【東京「君が代」裁判第3次訴訟 2010年7月7日】
◎ キリスト者の立場から 原告意見陳述
G高校で日本史と現代社会を教えているOと申します。
私は2003年、「10・23通達」が出された時、大変困ったことになったと思い、予防訴訟の原告に加わりました。これまでは受付、警備などの会場外の役割を命じられたので処分を受けることはありませんでした。しかし、2009年3月の卒業式はそういうわけにはいきませんでした。
その二年前の2007年4月、私はG高校へ異動。いきなり2年生の女子クラスの担任となりました。私も戸惑いましたが、生徒たちも急に出現した中年オヤジを警戒したのか、ぎくしゃくし、毎日が空回りでした。生徒同士の諍いもたえず、途方に暮れました。しかし、3年生になる頃には信頼関係も生まれ、クラスの団結も強まり、体育祭、文化祭、合唱祭などの行事はどのクラスより一生懸命に努力する素晴らしいクラスになりました。私は彼女たちを送り出す卒業式には、雨が降ろうが、槍が降ろうが、処分があろうが、なんとしても出たいと思いました。
また、私は、2006年9月21日の東京地裁判決で「校長の職務命令には重大な瑕疵がある」と断罪されたにもかかわらず、強制をし続ける教育委員会の異常さ、そしてそのような状況に対して慣らされ、あきらめムードの漂い始めた職場の雰囲気に危機感や違和感を強く抱いていました。
どうしても彼女たちの卒業式には出たい、しかし出るとすれば起立・斉唱を強制されることになりますが、私の信仰からこの強制に屈することはできません。ですから処分を覚悟で彼女たちの卒業式に出ることにしたのです。
そう、私がこの「職務命令」に従えなかった最大の理由はキリスト者であることなのです。以下どうしてキリスト者が10・23通達に基づく職務命令に従えないのかを述べます。
私は高校三年生の時に英会話を習いに行ったことがきっかけで、教会の礼拝に出席しました。キリスト者になるつもりなど全くなかったのですが、以下の言葉を読んだ時、引き返せなくなりました。
「神の言葉は生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。造られたもので、神の前に隠れおおせるものは何一つなく、神の目にはすべてが裸であり、さらけだされています。私たちはこの神に対して弁明をするのです」(ヘブル人への手紙4章12~13節)
全知全能の神がいる。逃げられない!という畏れを感じました。人間が神をつくったのではなく、まず神がいて、人間がいるという関係だと悟りました。聖書の神は、苦しい時に頼みごとをし、用がないときはしまっておけるようなものはなく、神の方から聖書の言葉を通して人生に介入してくる方だったのです。
かれこれ30年間、教会に通ってきましたが、これは自分の意志や努力でがんばってきたから続いたのではありません。神が歩むべき道を聖書から示し、そしてそれが実現できるように信仰をも与えてくれたから続いたのです。
キリスト者が守るべき教えに「十戒」があります。今回、私はその戒めを守ることができたがゆえにこの場所に立っています。
「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」
「あなたは、自分のために偶像を造ってはならない」
(旧約聖書:出エジプト記20章3節)
この戒めに照らし、私は国旗・国歌の儀式を拒否しました。
憲法が変わったから「天皇はもう現人神ではない」という人がいます。しかし、天皇は神道ではいまだに神です。11月23日には新嘗祭が行われます。天皇が即位した最初の年に行われる新嘗祭は大嘗祭と呼ばれますが、それは深夜、天皇が祖先の神の霊と食事を共にする中で神の霊をうけ、神となる特別な儀式です。いまでも天皇の第一の仕事は国家の安寧のために祈ることであり、天皇の日常は神道儀礼に満ちています。神である天皇の世が永遠にと歌う「君が代」は天皇の讃美歌です。
さらに言うならば、私は教会で十字架を仰ぎ、起立して三位一体の神を讃美しますが、学校の式典も「日の丸」を仰ぎ、起立し、「君が代」を斉唱します。両者はあまりにも似ているのです。「日の丸」「君が代」の学校儀式は十戒の禁じる偶像礼拝だとどうしても思えるのです。
「心の中では何を信じていても良いが、外部的行為は公務員としてやりなさい」という人もいます。これは「嘘をついてこい」「盗んでこい」「姦淫をしてこい」「人を殺してこい」と言われるのと同じレベルで私にはむごい命令です。
