記』
(北川道雄 発行 わらび書房 発売 日中出版 2005年11月)
という本を読みました。
著者は23歳から50歳までヤマギシ会で生活し、高等部創設などヤマギシズム学園の教育に尽力した人物です。
1973年秋、大学の玄関で「同志は倒れぬ」の歌声のなか、内ゲバ殺人被害者に対する革マルの追悼集会が異様な雰囲気で開かれました。この集会に参加したため革マルシンパと目され、翌年1月さらに2人の学生が襲撃され死亡しました。この学校は民青同盟の拠点校でしたが、当時はこんな雰囲気だったのです。
2人の友人であった著者は、事件のあと「アパートで極力外出しないで息をひそめて暮ら」し、その後も「何となく不完全燃焼」のまま東京での学生生活を過ごし、帰郷して地元の大学の論文執筆でヤマギシ会と偶然出会いました。
1週間の特別講習研鑚会に参加し70人の人々と寝食をともにし「人は本来みな仲良くしたいと思っている・・・あの内ゲバ殺人に対して抱いていた私の憤りが、少し解け始めたのだ。新しい自分に向けて、一枚皮がはがれていったようだった」と書かれています。
その1ヶ月後には研鑚学校に入り「糞まみれ、血まみれ」の鶏の解体作業に加わり、真実や真理がみえてくるのではないかと感じたこと。参画申込みをした帰り道「体が軽く浮いた感じで、目の前がパーッと明るくなった」こと、など77年に参画した当時の著者の心の変化が、じつに生き生きと描かれています。
餌やりや集卵を自分でやり、自分の目でみて観察しもっとよいやり方を自分の頭で考え、そうすると自分から見つけたり、気づくことが面白くなってくる。
著者は、教えることがなく自分から学んでいく教育方法を「学究」と名づけ、現場で学ぶことを「実学」と呼びます。
この考え方を基本に、86年高等部、89年中等部、90年初等部が次々に創設されます。
「金の要らないヤマギシ村」「教えることがなく、どこまでも学育」、まるでユートピアのようなヤマギシの共同体生活と教育でした。
ところが会が急成長し92年に初等部が17ヵ所に増え学園の全生徒数が2300人に及んだころ、さまざまな問題が生じてきました。
「全人幸福社会の実現」という会の目的にすべてが統制され規律が厳しくなり、強すぎる管理をきらう子どもの脱走が相次ぎ、一方地元の中学などとの摩擦が生じ始めました。
あげくのはてには子どもの人権という観点から児童相談所が問題視し、祖父母が親権喪失宣告申し立てを行なう事態にまでなってしまいました。
ヤマギシ会とその学園はどのように成長し、また衰退していったのか、80年以降の成長期、90年以降の急拡大期、その後の停滞衰退期と言う時代区分をして記述されています。
わたくしのようにヤマギシというと「軽トラックで売りに来る玉子」のイメージしか持っていなかった者にもヤマギシ会の多くの施策やイベントを通して具体的に説明があるので、30年弱に及ぶ大きな流れが理解できました。
皆さま方も、ぜひ一度目を通されればと思います。
光が丘 Y.F.
『ヤマギシズム学園顛末記』
(北川道雄 発行 わらび書房 発売 日中出版 2005年11月)
という本を読みました。
著者は23歳から50歳までヤマギシ会で生活し、高等部創設などヤマギシズム学園の教育に尽力した人物です。
1973年秋、大学の玄関で「同志は倒れぬ」の歌声のなか、内ゲバ殺人被害者に対する革マルの追悼集会が異様な雰囲気で開かれました。この集会に参加したため革マルシンパと目され、翌年1月さらに2人の学生が襲撃され死亡しました。この学校は民青同盟の拠点校でしたが、当時はこんな雰囲気だったのです。
2人の友人であった著者は、事件のあと「アパートで極力外出しないで息をひそめて暮ら」し、その後も「何となく不完全燃焼」のまま東京での学生生活を過ごし、帰郷して地元の大学の論文執筆でヤマギシ会と偶然出会いました。
1週間の特別講習研鑚会に参加し70人の人々と寝食をともにし「人は本来みな仲良くしたいと思っている・・・あの内ゲバ殺人に対して抱いていた私の憤りが、少し解け始めたのだ。新しい自分に向けて、一枚皮がはがれていったようだった」と書かれています。
その1ヶ月後には研鑚学校に入り「糞まみれ、血まみれ」の鶏の解体作業に加わり、真実や真理がみえてくるのではないかと感じたこと。参画申込みをした帰り道「体が軽く浮いた感じで、目の前がパーッと明るくなった」こと、など77年に参画した当時の著者の心の変化が、じつに生き生きと描かれています。
餌やりや集卵を自分でやり、自分の目でみて観察しもっとよいやり方を自分の頭で考え、そうすると自分から見つけたり、気づくことが面白くなってくる。
著者は、教えることがなく自分から学んでいく教育方法を「学究」と名づけ、現場で学ぶことを「実学」と呼びます。
この考え方を基本に、86年高等部、89年中等部、90年初等部が次々に創設されます。
「金の要らないヤマギシ村」「教えることがなく、どこまでも学育」、まるでユートピアのようなヤマギシの共同体生活と教育でした。
ところが会が急成長し92年に初等部が17ヵ所に増え学園の全生徒数が2300人に及んだころ、さまざまな問題が生じてきました。
「全人幸福社会の実現」という会の目的にすべてが統制され規律が厳しくなり、強すぎる管理をきらう子どもの脱走が相次ぎ、一方地元の中学などとの摩擦が生じ始めました。
あげくのはてには子どもの人権という観点から児童相談所が問題視し、祖父母が親権喪失宣告申し立てを行なう事態にまでなってしまいました。
ヤマギシ会とその学園はどのように成長し、また衰退していったのか、80年以降の成長期、90年以降の急拡大期、その後の停滞衰退期と言う時代区分をして記述されています。
わたくしのようにヤマギシというと「軽トラックで売りに来る玉子」のイメージしか持っていなかった者にもヤマギシ会の多くの施策やイベントを通して具体的に説明があるので、30年弱に及ぶ大きな流れが理解できました。
皆さま方も、ぜひ一度目を通されればと思います。
光が丘 Y.F.
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