◆ 問題が多い日科の中学道徳教科書 (多面体F)
8社の教科書のうち5社の表紙(上:左から学研、日科、光村、下:学図、教出)
昨夏から連続4年連続で実施される教科書採択。今年は中学道徳教科書の年だ。5月最終週にスタートした教科書研究センターを皮切りに、全国の採択地区で見本本の展示会が開催されている。わたくしは5月半ばに出版労連の会議室で行われた「教科書を考えるシンポジウム」でだいたいの問題点を把握してから江東区千石の教科書研究センターで検定合格8社(光村、学研、廣済堂あかつき(あかつき)、日本文教出版(日文)、東京書籍(東書)、教育出版(教出)、学校図書(学図)、日本教科書(日科))の教科書をみた。
1セットしかないため、悪い前評判の高い、日科に「人気が殺到し」順番待ちとなった。
昨年の採択のときにみた、小学校道徳教科書が思い出された。
小学校のときは、全体に国語の教科書のよう。ただし「徳目」に沿ったことに限定し「どんな気持ちだったと思いますか」などと聞いているので、「心の押しつけ」になっているものがかなり多いという感想を抱いた。
中学の場合、「ちょっといい話」「少し心に(突き)刺さる話」が並んでいた。ただし設問を使って22の徳目に「誘導しよう」という点ではまったく同じといえる。
8社すべてが収録した教材が2つある。「二通の手紙」(白木みどり)と「足袋の季節」(中江良夫)だが、前者は文科省「私たちの道徳」(2014年)のものを使っている。ここまでくると、事実上の国定教科書にほかならない。
「二通の手紙」は徳目「法やきまりを守る」の教材として収録されている。
主人公は動物園の入園係の元さん、定年まで働いていた。妻をなくし、それまでのまじめな勤務ぶりが認められ再任用の話があった。入園終了時間直後、閉門の15分くらい前に小学3年くらいの女の子が3,4歳の男の手を引いてやってきた。「今日は弟の誕生日だから」と手に料金を握りしめ泣き出しそうな顔をしていた。同情し特別に入場させた。ところが2人は閉園時間になっても出てこない。職員総出で園内を捜索し1時間後にみつかった。
数日後、子どもたちの母親からおわびと感謝の手紙が届いた。しかしもう1通上司に届いた手紙は元さんの停職の「懲戒処分」の通告だった。時間だけでなく、子どもたちだけで入園させてはいけないという規則もあった。その日限りで元さんは職場を去って行った。
本来、どうすれば子どもの希望と園のルールを両立できるか、たとえばもう一人の係員が子どもに同行するなど、大人として子どもの要望を満たせるような第三の方法を考えることも解決法のひとつのはずだ。それを「ルールを守る」と、初めから答えを出しておいて討論させるのだから、一方的であり、「考える道徳」「議論する道徳」にはならない。(中学生でも学校や教科書の意図に気づく)
今年4月23日(月)NHKのクローズアップ現代+で「“道徳”が正式な教科に 密着・先生は? 子どもは?」という番組を放映していた。
杉並区の小学校4年の道徳の授業で「お母さんのせいきゅう書」という教材を使い、家事の無償労働をテーマにした授業だった。
教師の意図は「母親の無償の愛を通じて、「家族愛」について考える」というもので、たしかにそういう意見も数人の子どもから出たが、一人の生徒が「私は0円なのよ、お母さんの気持ちになってみなさいよ。せっかく家事とかをしているのに。子どもっていいな。えらいことをするとお金をもらえるから」と考えて、「私も子どもがいいな」という意見を述べ、先生に反駁された。
授業後、泣いてしまって顔を洗っている男の子の姿が映し出された。
生徒の母は「仕事をしながら自分(子ども)のために家事もこなす、母親のことを思っての発言だった」というもので、この場合は担任が授業後に個別に児童に話しかけ、サポートしたことになっていた。
こういう回答は中学生の場合、さらに多角的多面的に出てくると思われる。本当はそれらをもとに「自分の頭で考える授業」が始まるはずだが、先生方は対応できるのだろうか。
