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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

解説 レッド・パージとは(1)

2010年07月29日 | 平和憲法
 都高教退職者会『私にとっての戦後』(2010/5/15)より
 ▼ 解説 レッド・パージとは(1)
小島昌夫

 1.レッド・ハージの展開

 戦後、非軍事化と民主化に有効な範囲で共産党の活動を許容していたアメリカは、東西対立の激化、極東における中国共産党の勝利が明らかになってきた1948年1月「日本を共産主義に対する防波堤に」(ロイヤル陸軍長官)の方針を鮮明にし、意図的計画・計画的に共産党の弾圧・追放を展開しはじめた。
 49年4月には団体等規正令を交付して共産党員を登録制にし、戦前の特高警察の流れを汲む公安警察を復活させた。さらに、官公庁では定員法による行政整理のなかで、民間では企業整備を名目に実質的にはレッド・パージを意図的に進めようとした。このため、49年5月から連続的に起こった下山事件、三鷹事件、松川事件などを共産党の仕業と宣伝し、国民に共産党への恐怖心をあおり、国鉄労働組合や東芝労組など、各労組で共産党活動家を含む大量解雇を一挙に断行した。
 当時、アメリカ国内でもマッカーシー議員による反共旋風が吹き荒れ、日本でもGHQ顧問のWCイールズが全国各地を回って赤い教員追放を開始した。
 49年9月全国教育長会議は「GHQの意向を戴し赤い教員追放」を決議し、この秋から50年春にかけて「過員の整理や教職不適格者の追放」を名目に小・中・高教員のレッド・パ一ジが進められた。
 50年5月3日にはマッカーサーは共産党非難声明を出し、6月6日吉田内閣に命じて共産主義者等の公職からの排除などを閣議決定させ、共産党中央委員24人(国会議員7人)を公職追放し、朝鮮戦争勃発の翌26日赤旗の30日間停刊指令(後に無期限)した。
 これを皮切りに50年7月GHQの直接の勧告に基づき一般新聞、通信、法曹界のパージが開始され、50社、700人が解雇、さらに電気産業、日通、石炭、私鉄、造船、鉄鋼など全産業に波及した。
 この間、吉田内閣は9月1日の閣議でレッド・バージの基本方針を正式決定、天野文相は、「教職員の共産主義者追放」を声明する。公然たるレッド・パージの展開である。
 この結果、50年末までに民間企業540社で約1万1000人、小中高教員2000人、政府機関で1200人がレッド・パージされるにいたった。
 この他、49年秋までの行政整理と企業整備の中でそれぞれ9,000名、20,000名が実質的なレッドハージを受けたと推定されている。
 2 なぜ大学教員のレッド・ハージは行われなかったのか
  ―全学連のレッド・パージ反対闘争と天野文部大臣―


