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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

〈中国通信1527〉日本人戦犯を弁護した中国人弁護士

2018年06月23日 | 平和憲法
皆様へ、日中友好と教育の自由のために〈中国通信1527〉を送ります。重複お許しください。ご意見ご批判をお願いします。転送OK。*記事の中国語原文については大幅に(略)しています。全文を読みたい方はご連絡ください。
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 ◆ 上坂冬子『遺された妻 BC級戦犯秘録』 陸軍大尉・中島祐雄
 《妻子から眼をそらした中島は、その思いを叩きつけるかのように、処刑20日前の8月2日の日記に次の1節を書き残した。
 「天皇の命により、その規定によってすべてを実施して来て斯の如し。責任者たる天皇は那須だ葉山だと夫婦して避暑避寒して平然たり。多少の権力は除かれたとしても、彼の生命に何の支障ありや。彼の生活に何の支障ありや。朕汝らと苦楽を共にせんと公告したるは誰ぞ。これほど矛盾した話はどこにもない。共産党ならずとも天皇制を云々しなくてはをられん。彼の存在こそ無用の長物なり」
 獄中でこれほど痛烈に天皇制を批判したのは、おそらく彼のみであろう。》

 *無念の思いで処刑されていったBC級戦犯も含めて、日本人は自らの戦争犯罪を裁けなかった。ここに登場する中島祐雄も中国戦線に参加してきた。(近藤)
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 裁判を受ける日本戦犯・吉房虎雄、李長泰は軍事法廷陳列館で吉房虎雄の写真を見つけた。
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 ◆ 弁護(瀋陽軍事法廷で日本人戦犯の弁護をした中国人弁護士)
   原文:『読者』2018.1   作者:董倩
   (日本語訳の簡約:近藤)


 1956年、中華人民共和国最高人民裁判所特別軍事法廷瀋陽で8名の日本戦犯の公開審理を行った。
 25歳の李長泰はそのうち3名の日本戦犯の弁護士となった。

 彼は、全ての法律関係者とともに中国人の血に染まった日本戦犯の弁護などできようかと思った。
 彼の経歴からもどうしてもできないと思った。
 1931年遼寧錦州生まれの李長泰は、生まれるとすぐ“亡国の民”であり、6歳のとき一家挙げて内モンゴルに引っ越したがやはり日本人の管轄下にありまぎれもない“満州国”の教育を受けた。
 始業初日、国語教科書第1ページは“3月1日建国節、天皇陛下万歳万歳”、
 背表紙《三字経》の中には“九一八、満州興れ、康徳帝、都は新京、”溥儀は日本に行って帰ってくると《国民へ賜る書》を配布し、日本が彼に対してどのように良いかなどを語り、学生たちは1字も間違いなく暗記しなければならない。
 教育、これは恐ろしいもの、一人の子供のころどんな教育を受けたが問題だ。

 当時、李長泰は当時わからなかったけれど、ある一人の年配の韓先生は、真実を言わなければ子どもたちは本当に奴隷化すると分かっていた
 そこで、彼は生命の危険を冒して子ども達に告げた。
 お前たちは中国人だ、中国は大きくて物も豊富だ、日本人が我々の上にいるのも長くない
 まるで大海の中を長く漂流していて突然遠くに灯台を見つけたように、その光はかすかなものだがはっきりと輝き、この言葉は李長泰の前進方向を照らした。
 1945年、日本が敗戦し林西の日本人はみんな逃げた
 14歳の李長泰は中国共産党熱北専従として勤務し始めその後中央幹部学校で法律を学び学校にとどまって働いた。
 ある日、教務所から北京で日本人の弁護をする訓練を命じられた。望まなくても組織のの任務は果たさなければならない。
 若い李長泰は、ハバロフスク裁判・東京裁判・ニュルンベルグ裁判の弁護記録を学び、しだいに3名の戦犯の調書を見始めた。
 李長泰は、3名の日本戦犯は一方では命令に従っただけであると考え、
 しかし、もう一方では戦士を生体実験に送り、村を全滅させ中国の民衆を虐殺していることをどう弁護していいのかを考えた。
 中国人としてはこれを許しがたいが、弁護士としては依頼人と共に立たねばならない。実際に、態度を変えた李長泰は、共産党員として組織が課した任務を必ず貫徹しようと考えた。
 中国人としての見方を留保して、ただ弁護士として問題を考え、戦犯も人間であり、彼らの弁護される権利を保障しなければならないと考えた。
 李長泰は毎回戦犯を見て、彼らは普通の人のようであり、時に凶暴な顔つき、時に優しい顔、どうしても彼らを悪魔としてみることはできない。
 法廷審理で、ある一人の平頂山虐殺事件の幸存者が出てきて証言した。
 被告の日本人戦犯・吉房虎雄は突然跪き、泣き止まない

 李長泰は言う。
 彼はこの中年がこのように多くの人の面前で所かまわず泣くとは思いもよらなかった、その時、彼は義房がとても可愛そうになった。
 戦争の渦の中では自己の運命をまぬかれないのだ。個人はその怒涛の戦争の中に縛りつけられるしかない、
 それぞれ皆、人間の悪を放つに任せるしかなかったのだ。
 戦争が終わって、平静になり彼は内心で自分を注視し失っていた人間性を取り戻すのだ
 李長泰は3名の日本人戦犯を弁護し、一人も死刑判決を出さなかった
 最長で20年、しかも、1945年逮捕された時から計算し審判後数年とたたず、彼らは刑期満了で釈放され日本に返された
 弁護任務が完了した後、李長泰は東北にもどり、1958年1枚のはがきを受け取った。
 それは、彼が弁護した宇津正孟雄が帰国途中香港を経由した時出したものだった。
 彼は、中国の寛大さに感謝し、李長泰が彼のために弁護してくれたことに感謝し、帰国したら必ずこれに報いると書いていた。
 李長泰は言葉では言えない感動を受けた。
 長い人生の中で、李長泰はこの任務について書いたことはないし、子どもにも言ったことはない。
 瀋陽審判60周年彼はやっと子供たちに話した
 私は彼にどうしてですかときいた。老人はあっさりと“それは任務だから。
 私はその他にも多くのことをやった、他人に言うことじゃない。”と。
 でも、私は、彼は提示したくないんだと思った。

 私は彼の息子にこのことをどう見るか訊いてみた。
 息子は言う。“父は一生このことを外部に出すつもりはなかった。
 退職後、多くの同僚は皆弁護士になったが彼はずっとやらなかった
 私の娘が法律を学んでいた時、父は卒業しても弁護士にはなるなと言った。
 当時はどうしてかわからなかった。
 今、かれは言う。
 我々はやっとわかった。彼はきっと自分の経歴を思っていたのだろう。”

 屈強な老人は数十年の間、次々とニュースを見た。
 多くの帰国した日本人戦犯が、自分の後半生日中友好推進の事業に従事していることを。
 李長泰は一つ一つ納得した。
 恨みは溶けるものでわだかまらない

 もし、あの時、彼らを死刑にし殺していたら、恨みを晴らすことであろう。
 しかし、今日彼らが生きて平和・友好のために少しでも尽くしている方がいい
 当時の審判と弁護は恨みを晴らすためではなかった、彼はどうして恨みをこんなにも長く心にとどめてきたのだろうか?
 80過ぎた李長泰は今や、ついに当時の自分の弁護活動を了解したのだ。

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