また、「二通の手紙」は「法とルール」で、「六千人の命のビザ」(杉原千畝の話)は徳目「国際理解・国際貢献」の教材だが、杉原こそ本省の領事館退去命令も守らず、ビザの発給も本省に認められなかったのだから「法とルール」の観点からなら完全にアウトになってしまう。
下村元文科大臣や安倍首相、麻生財務大臣はどうコメントするのか、聞いてみたいものだ。もっとも彼らは、役人が積極的に「忖度」し文書改竄や虚偽答弁をしてくれるから、何が起ころうと困ることも迷うこともないのかもしれないが・・・。
そのうえに評価の問題がある。
文科省は、道徳の評価について「道徳科では、特に、数値で評価して他の子供達と比較したり、入試で活用したりすることはしません。「国や郷土を愛する態度」などの個別の内容項目の評価はしないので、「愛国心」を評価することなどあり得ません」とウェブサイトで説明し、2016年に松野文科大臣(当時)は「児童個別の成長のありさまを文章で記述する」と答弁していた。
しかし8社の教科書のうち5社で3段階から5段階の評価表を付けている。
教出は、全教材に対し3段階の「心かがやき度」で「新しい発見があったりためになった」かどうか自分なりに色を塗り評価するもの、
東書は「教材について興味をもって読めたか」「授業の内容について深く考えることができたか」など4項目を学期に1度4段階で評価するもので、まだましだった。
日文は別冊・道徳ノートで1教材につき1p感想を書かせた末尾に「授業の内容」(印象に残ったから残らないまで)、「友達の意見や話し合いから新しい発見や気づき」(有りから無しまで)、「自分の考えを深める」(できたからできなかったまで)、「これから大切にしたいこと」(わかったからわからないまで)の4項目を5段階評価するものだが、ある意味で抽象的な自己評価なので、まだ許せる。
しかし、あかつきは別冊・道徳ノートで「日本人としての自覚をもち、国の発展に努める」など22の徳目について学期に1度「できなかった」から「とてもよくできた」の5段階で評価するものだ。
もっとも極端なのは日科で「国を愛し、伝統や文化を受け継ぎ、国を発展させようとする心」など22の徳目ひとつずつに「意味はわかるけれど、大切さを感じない」「大切さや意味はわかるけれど、態度や行動にすることができない」「大切さや意味は理解していても、態度や行動にできる時とできない時がある」「大切さや意味は理解していて、多くの場面で態度や行動にできている」など、内心や行動そのものを自己評価して学校に提出しろと言っているので、これはひどいと思う。
生徒の自己評価という抜け穴を利用したともいえるが、教師が生徒の自己評価を利用しないとは考えられない。
道徳という教科は中学生にとって「ウソ」と「ごまかし」のテクニックとやり方を練習し学ぶ時間になってしまうことが懸念される。
「道徳」を学校で教科として教え、かつ評価するむずかしさは、小学校以上にはっきり現れることだろう。
その他、日科の教科書には、懸念される教材が散見された。
●小学校では「出会いがしらの会釈は15度、ていねいなあいさつは30度、ちゃんとあやまるときは45度」とお辞儀する角度まで指定する教科書があった(光文5年)が、中学の日科(3年56p)にも「最も礼儀正しい振る舞い」「最も無礼な振る舞い」を答えさせる題材がある。
真心とは別の「うわべだけの態度」「表面的な見せかけ方」を重視する教育結果に陥りそうである。
●小学校道徳には「下町ボブスレー」で「ポーズを決める安倍首しょう」と顰蹙を買う写真が掲載されている教科書が合格した(教育出版5年)。
中学では、安倍首相の2016年12月27日の真珠湾での演説(抜粋)を掲載したのが日科だった(2年152p)。アベらしく謝罪は一言もなく「御霊よ、安らかなれ」という慰霊のみだ。
敗戦後70年の2015年8月15日に長岡市が姉妹都市ホノルルの真珠湾で「白菊」という慰霊の花火を打ち上げたという記事が4pあり、そのあとに「和解の力」という安倍のコラムが1p付いているのだが、まるでアベ演説を入れたいがために「忖度」の手段として、「白菊」をもってきたようにみえた。
