《9・30再雇用拒否撤回二次訴訟 原告意見陳述》<2>
◎ 生徒の自主的努力を引き出す教育実践
~上意下達の教育では、生徒を育てる教育はできません
原告の小澤美彦です。私は2004年3月の都立葛西工業高校の卒業式において、国歌斉唱時に不起立のため戒告処分を受けました。2007年度の再雇用を希望しましたが、不合格となりました。
私は静岡で2年、東京で34年機械科の教員として勤めてまいりました。以下、少しの例を挙げ、私がどのような教員であったか、そのことがなぜ不起立につながるのかについて述べたいと思います。

「報告集会」 《撮影:平田 泉》
第1 教科指導
私は教員の第一条件として、教科指導がしっかりできること、と考えております。
教員最後の年、私は機械科2年生の製図の授業を受け持っていました。9月に全国工業高校校長会主催の基礎製図検定がありました。この検定は、工業高校生が受験する公的資格試験で、基礎的な製図に関する知識が習得されているかを検定するものです。平均合格率は55%位です。
私は夏休みに16枚の宿題を出しました。「この宿題は提出しても提出しなくても良い。ただし提出しない者で検定不合格の場合は赤点とする。でもなるべく提出しないでもらいたい。」と言いました。
提出者は少なくとも16枚分の勉強をする。未提出者は多分16枚の宿題以上の勉強をすると考えたからです。
9月の最初、宿題の未提出者は10名でした。宿題を2日間で採点し、個人ごとの不得意項目を検討しました。検定試験前に項目別に7日間補講を設けました。参加不参加は自由です。強制的に補講を受けさせても生徒の力にはなりません。生徒は自主的に自分の不得意項目の補講に参加しました。
結果は1クラス全員が合格という快挙でした。長年私が目指していた合格率100%を初めて達成しました。一番の原因は生徒が*自主的に努力した結果だと思います。また担任の先生の協力も力になりました。
第2 クラブ指導
私は36年間バスケットボール部の顧問としてクラブ指導をしてまいりました。もちろん日曜、祭日もありませんでした。
今から20年前、東京の工業高校活性化のため、工業校長会が、工業高校のスポーツ大会を企画しました。私は今回の原告でもある水野先生らとともに役員として、バスケソトボール大会の設立に及ばずながら尽力しました。今でも大会は続いております。
墨田工業高校のバスケット部は第1回大会から参加していましたが、準優勝、3位にはなるのですが、優勝はできませんでした。
何故かというと私の方針で、大会には、1、2年生を参加させたためだと思います。高体連の公式戦である新人戦が10月にあり、9月の工業大会には現役(1,2年生)に経験を積ませたかったからです。
その年も1,2年生で参加し準決勝まで勝ち進みました。準決勝の相手はF工業高校で3年生も含まれたチームでした。接戦にはなったのですがやはり経験の差が出たのか1点差で惜敗しました。
試合後私は生徒に「今のままでは強くなれない。練習時間は定時制のある学校のため1時間ちょっと、なおかつ狭い体育館で週4回の半面使用である。この練習ではどうしても足りない練習が出てしまう。君たちが自分たちで何ができるかを考えてくれ、」と言いました。
私は以前から「自分たちで考え、自分たちでする練習が生徒を伸ばす」と考えていました。
次の週から生徒たちは、朝の始業1時間半前に登校し学校の周りを30分以上ランニングし、シュート練習を試合に出られない生徒も誰一人欠けることもなく、自分たちで毎日続けていました。私はあえてその練習には参加しませんでした。
次の年の4月の公式戦で、東京都ベスト32を決める4回戦は、くしくも秋に戦ったF工業高校との試合でした。その試合はダブルスコアで大勝しました。
その年の9月の工業大会は3年生が7人残りましたので、3年生チームと現役チームの2チーム参加で臨みました。結果は3年生チームが優勝、現役チームが準優勝という素晴らしい成績でした。翌年も優勝、準優勝という結果を出すことができました。
第3 生徒指導
今から十数年前A工業高校の機械科2年生にT君がいました。そのT君が5月から急に学校に来なくなりました。私は当時そのクラスの機械設計という科目を教えており、また生徒指導部に所属していました。T君の担任に事情を聞いたところ、何か事件に巻き込まれ当分学校には出られないということでした。
11月に担任から生徒指導部に、実はT君は少年刑務所に入っており、12月に出所すると言ってきました。それを受け生徒指導部で検討した結果、処分するのではなく、1週間生徒指導部で面談等をし、その結果を見て復学させるという案を職員会議に提出しました。
管理職はこんな重大事件を起こしたのだから退学勧告をするという方向でした。それにたいし賛否両論が出たのですが、最終的には生徒指導部の原案が通りました。
12月に入りT君が登校しました。私は機械科の教員であり、なおかつ授業もしているということでT君と多くの話ができました。私は人間が素直になれると考えていた灰谷健次郎の「兎の眼」「太陽の子」の読書を勧めました。T君は以前とは違い言動も落ち着いてきました。
