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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

1月29日

2005年03月30日 | たまにはまじめに?しっかりトーク
思想良心の自由 投稿者:なまはげ  投稿日: 1月29日(土)22時33分6秒

そもそも「政治的自由権」(civil liberties)は、「信教の自由」(freedom of conscience)から派生した権利で、すぐれて「内心の自由」に関わる概念である。
(英市民革命期の「審査律」信仰による公務員資格選別→19C自由主義的諸改革で審査律廃止、の流れを想起されよ)

そして、これらが、「内心にとどまる限り」自由なのは当たり前だが、外面的行為の自由を保障しなければ無意味なものである。

たとえば『ドイツ基本法』には〔良心的兵役拒否〕(第4条)の規定があるが、これは「内面」にとどまっていては意味をなさない。行為としての表現を保障しているのである。戦争反対の言論を保障するということは、行為まで保障して完結する。

また『国際人権規約』第18条〔思想、良心及び宗教の自由〕には、「礼拝、儀式、行事及び教導によってその宗教又は信念を表明する自由を含む」と、外的表明を権利として明記している。

内面にとどまるならば、物理的に捕捉不可能で処罰したくても出来ない。それを懺悔させ自省させるとしたら、「心の中の姦淫」戒める宗教次元の話になってしまう。裁判所なんかいらない。外的表明を保障して初めて「権利」といえるものである。

どなたかが引用していた「エホバの証人」格技拒否を合憲と認めた最高裁判決(1996)は、日本で外的表現を認めた一つの例だ。なぜそれが、教師のピアノ伴奏の時は、外的表現が許されず、受忍しなければならないのか。他人の人権との衝突の可能性のない人権には「公共の福祉」による制限の余地はないと政府も認めているのに。

憲法第19条〔思想・良心の自由〕の存在は戦前との大きな違いである。それがなかった戦前には、滝川事件・天皇機関説事件・矢内原事件・津田左右吉事件と、弾圧例は枚挙にいとまがない。内村鑑三不敬事件もあった。

君が代強制不服従は、憲法第19条の存在意義が問われている問題なのである。どうしても強制したいなら、憲法第19条は廃止すべきである。既に憲法第9条の下で、世界第3位(予算規模)の自衛隊が存在するのと同様の解釈改憲はもう願い下げにしたい。

一体、「学校行事」とは、「憲法」を解釈改憲しなければならないほどの問題なのだろうか。
フランス留学中に子どもを現地の小学校に入学させた学者が言っていたが、フランスには、入学式・卒業式がないのだそうだ。運動会でも、開会式・閉会式がない。時間に集まって自然に始まり自然に終わる。ドイツ・オランダも同じと言っていた。厳粛な儀式にどんな意味があるのか。オリンピックの開閉会式を見ると、日本の高校野球やインターハイのそれと比べて随分なごやかで無秩序にやっている。日本も戦後はかなり緩やかになってきたものが、最近になってまた急に厳しくなってきた。なぜ儀式を復活するのか。それは何を意味するのか。

生徒も敏感に受け止めている。卒業式での国歌斉唱について意見を問うと、
「儀式で全員が声を揃えて歌うことはいいことだ」という声がある一方で、
「今まで強制してこなかったものになぜ命令するのか」「なぜ急に歌わせるのか」
「天皇を神のように敬っていた昔、君が代を強制していた」
「強制するのは、国家に個人を従わせようとするから」
「『君が代』よりも『強制』させることがねらい」
などの指摘もある。生徒にもちゃんと見えているのだ。

ある哲学者は、「教育勅語による国民教育」の地金が出た、という言い方をした。
強制される思想は、ニセの思想であり、強制された愛国心は、ニセの愛国心である。何の役にも立たないばかりか、有害ですらある。

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日本は戦前と比べて何が変わったか 投稿者:なまはげ  投稿日: 1月29日(土)22時32分17秒

@@@殿と、「国家と個人」の関係についてやりとりを重ねてきたが、こんな感じの整理でどうだろう。

まず、民主主義国家と全体主義国家とでは、民主主義国家の方がよい。
(今の日本⇔過去の日本、ナチスドイツ、北朝鮮)。

両者の違いは何かというと、「個人の自由」を尊重するか否かである。
これも共通認識といってよいだろう。

問題は、「個人の自由」と「国家の権能」のバランスにある。
「国家の権能」を極大化すると「ファシズム」に行き着く。
「個人の自由」を極大化すると「アナーキー」に行き着く。
この極論の印象操作の中間のどこかに、着地点があるのかもしれない。

私が言いたいのは、「まず国家ありき」ではなく、「個人があって国家を作る」という考え方だ。それが市民革命以降形成されてきた「近代民主主義」の原理である。
生まれながらに自由な人間が、相互の利害を調整するために国家を作ったのだから、国家の本来的目的は、基本的人権の尊重にある。国家の権能はそのために使われるのであり、それ以上個人の領域に踏み込むことは制限されなければならない。それを超えると全体主義に陥るし、調整機能を発揮できなければ無政府状態に陥る。自由権の成立を「国家からの自由」と称し、「人権とは前国家的権利である」と称する所以である。

この前提から、次の具体的な争点が問われていく。

> 伴奏者は公務員ですが、伴奏は職務であり、その職務上思想良心の自由が一定の範囲で制限されるという事だけです。

貴殿の主張を整理すると、次のようになるだろうか。
①君が代指導は職務である(学習指導要領)、
②公務員は職務命令に拝命義務がある(地方公務員法)、
③それが思想良心に触れても、服従しなければならない(ここが問題)