●「伊勢の神宮」というコラムが出ている(日科3年p148)。「神宮」と「式年遷宮」の2つの記事から成り、「神宮」には「『神嘗祭』は(略)神宮の恒例のお祭りの中でも、最も重要なお祭りとされています」とあり、「式年遷宮」は「我が国の伝統文化のルーツを伝え、技術の保存継承にも大きな役割を果たしています」と説明されている。なぜ道徳という教科で、戦前以来ふたたび中学生が「国家神道」を学ばないといけないのだろう。
日科の教科書にはいろいろ問題があることがよくわかった。
○その他、これはシンポジウムで知ったことだが、道徳は歴史や科学ではないので、歴史的事実や自然科学の知見に沿っていない説明でも教科書に掲載して差し支えないという考えがあるそうだ。
たとえば「六千人の命のビザ」(杉原千畝の話)で「日本はドイツと防共協定を結んでいる国です。そのために、あなた方ユダヤ人にビザを出すのは難しい立場にあります」との文に「生徒が誤解する表現である」という検定意見をつけ、「私は数人分のビザなら発行することができますが、これほど大勢の人たちにお出しするのは難しい立場にあります」(学図2年192p)に修正することになった。
教科書展示の話題なので、中心テーマは教科書にしたが、教師の「教え方」にも大きく左右されると思う。
「考える道徳」「議論する道徳」という点では、10年以上前に社会科の増田都子教諭が実践した「紙上討論」が参考になる(このサイトを参照)。討論形式でやるとどうしても「口が達者な生徒」な意見に流れるという考えから、あくまでも「紙上」で討論を繰り返すものである。
以前からいわれてきたことだが、道徳科はほかの教科と異なり、哲学・倫理学などの学問の裏付けがない。その弱さからくる欠陥が小学校と比較しても、いっそう大きくなったように思える。
繰り返しになるが、中学生にとって道徳の時間が「ウソ」と「ごまかし」のテクニックとやり方を、練習し学ぶ時間にならないとよいのだが・・・。
『多面体F』(2018年06月12日)
https://blog.goo.ne.jp/polyhedron-f/e/473cfc7b049bed5fa73e911b594102a7
8社の教科書のうち5社の表紙(上:左から学研、日科、光村、下:学図、教出)
昨夏から連続4年連続で実施される教科書採択。今年は中学道徳教科書の年だ。5月最終週にスタートした教科書研究センターを皮切りに、全国の採択地区で見本本の展示会が開催されている。わたくしは5月半ばに出版労連の会議室で行われた「教科書を考えるシンポジウム」でだいたいの問題点を把握してから江東区千石の教科書研究センターで検定合格8社(光村、学研、廣済堂あかつき(あかつき)、日本文教出版(日文)、東京書籍(東書)、教育出版(教出)、学校図書(学図)、日本教科書(日科))の教科書をみた。
1セットしかないため、悪い前評判の高い、日科に「人気が殺到し」順番待ちとなった。
昨年の採択のときにみた、小学校道徳教科書が思い出された。
小学校のときは、全体に国語の教科書のよう。ただし「徳目」に沿ったことに限定し「どんな気持ちだったと思いますか」などと聞いているので、「心の押しつけ」になっているものがかなり多いという感想を抱いた。
中学の場合、「ちょっといい話」「少し心に(突き)刺さる話」が並んでいた。ただし設問を使って22の徳目に「誘導しよう」という点ではまったく同じといえる。
8社すべてが収録した教材が2つある。「二通の手紙」(白木みどり)と「足袋の季節」(中江良夫)だが、前者は文科省「私たちの道徳」(2014年)のものを使っている。ここまでくると、事実上の国定教科書にほかならない。
「二通の手紙」は徳目「法やきまりを守る」の教材として収録されている。
主人公は動物園の入園係の元さん、定年まで働いていた。妻をなくし、それまでのまじめな勤務ぶりが認められ再任用の話があった。入園終了時間直後、閉門の15分くらい前に小学3年くらいの女の子が3,4歳の男の手を引いてやってきた。「今日は弟の誕生日だから」と手に料金を握りしめ泣き出しそうな顔をしていた。同情し特別に入場させた。ところが2人は閉園時間になっても出てこない。職員総出で園内を捜索し1時間後にみつかった。