 唯一全面的なレッド・ハージを許さなかったのは大学教職員に対してだけであり、戒厳令的状況下で一貫して「レッドパ一ジ反対」を叫んで闘争をくみ社会問題にしていったのは全学連であった。
 GHQ顧問のW.C.イールズ博士は24年7月新潟大学からはじまって各大学で「共産主義者教授の大学からの追放」の講演会を展開しはじめていった。
 全国大学教授会連合は49年10月レッド・パージ反対声明を発表している。
 全学連は「反イールズ・反帝国主義・日本民族の国家的独立」の闘争を組み、25年5月東北大学では集会を阻止し、北海道大学では演説集会を中止させた(宮原将平教授がイールズと論戦した記録が残っている)。
 その直後の6月朝鮮戦争勃発の緊急事態の中で、8月全学連はあらためて「レッド・パージ反対闘争」を設定し、そのため9~10月にかけて各地でレッド・パージ粉砕と結合させて試験ボイコット闘争を、そして10月17日全国ゼネストを計画した。
 戦後の全学連が組織された頃から学生たちには日本共産党の影響が強かったが、この頃は日本共産党自身が25年1月のコミンホルム批判(占領下でも民主革命可能という野坂理論批判)をきっかけに内部分裂を引き起こし、東大、早大などの共産党細胞は代々木中央から解散を命じられており、さらに6月朝鮮戦争直前には占領軍によって中央委員会自体が追放され、指導部が地下に潜り、単一政党としての正常な機能を失った状況であったため、全学連の学生たちもそれぞれの派がそれぞれの大学で論争し抗争し連帯しつつ運動をつくり出していた。
 このレッド・パージ反対闘争で最初の山場になったのは東大駒場での試験ボイコット闘争であった。9月29日以降の試験ボイコットを全学投票で「レッド・パージ反対、試験ボイコット」替成1883,反対1075,無効127で可決
 当日は校門でスト派の学生のピケに反対派の学生が対峙し、二日目には矢内原学長と闘争委員長の学生大野明男が正門で激しい論戦をくり返し、そこへ警官隊が到着する。学長は「自分は導入要請せず」といったが、非暴力のピケ隊が警官にごぼう抜きされ試験場への道が確保された。
 ピケ隊と対峙していたスト反対学生に学長が試験場へとうながしたとき、「警官に誘導されての試験は受けられない」とスト反対派の学生が座り込んで動かず、全学生が一体となって「警官かえれ」の大合唱になる。
 この状況で学長は緊急教授会を開き、「試験の無期限延期」を決定するといった劇的なシーンがあって試験ボイコットを成功させた。(この取り組みの特徴は、全員投票による民主主義の貫徹、絶対非暴力、反対意見も同じ学生として、いがみ合っても、互いに認め合っている。矢内原学長や教官に対しても同様。それが最後の全員による「警官かえれ」の大合唱をつくり出しているといったような点にあろう)。
 この直後の10月5日本郷の東大での「全都レッド・ハージ粉砕総決起大会」を中心に都下11大学でストライキがゼネスト的に行われ、4万近い学生が参加し全国闘争の山場といった社会的雰囲気をつくり出した。
 東大正門の鍵を内側から破壊して外部学生を導入したのは堤清二(作家辻井喬として書かれた著作による)であった。
 早稲田では9月28日、10月17日に節目があった。委員長の吉田嘉清を中心に当局との粘り強い大衆的積み上げの交渉に対して全学連中央からの指導が時にかみ合わず警官隊の導入による大量の負傷者を招く事態なども発生したりしている(両国高定を卒業の時、僕を批判したTはこの時処分されている)。
 全学連傘下とはいえ各大学それぞれがそれぞれのスタイルで大衆的にこの闘争を創り上げていたのがこの時期の特徴であったことをTなど関係者は語っている。しかし、東大、早稲田を中心にしたこの闘争も各大学が大量の処分者を出したことを契機に全学連もそれ以降の闘争を継続するには至らなかった。
 僕はその頃、駒場の隣の理工研に通っていたので状況をしばしば身近に耳にしていた。理工研の組合(トダコセ)は政治スト優先の全学連の闘争には批判的な代々木本部系の影響が強く東大細胞への代々木中央の解散指令の経緯も聞いたりしていたが、一方全学連側の知人からも前記のようなリアルな話を聞いていた。
 また指導教官の山下次郎氏(加藤周一と一高同クラス)は無教会派のクリスチャンで矢内原さんの弟子筋にあたり、氏から戦時中、台湾植民地統治の問題点を論文として発表して大学を去らざるを得なくなった経緯も聞いて矢内原さんの人柄と思想を身近に知っていた。したがって大筋ではレッド・パージ反対の学生の果敢な戦いに共感しながら個々の戦術に疑問を持ったり矢内原さんや教官たちの心情も思いやって複雑だった。
 (続)

 『私にとっての戦後ーそして都高教運動』(都高教退職者会 2010/5/15発行)より

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