目には目を 投稿者:なまはげ 投稿日: 2月 5日(土)22時02分34秒
徳島と言えば、ITベンチャーの雄ジャストシステム【一太郎・花子】の本拠地だ。
【特許権侵害】が裁判所で認定されたらしい。(・∀・)氏なら、さしずめ、
> んで、ルールを破った者たち【一太郎・花子】を「自由な一般市民」としているあたりは、完全に印象操作しているのではないかと弱く批(略wwwww
> 多くの一般市民には、自由を争う正義の市民ではなく、【一太郎・花子は】ルールを破ってゴネてる人にしか見えていないと思うのだがwwww
> ゲーム【特許権侵害】をするには、自由な時間に自宅とかでするのが吉。思想活動【特許権侵害】するなら勤務時間外に警察許可とって集会場や駅前でするのが吉w
と、けなしまくるのかな。
んで、
> 国民の8割が日の丸君が代【ワード】で満足してるのに、反対している先生達【一太郎・花子】の活動は「奇異」なんですよwwwww
てな、お得意の「多数派の専制」のロジックで、とどめを刺すと。
ちなみに私自身は「一太郎vol.6」以来の愛用者という天然記念物的少数派だが、
このまま一太郎を使い続けていても、(・∀・)殿から許していただけるのだろうか。
「印象操作」には「印象操作」でおかえししてみました。
詭弁を弄して一般市民を煙に巻いた、前6C頃のアテネの徳の教師たちをソフィストという。(ギリシア語でsophia=知、知の使い手、即ち「知者」)
人間は全て死ぬ。ソクラテスは人間である。ソクラテスは死ぬ。(ん!正しい)
人間は嘘をつく。ソクラテスは人間である。ソクラテスは嘘つきだ。(ん?変だぞ)
「正義は強者の正義に他ならない」(トラシュマコス)
「正義とは、強者が弱者を支配し、そして弱者よりも多く持つことである。」(カリクレス)
「人は安心して決まりを破ってよい。ただし誰からも見られていないことが必要である。」(アンティフォン)
ソフィストの詭弁をうっかり受け入れると、「言論の自由に立脚するデモクラシー」が、弁論術という名の「力が支配する荒廃した世界」に堕してしまう。アテネ自壊の故知から何を学ぶか。
現代の若者も、けっこう詭弁好きである。
「英語の未来形を表す助動詞 will の過去形は would だと言ったが、未来の過去なら現在じゃないですか。」
「バスは走るのになぜ動詞でなく名詞なのか」
こんなふざけた質問にまともにお付き合いしていたら、時間と言葉がいくらあっても足りない。言葉のお遊びは、それこそ自由なお時間にご自宅でなさっていただきたいもの。公共の場で詭弁を振りまかれるのは迷惑で社会の害悪である。日本を衆愚政治に陥らせたいのか。私はそんな邪悪な営みに関わりたくないし、関わっている暇もない。印象操作合戦はこれでお終い。お互い時間は大切に使いましょう。
それにしても、今の日本には、ソフィストが跋扈しすぎている。詭弁、皮肉、冷笑主義、の類を得意げに振りまく若者が何と増えてきたことか。そしてそれを煽る口先達者な政治家や知事や役人たち。
こんな時代、ソクラテスの登場が待たれる。
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多神教 投稿者:なまはげ 投稿日: 2月 5日(土)22時01分38秒
それでは日本における多神教の特徴とはどんなものであったか。
日本の伝統文化の本来の姿を、江戸中期の国学者の大人本居宣長の言葉に見るなら、
「されば人の情のありていは、すべてはかなく、しどけなく、をろかなるもの也としるべし。歌は情をのぶるものなれば、また情にしたがふて、しどけなく、つたなく、はかなかるべきことはり也。これ人情は古今和漢かはる事なき也。しかるに、その情を吐き出す咏吟の、男らしく、きつとして、正しきは、本情にあらずと知る可し。」(排芦小船)
