《再雇用拒否撤回2次訴訟第11回口頭弁論(2012/2/16)陳述》<5>
◎ 第4章 旧教育基本法10条「教育に対する不当な支配」論(2)
次に、被告は、地方自治の原則に関し縷々述べます。
確かに、大日本帝国憲法時代のような国家権力による教育に対する過度な介入を回避する観点から、国と地方公共団体との関係において、教育に関し、地方自治を認める必要性があります。
しかし、本件は、そのような国対地方公共団体という行政権力機関同士の権限分配の問題ではなく、地方教育委員会の権限と学校・教職員の教育の自由という、行政権力機関と基本的人権の主体が対立する場面の問題です。
このような場合、前述した教基法の公権力による教育への介入を抑止する趣旨が妥当することになります。
よって、本件の場合、教師の教育の自由、教育の自主性の維持の観点から、地方教育委員会の権限は、抑制されます。
さらには、地方の教育委員会は、被告が主張するように、いかに、「地方の実情に即した」教育実践を行うとしても、決して個々の生徒と直接に接触して、意思決定を行うわけではありません。そのような教育委員会が、教育内容について細目的事項まで決定して、教育現場の教師、学校をその細目的事項に束縛すれば、旧教基法の趣旨である生徒一人一人の個性に応じた教育は実現できなくなります。
以上からすれば、被告が主張する地方自治の観点から、直ちに地方の教育委員会には大綱的基準は当てはまらないとの結論は導かれません。
被告は、旭川学テ判決は都教委の自主的判断に基づく権限行使には大綱的基準の要件など課していない等と主張しています。しかし、かかる被告の反論は、旭川学テ判決を恣意的に引用し、同判決を曲解したものにほかならず、失当というほかありません。
被告は、旭川学テ判決が「市町村教委は、市町村立の学校を所管する行政機関として、その管理権に基づき、学校の教育課程の編成について基準を設定し、一般的な指示を与え、指導、助言を行うとともに、特に必要な場合には具体的な命令を発することもできると解するのが相当である」と判断したことを根拠に、「大綱的基準にとどまるべきものと解することはできない」などと主張しています。
しかし、旭川学テ判決においてかかる判断がなされたのは、手続上の根拠となりえない地教行法54条2項に基づいて本件学力調査が実施されたために、「手続上の適法性」が問題とされたからです。
とすると、旭川学テ判決は、不当な支配との関係で市町村教委の職務命令がどの程度まで具体的かつ詳細なものが許されるか、逆に言えば学校長及び教師の教育に関する裁量がなくなる程度まで具体的かつ詳細な命令についてまで不当な支配にはあたらないのかという点については判断していないのです。
よって、旭川学テ判決の当該部分を根拠として「大綱的基準にとどまるべきものと解することはできない」との結論を導いた被告の主張もまた、旭川学テ判決を曲解したものにほかなりません。
被告は、「必要的かつ合理的なものであれば、たとえそれが教育内容・方法に関する関与・介入であっても旧教基法10条の禁止するところではない」とし、その関与・介入は大綱的な基準の要件は不要であると主張しています。
しかし、かかる被告の主張は、子どもの学習権を保障するという観点、教育委員会が教師の人権を制約する立場にあるという観点などを無視した主張にほかならず、失当です。
都教委が教育内容・方法につき関与・介入する場合には、国が関与・介入する場合に比し具体的なものが許されるという意味で「幅」は認められるものの、やはり大綱的基準の要件を充足しない限り、旧教基法10条に反する違法なものになるのです。
■ 教師による創造的かつ弾力的な教育の余地が必要であることについて
被告は、「原告らは、教師の創造的な教育活動という表現を用いて、教師の完全なあるいは幅の広い教育の自由を念頭に置いている」とし、「原告からこのような主張をするのであれば、旭川学テ判決からは誤りといわなければならない」等と主張しています。
しかし、そもそも原告らは、都教委の「一連の仕組み」が「教師による創造的かつ弾力的な教育の余地をなくした」ことを問題としているのであって、被告の主張は原告の主張を曲解してなされたものというほかありません。
ところで、被告の主張は、必要性・合理性が認められれば、教師による創造的かつ弾力的な教育の余地がなくても不当な支配にあたらないとするもののようです。
しかし、教師による創造的かつ弾力的な教育の余地がなければ、子どもが自由かつ独立の人格として成長することが妨げられるから、子どもの学習権を保障することができなくなることは明らかです。