数日後、子どもたちの母親からおわびと感謝の手紙が届いた。しかしもう1通上司に届いた手紙は元さんの停職の「懲戒処分」の通告だった。時間だけでなく、子どもたちだけで入園させてはいけないという規則もあった。その日限りで元さんは職場を去って行った。
本来、どうすれば子どもの希望と園のルールを両立できるか、たとえばもう一人の係員が子どもに同行するなど、大人として子どもの要望を満たせるような第三の方法を考えることも解決法のひとつのはずだ。それを「ルールを守る」と、初めから答えを出しておいて討論させるのだから、一方的であり、「考える道徳」「議論する道徳」にはならない。(中学生でも学校や教科書の意図に気づく)
今年4月23日(月)NHKのクローズアップ現代+で「“道徳”が正式な教科に 密着・先生は? 子どもは?」という番組を放映していた。
杉並区の小学校4年の道徳の授業で「お母さんのせいきゅう書」という教材を使い、家事の無償労働をテーマにした授業だった。
教師の意図は「母親の無償の愛を通じて、「家族愛」について考える」というもので、たしかにそういう意見も数人の子どもから出たが、一人の生徒が「私は0円なのよ、お母さんの気持ちになってみなさいよ。せっかく家事とかをしているのに。子どもっていいな。えらいことをするとお金をもらえるから」と考えて、「私も子どもがいいな」という意見を述べ、先生に反駁された。
授業後、泣いてしまって顔を洗っている男の子の姿が映し出された。
生徒の母は「仕事をしながら自分(子ども)のために家事もこなす、母親のことを思っての発言だった」というもので、この場合は担任が授業後に個別に児童に話しかけ、サポートしたことになっていた。
こういう回答は中学生の場合、さらに多角的多面的に出てくると思われる。本当はそれらをもとに「自分の頭で考える授業」が始まるはずだが、先生方は対応できるのだろうか。
また、「二通の手紙」は「法とルール」で、「六千人の命のビザ」(杉原千畝の話)は徳目「国際理解・国際貢献」の教材だが、杉原こそ本省の領事館退去命令も守らず、ビザの発給も本省に認められなかったのだから「法とルール」の観点からなら完全にアウトになってしまう。
下村元文科大臣や安倍首相、麻生財務大臣はどうコメントするのか、聞いてみたいものだ。もっとも彼らは、役人が積極的に「忖度」し文書改竄や虚偽答弁をしてくれるから、何が起ころうと困ることも迷うこともないのかもしれないが・・・。
そのうえに評価の問題がある。
文科省は、道徳の評価について「道徳科では、特に、数値で評価して他の子供達と比較したり、入試で活用したりすることはしません。「国や郷土を愛する態度」などの個別の内容項目の評価はしないので、「愛国心」を評価することなどあり得ません」とウェブサイトで説明し、2016年に松野文科大臣(当時)は「児童個別の成長のありさまを文章で記述する」と答弁していた。
しかし8社の教科書のうち5社で3段階から5段階の評価表を付けている。
教出は、全教材に対し3段階の「心かがやき度」で「新しい発見があったりためになった」かどうか自分なりに色を塗り評価するもの、
東書は「教材について興味をもって読めたか」「授業の内容について深く考えることができたか」など4項目を学期に1度4段階で評価するもので、まだましだった。
日文は別冊・道徳ノートで1教材につき1p感想を書かせた末尾に「授業の内容」(印象に残ったから残らないまで)、「友達の意見や話し合いから新しい発見や気づき」(有りから無しまで)、「自分の考えを深める」(できたからできなかったまで)、「これから大切にしたいこと」(わかったからわからないまで)の4項目を5段階評価するものだが、ある意味で抽象的な自己評価なので、まだ許せる。
しかし、あかつきは別冊・道徳ノートで「日本人としての自覚をもち、国の発展に努める」など22の徳目について学期に1度「できなかった」から「とてもよくできた」の5段階で評価するものだ。