「もろこしの書は、そのまことの有のまゝの情をはかくして、つくろひたしなみたるところをいへば、君のため国のために、命をすつるなどやうの事計をかけるもの也。すべて人の情の、自然のまことの有のまゝなる所は、はなはたおろかなる物也。それをつとめてなをし、かさりつくろひて、かしこけにする所は、情をかされる物にて、本然の情にはあらず。」(石上私淑言)
かように、日本の古道とは、しどけなく(⇔男らしくきっとした)、愚かな(⇔賢げ)ものなのであり、そして、これこそ「多神教」の本来の姿なのである。
江戸時代以前の日本人の感覚では、天皇は古都の(武士に比べて女々しい)公家集団の頭目か、祭事の主宰者程度の受け止め方でしかなかった。これこそ貴君の言う
> 神道ではシンキロウと同じ物言いですが、天皇陛下(天照大神?)が一番偉い神様になっていますが、あくまで八百幡(八百万?)の神の中の一柱にすぎないので、もともと強い神様では有りません。
のイメージであったものである。
それが、ある日突然西洋ナショナリズムと一神教にかぶれた薩長の成り上がり者たちにより、ぐちゃぐちゃに歪められ伝統文化とはかけ離れたものに変容させられてしまった。よーく歴史の実相を見極める目を持たれよ。
その一神教かぶれの結果が、幾百万の無辜の民を死地に追いやった軍国主義であり、近隣アジア諸国を蹂躙する侵略戦争だったのである。多神教的にアジアの独自の文化と歴史を持つ個性豊かな国々と共存を目指す道ではなく、一神教的にひとり上に立つ全知全能の日本にアジア諸国を跪かせ従属させる道であった。四海万国を治むべき天子などと称しつつ、実は西洋的絶対君主に祭り上げられ、侵略戦争のシンボルとして利用され、無辜の民を死地に追いやることになってしまった明治大正昭和三代の陛下は皇祖皇宗の前にさぞかし慚愧の念に堪えなかったことであろう。
『教育勅語』とは、中国思想と西洋一神教に染められた、非日本的なものであり、それを「伝統」などとは勘違いも甚だしい。その復活は、全体主義国家の再現であるばかりでなく、正しい古来の伝統文化を破壊するものなのであって、二度と復活させてはいけないものなのである。
徳島と言えば、ITベンチャーの雄ジャストシステム【一太郎・花子】の本拠地だ。
【特許権侵害】が裁判所で認定されたらしい。(・∀・)氏なら、さしずめ、
> んで、ルールを破った者たち【一太郎・花子】を「自由な一般市民」としているあたりは、完全に印象操作しているのではないかと弱く批(略wwwww
> 多くの一般市民には、自由を争う正義の市民ではなく、【一太郎・花子は】ルールを破ってゴネてる人にしか見えていないと思うのだがwwww
> ゲーム【特許権侵害】をするには、自由な時間に自宅とかでするのが吉。思想活動【特許権侵害】するなら勤務時間外に警察許可とって集会場や駅前でするのが吉w
と、けなしまくるのかな。
んで、
> 国民の8割が日の丸君が代【ワード】で満足してるのに、反対している先生達【一太郎・花子】の活動は「奇異」なんですよwwwww
てな、お得意の「多数派の専制」のロジックで、とどめを刺すと。
ちなみに私自身は「一太郎vol.6」以来の愛用者という天然記念物的少数派だが、
このまま一太郎を使い続けていても、(・∀・)殿から許していただけるのだろうか。
「印象操作」には「印象操作」でおかえししてみました。
詭弁を弄して一般市民を煙に巻いた、前6C頃のアテネの徳の教師たちをソフィストという。(ギリシア語でsophia=知、知の使い手、即ち「知者」)
人間は全て死ぬ。ソクラテスは人間である。ソクラテスは死ぬ。(ん!正しい)
人間は嘘をつく。ソクラテスは人間である。ソクラテスは嘘つきだ。(ん?変だぞ)
「正義は強者の正義に他ならない」(トラシュマコス)
「正義とは、強者が弱者を支配し、そして弱者よりも多く持つことである。」(カリクレス)
「人は安心して決まりを破ってよい。ただし誰からも見られていないことが必要である。」(アンティフォン)
ソフィストの詭弁をうっかり受け入れると、「言論の自由に立脚するデモクラシー」が、弁論術という名の「力が支配する荒廃した世界」に堕してしまう。アテネ自壊の故知から何を学ぶか。