戦争が起こると、国から「敵はならず者国家だ。殺すことが正義だ」と教えられるでしょう。しかし、殺人できないと思う人が殺人をし続けたらどうなると思いますか? その人は発狂しないでしょうか!心の思いと外部的行為は決して切り離して考えられないはずです。聖書の十戒は10の戒めからなっていますが、「殺してはならない」は6番目の戒めで、偶像礼拝禁止は第1の戒めなのです。
担任として生徒たちの旅立ちを心から祝いたい。しかし、その卒業式冒頭には自分にとって絶対にやりたくないことを強いられる。教師として一番大切な日に一番むごいことを強いられる。この不条理に苦しみました。
しかし、
「人に従うより、神に従うべきです」(使徒行伝5:29)
「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどをおそれてはなりません」(マタイ伝10:28)
などの聖書の言葉に従い、不起立に至りました。
卒業式後、事情聴取や処分発令式、再発防止研修など不愉快なことがありましたが、私の心には戒めを守ることができるようにキリストが「信仰」を与えてくれたという喜びがありました。
第三次訴訟の原告の中にはキリスト者が数名います。また今年2010年3月の卒業式の処分者4名のうち2名はキリスト者でした。この儀式はキリスト者をあぶりだします。しかし、キリストに従う者は試練や迫害に会うと聖書から教えられていますので、屈しません。
「一般的にはこの儀式は宗教儀式ではない」と大多数の人たちが思っていることは承知しています。しかしそのような多数派が「偶像礼拝だからできない」と感じる少数派に「もっと寛容になれ」と強いるのは間違いであり、逆だと思います。寛容の精神とは少数派を多数派が認めていくことだと思います。
民主主義の要諦は、多数決の原理ではなく、どこまで少数派の意見を汲み上げ、共に生きていける社会にするかを模索することにあると思うのです。
第三次訴訟には、キリスト者ではありませんが、複数回にわたって不起立を貫いている人が多数います。減給、停職などの重い処分を受けてもどうして屈しないのでしょうか? 人間として、教師としてどうしてもゆずれない「心」、壊されたくないアイデンティティをもっているからではないでしょうか。
個人の尊厳、さまざまな思想・信条を無視し、「処分」で恫喝し、人間を服従させていこうとする教育委員会の手法はとうてい容認できません。司法による歯止めを切望し、陳述を終えます。
◎ キリスト者の立場から 原告意見陳述
O(都立G高校教諭)
G高校で日本史と現代社会を教えているOと申します。
私は2003年、「10・23通達」が出された時、大変困ったことになったと思い、予防訴訟の原告に加わりました。これまでは受付、警備などの会場外の役割を命じられたので処分を受けることはありませんでした。しかし、2009年3月の卒業式はそういうわけにはいきませんでした。
その二年前の2007年4月、私はG高校へ異動。いきなり2年生の女子クラスの担任となりました。私も戸惑いましたが、生徒たちも急に出現した中年オヤジを警戒したのか、ぎくしゃくし、毎日が空回りでした。生徒同士の諍いもたえず、途方に暮れました。しかし、3年生になる頃には信頼関係も生まれ、クラスの団結も強まり、体育祭、文化祭、合唱祭などの行事はどのクラスより一生懸命に努力する素晴らしいクラスになりました。私は彼女たちを送り出す卒業式には、雨が降ろうが、槍が降ろうが、処分があろうが、なんとしても出たいと思いました。
また、私は、2006年9月21日の東京地裁判決で「校長の職務命令には重大な瑕疵がある」と断罪されたにもかかわらず、強制をし続ける教育委員会の異常さ、そしてそのような状況に対して慣らされ、あきらめムードの漂い始めた職場の雰囲気に危機感や違和感を強く抱いていました。
どうしても彼女たちの卒業式には出たい、しかし出るとすれば起立・斉唱を強制されることになりますが、私の信仰からこの強制に屈することはできません。ですから処分を覚悟で彼女たちの卒業式に出ることにしたのです。
そう、私がこの「職務命令」に従えなかった最大の理由はキリスト者であることなのです。以下どうしてキリスト者が10・23通達に基づく職務命令に従えないのかを述べます。
私は高校三年生の時に英会話を習いに行ったことがきっかけで、教会の礼拝に出席しました。キリスト者になるつもりなど全くなかったのですが、以下の言葉を読んだ時、引き返せなくなりました。
「神の言葉は生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。造られたもので、神の前に隠れおおせるものは何一つなく、神の目にはすべてが裸であり、さらけだされています。私たちはこの神に対して弁明をするのです」(ヘブル人への手紙4章12~13節)