とすれば、都教委が教育内容・方法に関与・介入するにあたっては、その関与・介入に必要性・合理性があるか否かに関わりなく、教師による創造的かつ弾力的な教育の余地がなければ、不当な支配にあたり旧教基法10条に違反することとなります。
■ 一方的な理論・観念を生徒に教え込むことの強制は許されないことについて
被告は、原告の主張を「基礎的知識に属する事項であっても、反対の理論ないし観念があれば、これを児童・生徒に教授することができない」という内容であると曲解しています。
しかし、被告の主張は議論のすり替えにほかならず、原告らの主張がそのようなものでないことは原告準備書面(7)を読めば誰にでも分かることです。
念のため述べれば、原告らが問題としているのは、反対の理念ないし観念が存在する事柄についてまで、都教委が教師に対し一方の理論・観念を教え込むことを強制することができるのかという点です。
本件不起立等については、起立・斉唱に自己の真摯な心情から反対する人が相当数いることは公知の事実です。このような場合にまで、都教委は、職務命令を発し、これに反した教員に懲戒処分を行い、再雇用選考にあたっては採用しないという不利益を課して、一方の理論・観念を教え込むことを強制していることが、教育行政機関の権限行使が「一方的な理論・観念を生徒に教え込むことを強制するものであってはならない」とする旭川学テ判決に反しないかという点です。
ところで、被告の主張は、必要性・合理性が認められれば、一方的な理論・観念を生徒に教え込むことを強制する場合であっても不当な支配にあたらないとするもののようです。
しかし、教師に一方的な理論・観念を生徒に教え込むこと強制すれば、子どもが自由かつ独立の人格として成長することが妨げられるから、子どもの学習権を保障することができなくなることは明らかです。
とすれば、都教委が教育内容・方法に関与・介入するにあたっては、その関与・介入に必要性・合理性があるか否かに関わりなく、一方的な理論・観念を生徒に教え込むことを強制するものであれば、不当な支配にあたり旧教基法10条に違反することとなります。
◎ 第4章 旧教育基本法10条「教育に対する不当な支配」論(2)
代理人弁護士 柿沼真利
次に、被告は、地方自治の原則に関し縷々述べます。
確かに、大日本帝国憲法時代のような国家権力による教育に対する過度な介入を回避する観点から、国と地方公共団体との関係において、教育に関し、地方自治を認める必要性があります。
しかし、本件は、そのような国対地方公共団体という行政権力機関同士の権限分配の問題ではなく、地方教育委員会の権限と学校・教職員の教育の自由という、行政権力機関と基本的人権の主体が対立する場面の問題です。
このような場合、前述した教基法の公権力による教育への介入を抑止する趣旨が妥当することになります。
よって、本件の場合、教師の教育の自由、教育の自主性の維持の観点から、地方教育委員会の権限は、抑制されます。
さらには、地方の教育委員会は、被告が主張するように、いかに、「地方の実情に即した」教育実践を行うとしても、決して個々の生徒と直接に接触して、意思決定を行うわけではありません。そのような教育委員会が、教育内容について細目的事項まで決定して、教育現場の教師、学校をその細目的事項に束縛すれば、旧教基法の趣旨である生徒一人一人の個性に応じた教育は実現できなくなります。
以上からすれば、被告が主張する地方自治の観点から、直ちに地方の教育委員会には大綱的基準は当てはまらないとの結論は導かれません。
被告は、旭川学テ判決は都教委の自主的判断に基づく権限行使には大綱的基準の要件など課していない等と主張しています。しかし、かかる被告の反論は、旭川学テ判決を恣意的に引用し、同判決を曲解したものにほかならず、失当というほかありません。
被告は、旭川学テ判決が「市町村教委は、市町村立の学校を所管する行政機関として、その管理権に基づき、学校の教育課程の編成について基準を設定し、一般的な指示を与え、指導、助言を行うとともに、特に必要な場合には具体的な命令を発することもできると解するのが相当である」と判断したことを根拠に、「大綱的基準にとどまるべきものと解することはできない」などと主張しています。
しかし、旭川学テ判決においてかかる判断がなされたのは、手続上の根拠となりえない地教行法54条2項に基づいて本件学力調査が実施されたために、「手続上の適法性」が問題とされたからです。