もっとも極端なのは日科で「国を愛し、伝統や文化を受け継ぎ、国を発展させようとする心」など22の徳目ひとつずつに「意味はわかるけれど、大切さを感じない」「大切さや意味はわかるけれど、態度や行動にすることができない」「大切さや意味は理解していても、態度や行動にできる時とできない時がある」「大切さや意味は理解していて、多くの場面で態度や行動にできている」など、内心や行動そのものを自己評価して学校に提出しろと言っているので、これはひどいと思う。
生徒の自己評価という抜け穴を利用したともいえるが、教師が生徒の自己評価を利用しないとは考えられない。
道徳という教科は中学生にとって「ウソ」と「ごまかし」のテクニックとやり方を練習し学ぶ時間になってしまうことが懸念される。
「道徳」を学校で教科として教え、かつ評価するむずかしさは、小学校以上にはっきり現れることだろう。
その他、日科の教科書には、懸念される教材が散見された。
●小学校では「出会いがしらの会釈は15度、ていねいなあいさつは30度、ちゃんとあやまるときは45度」とお辞儀する角度まで指定する教科書があった(光文5年)が、中学の日科(3年56p)にも「最も礼儀正しい振る舞い」「最も無礼な振る舞い」を答えさせる題材がある。
真心とは別の「うわべだけの態度」「表面的な見せかけ方」を重視する教育結果に陥りそうである。
●小学校道徳には「下町ボブスレー」で「ポーズを決める安倍首しょう」と顰蹙を買う写真が掲載されている教科書が合格した(教育出版5年)。
中学では、安倍首相の2016年12月27日の真珠湾での演説(抜粋)を掲載したのが日科だった(2年152p)。アベらしく謝罪は一言もなく「御霊よ、安らかなれ」という慰霊のみだ。
敗戦後70年の2015年8月15日に長岡市が姉妹都市ホノルルの真珠湾で「白菊」という慰霊の花火を打ち上げたという記事が4pあり、そのあとに「和解の力」という安倍のコラムが1p付いているのだが、まるでアベ演説を入れたいがために「忖度」の手段として、「白菊」をもってきたようにみえた。
●「伊勢の神宮」というコラムが出ている(日科3年p148)。「神宮」と「式年遷宮」の2つの記事から成り、「神宮」には「『神嘗祭』は(略)神宮の恒例のお祭りの中でも、最も重要なお祭りとされています」とあり、「式年遷宮」は「我が国の伝統文化のルーツを伝え、技術の保存継承にも大きな役割を果たしています」と説明されている。なぜ道徳という教科で、戦前以来ふたたび中学生が「国家神道」を学ばないといけないのだろう。
日科の教科書にはいろいろ問題があることがよくわかった。
○その他、これはシンポジウムで知ったことだが、道徳は歴史や科学ではないので、歴史的事実や自然科学の知見に沿っていない説明でも教科書に掲載して差し支えないという考えがあるそうだ。
たとえば「六千人の命のビザ」(杉原千畝の話)で「日本はドイツと防共協定を結んでいる国です。そのために、あなた方ユダヤ人にビザを出すのは難しい立場にあります」との文に「生徒が誤解する表現である」という検定意見をつけ、「私は数人分のビザなら発行することができますが、これほど大勢の人たちにお出しするのは難しい立場にあります」(学図2年192p)に修正することになった。
教科書展示の話題なので、中心テーマは教科書にしたが、教師の「教え方」にも大きく左右されると思う。
「考える道徳」「議論する道徳」という点では、10年以上前に社会科の増田都子教諭が実践した「紙上討論」が参考になる(このサイトを参照)。討論形式でやるとどうしても「口が達者な生徒」な意見に流れるという考えから、あくまでも「紙上」で討論を繰り返すものである。
以前からいわれてきたことだが、道徳科はほかの教科と異なり、哲学・倫理学などの学問の裏付けがない。その弱さからくる欠陥が小学校と比較しても、いっそう大きくなったように思える。
繰り返しになるが、中学生にとって道徳の時間が「ウソ」と「ごまかし」のテクニックとやり方を、練習し学ぶ時間にならないとよいのだが・・・。
『多面体F』(2018年06月12日)
https://blog.goo.ne.jp/polyhedron-f/e/473cfc7b049bed5fa73e911b594102a7
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