全知全能の神がいる。逃げられない!という畏れを感じました。人間が神をつくったのではなく、まず神がいて、人間がいるという関係だと悟りました。聖書の神は、苦しい時に頼みごとをし、用がないときはしまっておけるようなものはなく、神の方から聖書の言葉を通して人生に介入してくる方だったのです。
かれこれ30年間、教会に通ってきましたが、これは自分の意志や努力でがんばってきたから続いたのではありません。神が歩むべき道を聖書から示し、そしてそれが実現できるように信仰をも与えてくれたから続いたのです。
キリスト者が守るべき教えに「十戒」があります。今回、私はその戒めを守ることができたがゆえにこの場所に立っています。
「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」
「あなたは、自分のために偶像を造ってはならない」
(旧約聖書:出エジプト記20章3節)
この戒めに照らし、私は国旗・国歌の儀式を拒否しました。
憲法が変わったから「天皇はもう現人神ではない」という人がいます。しかし、天皇は神道ではいまだに神です。11月23日には新嘗祭が行われます。天皇が即位した最初の年に行われる新嘗祭は大嘗祭と呼ばれますが、それは深夜、天皇が祖先の神の霊と食事を共にする中で神の霊をうけ、神となる特別な儀式です。いまでも天皇の第一の仕事は国家の安寧のために祈ることであり、天皇の日常は神道儀礼に満ちています。神である天皇の世が永遠にと歌う「君が代」は天皇の讃美歌です。
さらに言うならば、私は教会で十字架を仰ぎ、起立して三位一体の神を讃美しますが、学校の式典も「日の丸」を仰ぎ、起立し、「君が代」を斉唱します。両者はあまりにも似ているのです。「日の丸」「君が代」の学校儀式は十戒の禁じる偶像礼拝だとどうしても思えるのです。
「心の中では何を信じていても良いが、外部的行為は公務員としてやりなさい」という人もいます。これは「嘘をついてこい」「盗んでこい」「姦淫をしてこい」「人を殺してこい」と言われるのと同じレベルで私にはむごい命令です。
戦争が起こると、国から「敵はならず者国家だ。殺すことが正義だ」と教えられるでしょう。しかし、殺人できないと思う人が殺人をし続けたらどうなると思いますか? その人は発狂しないでしょうか!心の思いと外部的行為は決して切り離して考えられないはずです。聖書の十戒は10の戒めからなっていますが、「殺してはならない」は6番目の戒めで、偶像礼拝禁止は第1の戒めなのです。
担任として生徒たちの旅立ちを心から祝いたい。しかし、その卒業式冒頭には自分にとって絶対にやりたくないことを強いられる。教師として一番大切な日に一番むごいことを強いられる。この不条理に苦しみました。
しかし、
「人に従うより、神に従うべきです」(使徒行伝5:29)
「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどをおそれてはなりません」(マタイ伝10:28)
などの聖書の言葉に従い、不起立に至りました。
卒業式後、事情聴取や処分発令式、再発防止研修など不愉快なことがありましたが、私の心には戒めを守ることができるようにキリストが「信仰」を与えてくれたという喜びがありました。
第三次訴訟の原告の中にはキリスト者が数名います。また今年2010年3月の卒業式の処分者4名のうち2名はキリスト者でした。この儀式はキリスト者をあぶりだします。しかし、キリストに従う者は試練や迫害に会うと聖書から教えられていますので、屈しません。
「一般的にはこの儀式は宗教儀式ではない」と大多数の人たちが思っていることは承知しています。しかしそのような多数派が「偶像礼拝だからできない」と感じる少数派に「もっと寛容になれ」と強いるのは間違いであり、逆だと思います。寛容の精神とは少数派を多数派が認めていくことだと思います。
民主主義の要諦は、多数決の原理ではなく、どこまで少数派の意見を汲み上げ、共に生きていける社会にするかを模索することにあると思うのです。
第三次訴訟には、キリスト者ではありませんが、複数回にわたって不起立を貫いている人が多数います。減給、停職などの重い処分を受けてもどうして屈しないのでしょうか? 人間として、教師としてどうしてもゆずれない「心」、壊されたくないアイデンティティをもっているからではないでしょうか。
個人の尊厳、さまざまな思想・信条を無視し、「処分」で恫喝し、人間を服従させていこうとする教育委員会の手法はとうてい容認できません。司法による歯止めを切望し、陳述を終えます。
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