これに対し、私は次のように考える。
①君が代強制は自由権の侵害である。(憲法)
②職務命令は上位法に整合しなければならない。(地方公務員法)
③間違った職務命令に従うことは、職務上の責任と良心にかけて出来ない。

公務員には「思想良心の自由」を認めない、なんて条文はさすがにないだろう。
(この掲示板に登場する推進派の面々は、公務員をまるで奴隷扱いするのが不満だ)。
問題はただ、「職務」と「自由」は、どちらが優先するのか、という法解釈の次元で争われることになる。

判断の物差しは、民主主義の原則によるなら、まず憲法の基本精神でなければならない。主権在民、平和主義、基本的人権の尊重に照らしてどうか、ということだ。
その場合、君が代の強制はその基本精神に照らしてどんな意味を持つのか。戦前の全体主義・軍国主義教育と同じ状況(問答無用の権力⇔卑屈な全面服従)になっているとしたら大問題だ。
もう一つは、帝国憲法にはなかった「思想良心の自由」が出来たことが、どんな意味を持つのかということだ。戦前と同じなら、「全体主義国家」になってしまう。そうなってはいけないという話だろう。

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ニート 投稿者:なまはげ  投稿日: 1月29日(土)22時27分27秒

あっと言う間の一週間。堂々めぐりに陥りそうな議論を何とか一歩でも前に進めるために今回は少し整理を試みることにした。

最初は、教師への起立と礼に反対する市民殿の書き込みに心が引っかかっるものがあったので、そこから始めたい。

様々な指摘の中で、耳慣れないニートを検索したら、次のような説明があった。

NEETとはNot in Employment, Education or Trainingの略で、「職に就いていず、学校機関に所属もしていず、そして就労に向けた具体的な動きをしていない」若者を指します。
労働政策研究・研修機構副統括研究員の小杉礼子先生はニートを四つ類型化しています。
Ⅰヤンキー型 反社会的で享楽的。「今が楽しければいい」というタイプ
Ⅱひきこもり型 社会との関係を築けず、こもってしまうタイプ
Ⅲ立ちすくみ型 就職を前に考え込んでしまい、行き詰ってしまうタイプ
Ⅳつまずき型 いったんは就職したものの早々に辞め、自信を喪失したタイプ

これは私自身、いささか身に覚えのある話である。高校から大学、大学から社会人の転換期に、当時の言葉でカルチャーショックを受け大いに戸惑った覚えがある。
例えば高校では、酒・タバコはもちろん、麻雀も喫茶店もひどいところでは男女交際も禁じられている。優等生(?)だった私は、不良のやることには一切手を染めずに大人になった。ところが、実社会では価値観が逆転するのだ。麻雀や酒は強い方が使える人材で、女の子と上手く付き合えないと業務にも支障が出る。また処世術も逆転する。与えられたカリキュラムを受け身でこなす高校と、自分から課題を見つけクリエイティブな解決能力を求められる大学の勉強は全く違った。実社会でも、目立たず同調しておけばいい教室の処世術は、「私がやります」「私にやらせて下さい」とやる気元気根気人気勇気を求められる企業では180°違っていた。学校で教えてくれないことを、みなどこで身につけたんだろう、不思議に思ったものだ。それから私は「建前」を○○正直に受け入れることには慎重になった。自慢できない話である。

ニートを生み出す構造的な欠陥が、今の学校教育には確かにある。
体系的な批判はすぐには出来ないが、思い当たることを一二あげるなら、生活に不可欠な税金、年金、医学などをきちんと学ぶ機会がない。消費税が導入されたその年に、自分自身の関心から2ヶ月くらいかけてその問題を授業で取り上げたことがある。税は取られるものではなく、納めるものである、という基本から、不公平税制の実態と拡大してきたいきさつ、消費税導入の意図と益税発生などの欠陥、諸外国との比較など、社会人になって納税する時に絶対に役に立つ知識と、税制の根本である「公平さ」についての見解が身に付くいい授業だったと自負もあり、生徒からの評判も良かった。ところが感想を書かせると「なぜ教科書を使わないのですか」というお決まりの意見がでる。私は胸を張って、その後も、時々の時事的テーマを掘り下げてやってきたのだが、最近は一段と「学習指導要領」から外れるなとか、「受験に役立つ」こと以外はやるなとか、圧力が強まって来てつまらないことおびただしい。「生きる力」を身につける教育と称して「総合学習」など上から押し付けられても、生徒も乗らないし教師もやる気が湧かない。また不登校やリストカットを繰り返す生徒との付き合いは、徹底した相手への理解と誠意それとちょっとした処世のコツの相談役しか方法はない。マニュアルもなければ、人に教えてもらうものでもない。ところがさっさと切り捨てる教師の方が評価が高かったりする。ものさしがそうなのだ。
こうして、実社会とは隔絶した受験教育をやって、ますます不適合ニートを生み出していく。

氏が列挙したことがらすべてが「学校教育」のせいであるとも、「学校教育」だけの責任とも思わないが、責任の大きな部分がそこにあることは否定しない。

> 授業参観で子供に起立と礼などするなと呼びかけるから覚悟しておけよ。

この呼びかけ、ぜひ実行されたい。「いやいやするなら」という枕詞を付け加えるなら、私も賛同しよう。
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