とすると、旭川学テ判決は、不当な支配との関係で市町村教委の職務命令がどの程度まで具体的かつ詳細なものが許されるか、逆に言えば学校長及び教師の教育に関する裁量がなくなる程度まで具体的かつ詳細な命令についてまで不当な支配にはあたらないのかという点については判断していないのです。
よって、旭川学テ判決の当該部分を根拠として「大綱的基準にとどまるべきものと解することはできない」との結論を導いた被告の主張もまた、旭川学テ判決を曲解したものにほかなりません。
被告は、「必要的かつ合理的なものであれば、たとえそれが教育内容・方法に関する関与・介入であっても旧教基法10条の禁止するところではない」とし、その関与・介入は大綱的な基準の要件は不要であると主張しています。
しかし、かかる被告の主張は、子どもの学習権を保障するという観点、教育委員会が教師の人権を制約する立場にあるという観点などを無視した主張にほかならず、失当です。
都教委が教育内容・方法につき関与・介入する場合には、国が関与・介入する場合に比し具体的なものが許されるという意味で「幅」は認められるものの、やはり大綱的基準の要件を充足しない限り、旧教基法10条に反する違法なものになるのです。
■ 教師による創造的かつ弾力的な教育の余地が必要であることについて
被告は、「原告らは、教師の創造的な教育活動という表現を用いて、教師の完全なあるいは幅の広い教育の自由を念頭に置いている」とし、「原告からこのような主張をするのであれば、旭川学テ判決からは誤りといわなければならない」等と主張しています。
しかし、そもそも原告らは、都教委の「一連の仕組み」が「教師による創造的かつ弾力的な教育の余地をなくした」ことを問題としているのであって、被告の主張は原告の主張を曲解してなされたものというほかありません。
ところで、被告の主張は、必要性・合理性が認められれば、教師による創造的かつ弾力的な教育の余地がなくても不当な支配にあたらないとするもののようです。
しかし、教師による創造的かつ弾力的な教育の余地がなければ、子どもが自由かつ独立の人格として成長することが妨げられるから、子どもの学習権を保障することができなくなることは明らかです。
とすれば、都教委が教育内容・方法に関与・介入するにあたっては、その関与・介入に必要性・合理性があるか否かに関わりなく、教師による創造的かつ弾力的な教育の余地がなければ、不当な支配にあたり旧教基法10条に違反することとなります。
■ 一方的な理論・観念を生徒に教え込むことの強制は許されないことについて
被告は、原告の主張を「基礎的知識に属する事項であっても、反対の理論ないし観念があれば、これを児童・生徒に教授することができない」という内容であると曲解しています。
しかし、被告の主張は議論のすり替えにほかならず、原告らの主張がそのようなものでないことは原告準備書面(7)を読めば誰にでも分かることです。
念のため述べれば、原告らが問題としているのは、反対の理念ないし観念が存在する事柄についてまで、都教委が教師に対し一方の理論・観念を教え込むことを強制することができるのかという点です。
本件不起立等については、起立・斉唱に自己の真摯な心情から反対する人が相当数いることは公知の事実です。このような場合にまで、都教委は、職務命令を発し、これに反した教員に懲戒処分を行い、再雇用選考にあたっては採用しないという不利益を課して、一方の理論・観念を教え込むことを強制していることが、教育行政機関の権限行使が「一方的な理論・観念を生徒に教え込むことを強制するものであってはならない」とする旭川学テ判決に反しないかという点です。
ところで、被告の主張は、必要性・合理性が認められれば、一方的な理論・観念を生徒に教え込むことを強制する場合であっても不当な支配にあたらないとするもののようです。
しかし、教師に一方的な理論・観念を生徒に教え込むこと強制すれば、子どもが自由かつ独立の人格として成長することが妨げられるから、子どもの学習権を保障することができなくなることは明らかです。
とすれば、都教委が教育内容・方法に関与・介入するにあたっては、その関与・介入に必要性・合理性があるか否かに関わりなく、一方的な理論・観念を生徒に教え込むことを強制するものであれば、不当な支配にあたり旧教基法10条に違反することとなります。
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