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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

解説 レッド・パージとは(2)

2010年07月30日 | 平和憲法
 都高教退職者会『私にとっての戦後』(2010/5/15)より
 ▼ 解説 レッド・パージとは(2)


 またこの時期の文相天野貞祐は、戦時中は軍部に睨まれもしたリベラリストの一面もあり安倍さんにつづいての一高校長、当初は「平和懇談会」のメンバーであったのが吉田首相の三顧の礼に応えて安倍さんなど友人の危惧や忠告を振り切り閣内に入っていった。その経緯に失望・不信を感じていたがまた一縷の期待も持って注視していた。
 その天野文相は当初は「大学教員の処分は政令62号に基づき10月実施」と9月の閣議決定に基づき一般公務員と同様な政令62号基準によるハージと受け取られる宣言をし、また全学連の団体等規制法による解散を法務総裁に打診したりもしていた。
 しかし、全学連の本郷での総決起の前日10月4日・当日5日の参議院文教委員会で社会党波多野鼎、矢島三義、共産党岩間正男議員の質問に応え「日本共産党は合法政党、大学教員には思想の自由がある、共産党員ということだけで処分はできない。占領政策違反や学内秩序掩乱などで問題行動があれば処罰」と応え、岩間議員の「それではレッド・ハージには反対か」との問いに「思想でパージはしないという意味ではそうだ」と応えイールズの言う画一的レッド・ハージではない趣旨を回答し、それ以後12月文教委員会では「秩序攪乱状況はなくなっているから政令62号による実施の必要はない」との見解を示した。
 こうして当初予想されていた画一的レッド・ハージの大学教員への全面実施は行われなかった。
 この大学教員へのレッド・パージ阻止を、全学連は10月5日の本郷集会を頂点とした学生の全国的な「レッド・ハージ反対闘争」が天野を追い込んだ結果と総括し、一方、天野は「私は一貫してレッド・ハージはしないといっている」と述べ、10月の各大学当局による学生の大量処分以降、全学連がゼネスト中止宣言をした状況を「攪乱状況は終わった」と見て政令62号によるハージ非発動の理由としている。
 理由の如何を問わず大学教員へのレッド・パージが他の官庁や企業、小中高校とは違って、学生運動によって大きな社会問題として喧伝される中で課題とされ、結果としてイールズが煽動した画一的なパージとしては行われなかった社会的意義は大きなことであった。
 ちょうどこの時期から一斉にはじめられた戦犯追放解除によっても経済界や政治世界とは異なって思想界では戦犯学者・思想家復帰による右傾化を一挙には許さぬ基盤を大学や学問思想の世界に一定確保することとなっていった(吉田首相は全面講和を唱える南原東大総長を曲学阿世と面罵し、レッド・パージで大学のひとつや二つつぶれてもともらしていた)。
 またそれまで占領軍命令であるからということで一方的に押し込められていた感のあった労働界の反共的再編や政治の反動化にも影響し、26年に入ってからはアメリカの単独講和の動きに対抗した社会党や総評の全面講和・中立・軍事基地反対・再軍備反対の平和四原則支持決定(51年3月)にも影響を与えた。
 また日教組は、51年1月「教え子を戦場に送るな」のスローガンを中央委員会で決め、また戦後初期の文部省が設けた「教育研究全国協議会」の活動を受け継ぎ民主的な大学研究者との協力協同のもとに全国教育研究大会や「教師の倫理綱領」(26年6月)を策定していったが、そのことにも大学教顔への画一的レッド・パージ阻止の影響は大きなものがあった(もちろん文相天野の25年10月学校の祝日行事の国旗掲揚、国歌斉唱の通達、11月修身科復活、国民実践要領必要の表明などその後の国家主義的教育への布石の歴史的責任は免れ得ない)。
 3,その後のレッド・バージ裁判
 レッドパ一ジに関する裁判は、1950年当時、全国各地で仮処分と本訴をあわせると、105件にたったしていた(註)。
 しかし、裁判所では身分保全の申請を却下し、労働委員会も審問拒否の態度をとり法救済の道を断った。
 当時の五鬼上最高裁事務総長(後に最高裁判事)はGHQから「この種の裁判の訴えはすべて請求棄却、パージは有効という判決を言い渡すべきであるという指示を受け、全国の裁判所を行脚した」と語っている(1970年12月21日 毎日)
 *最高裁は共同通信事件(1952年4月2日),中外製薬事件(1960年4月18日)いずれも大法廷判決でレッド・パージは連合国最高司令官の指示で超憲法的効力を持つと断定している。
 当然、弁護士、研究者からは強い批判が続いた。2008年10月21日、日本弁護士連合会は兵庫県でレッド・パージの被害を受けた3人の人権救済の訴えに対して内閣総理大臣と解雇企業に対し「GHQといえども思想・良心の自由、法の下の平等を侵害してはならない、それを侵害する指示は法的効力を有しない」と指摘し名誉回復と保障を含めた措置をとるようレッド・ハージ人権救済勧告を発した。
 これによって「戦後最大の人権侵害であるレッド・パージ」に対し、最高裁判決を乗り越える展望が明示された。この観点から現在もレッド・パージ反対全国連絡センターの活動が続けられている。
(註)小中高教職員のレッド・ハージはGHQが背景にあったことは公然たる事実であるが、形式は各都道府県教育委員会が「定員過剰」「教職員不適格者」などの各目て実施した。
 実質的には占領軍指示による絶対的なものである雰囲気の中では組合の交渉も裁判も困難を極めたが、教育委員会への審査請求、地方労働委員会への申し立て、地裁提訴など231名が行政・司法救済を求めて争っている。このうち救済されたものは50名以下(27名確認明神勲北大教授:前掲書)。都教組、堀切路夫氏は処分理由を争って高裁で勝利確定。
 高知県では教育長が提起した人員整理原案を教育委員会が廃案を決定し、全国で唯一レッド・パージを阻止している(当時教育委員であった山原健二郎論文『三十余年の星霜を経て』:あゆみ出版)。

 (完)

 『私にとっての戦後ーそして都高教運動』(都高教退職者会 2010/5/15発行)より

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