現代の若者も、けっこう詭弁好きである。
「英語の未来形を表す助動詞 will の過去形は would だと言ったが、未来の過去なら現在じゃないですか。」
「バスは走るのになぜ動詞でなく名詞なのか」
こんなふざけた質問にまともにお付き合いしていたら、時間と言葉がいくらあっても足りない。言葉のお遊びは、それこそ自由なお時間にご自宅でなさっていただきたいもの。公共の場で詭弁を振りまかれるのは迷惑で社会の害悪である。日本を衆愚政治に陥らせたいのか。私はそんな邪悪な営みに関わりたくないし、関わっている暇もない。印象操作合戦はこれでお終い。お互い時間は大切に使いましょう。
それにしても、今の日本には、ソフィストが跋扈しすぎている。詭弁、皮肉、冷笑主義、の類を得意げに振りまく若者が何と増えてきたことか。そしてそれを煽る口先達者な政治家や知事や役人たち。
こんな時代、ソクラテスの登場が待たれる。
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多神教 投稿者:なまはげ 投稿日: 2月 5日(土)22時01分38秒
それでは日本における多神教の特徴とはどんなものであったか。
日本の伝統文化の本来の姿を、江戸中期の国学者の大人本居宣長の言葉に見るなら、
「されば人の情のありていは、すべてはかなく、しどけなく、をろかなるもの也としるべし。歌は情をのぶるものなれば、また情にしたがふて、しどけなく、つたなく、はかなかるべきことはり也。これ人情は古今和漢かはる事なき也。しかるに、その情を吐き出す咏吟の、男らしく、きつとして、正しきは、本情にあらずと知る可し。」(排芦小船)
「もろこしの書は、そのまことの有のまゝの情をはかくして、つくろひたしなみたるところをいへば、君のため国のために、命をすつるなどやうの事計をかけるもの也。すべて人の情の、自然のまことの有のまゝなる所は、はなはたおろかなる物也。それをつとめてなをし、かさりつくろひて、かしこけにする所は、情をかされる物にて、本然の情にはあらず。」(石上私淑言)
かように、日本の古道とは、しどけなく(⇔男らしくきっとした)、愚かな(⇔賢げ)ものなのであり、そして、これこそ「多神教」の本来の姿なのである。
江戸時代以前の日本人の感覚では、天皇は古都の(武士に比べて女々しい)公家集団の頭目か、祭事の主宰者程度の受け止め方でしかなかった。これこそ貴君の言う
> 神道ではシンキロウと同じ物言いですが、天皇陛下(天照大神?)が一番偉い神様になっていますが、あくまで八百幡(八百万?)の神の中の一柱にすぎないので、もともと強い神様では有りません。
のイメージであったものである。
それが、ある日突然西洋ナショナリズムと一神教にかぶれた薩長の成り上がり者たちにより、ぐちゃぐちゃに歪められ伝統文化とはかけ離れたものに変容させられてしまった。よーく歴史の実相を見極める目を持たれよ。
その一神教かぶれの結果が、幾百万の無辜の民を死地に追いやった軍国主義であり、近隣アジア諸国を蹂躙する侵略戦争だったのである。多神教的にアジアの独自の文化と歴史を持つ個性豊かな国々と共存を目指す道ではなく、一神教的にひとり上に立つ全知全能の日本にアジア諸国を跪かせ従属させる道であった。四海万国を治むべき天子などと称しつつ、実は西洋的絶対君主に祭り上げられ、侵略戦争のシンボルとして利用され、無辜の民を死地に追いやることになってしまった明治大正昭和三代の陛下は皇祖皇宗の前にさぞかし慚愧の念に堪えなかったことであろう。
『教育勅語』とは、中国思想と西洋一神教に染められた、非日本的なものであり、それを「伝統」などとは勘違いも甚だしい。その復活は、全体主義国家の再現であるばかりでなく、正しい古来の伝統文化を破壊するものなのであって、二度と復活させてはいけないものなのである。
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