T君は出席日数の関係で留年と決まっているのですが、授業にも一生懸命取り組んでいました。それからのT君は2年、3年と努力をし、事件以前はクラスの最下位であった成績も上位で卒業しました。また体育祭のリーダーとしてクラスの優勝に貢献しました。
3年の就職試験のとき私のところに、「面接試験のとき、留年の理由を聞かれたら何と答えればよいか」と相談に来ました。私は正直に答えればよいと言いました。見事合格しました。
それから何年か経ち、私は別の高校に勤務していました。朝その学校の通勤途中に、車の中から「先生」と声をかけられました。T君です。
「おかげさまで会社も続いています。結婚して子どももできました。」と言われたときは本当に良かったと思いました。
第4 不起立の理由
教育現場では、生徒が自主的に行動し、学び、考える力を育てています。それには教員集団が自由にものを考え、意見を述べ合い、協力し合うことが必要不可欠であります。それが10・23通達に象徴されるような上意下達の教育では、生徒を育てる教育はできません。
私の場合「国歌斉唱時の際は起立をして斉唱すること」という職務命令に先立ち、一人校長室に呼ばれ、校長から「卒業式で不起立であると今回は処分される。また3年後の再任用、再雇用の道はなくなる。それでもいいのか?」と脅されました。職員会議で10・23通達は憲法違反だと主張したからでしょうか。卒業学年の担任である私は、処分をちらつかせた強制、いや脅迫するというやり方に強い怒りを覚えました。
常々私は生徒に対し「罰があるから何かをしないのではなく、賞があるから何かをするのではない。なにかをする、しないは、自分で考え行動するものである。」と言っていました。私が脅されて起立することは、今までの私の教育を全否定するもので、一生後悔すると考え起立できませんでした。
都教委は処分を利用してまで、学校現場を管理強化し破壊しています。その結果、学校では、卒業式、入学式などの問題だけでなく、意見を述べる職員はほとんどいなくなりました。多くの職員が「言っても無駄」「時間の無駄」という考えになってしまいました。それは何事でも最終的には「職務命令」を出されれば終わりなのだから、というあきらめであります。職員会議は校長の都教委方針の伝達会となってしまいました。職員集団が自分たちで考えない、無責任な学校運営になってしまいました。
このように児童生徒に向き合っていない教育がエスカレートしていく実態を私は危惧しています。この裁判が、この悪い教育の流れを断ち切ってくれると信じております。
◎ 生徒の自主的努力を引き出す教育実践
~上意下達の教育では、生徒を育てる教育はできません
原告 小澤美彦
原告の小澤美彦です。私は2004年3月の都立葛西工業高校の卒業式において、国歌斉唱時に不起立のため戒告処分を受けました。2007年度の再雇用を希望しましたが、不合格となりました。
私は静岡で2年、東京で34年機械科の教員として勤めてまいりました。以下、少しの例を挙げ、私がどのような教員であったか、そのことがなぜ不起立につながるのかについて述べたいと思います。

「報告集会」 《撮影:平田 泉》
第1 教科指導
私は教員の第一条件として、教科指導がしっかりできること、と考えております。
教員最後の年、私は機械科2年生の製図の授業を受け持っていました。9月に全国工業高校校長会主催の基礎製図検定がありました。この検定は、工業高校生が受験する公的資格試験で、基礎的な製図に関する知識が習得されているかを検定するものです。平均合格率は55%位です。
私は夏休みに16枚の宿題を出しました。「この宿題は提出しても提出しなくても良い。ただし提出しない者で検定不合格の場合は赤点とする。でもなるべく提出しないでもらいたい。」と言いました。
提出者は少なくとも16枚分の勉強をする。未提出者は多分16枚の宿題以上の勉強をすると考えたからです。
9月の最初、宿題の未提出者は10名でした。宿題を2日間で採点し、個人ごとの不得意項目を検討しました。検定試験前に項目別に7日間補講を設けました。参加不参加は自由です。強制的に補講を受けさせても生徒の力にはなりません。生徒は自主的に自分の不得意項目の補講に参加しました。
結果は1クラス全員が合格という快挙でした。長年私が目指していた合格率100%を初めて達成しました。一番の原因は生徒が*自主的に努力した結果だと思います。また担任の先生の協力も力になりました。
第2 クラブ指導
私は36年間バスケットボール部の顧問としてクラブ指導をしてまいりました。もちろん日曜、祭日もありませんでした。
今から20年前、東京の工業高校活性化のため、工業校長会が、工業高校のスポーツ大会を企画しました。私は今回の原告でもある水野先生らとともに役員として、バスケソトボール大会の設立に及ばずながら尽力しました。今でも大会は続いております。
墨田工業高校のバスケット部は第1回大会から参加していましたが、準優勝、3位にはなるのですが、優勝はできませんでした。
何故かというと私の方針で、大会には、1、2年生を参加させたためだと思います。高体連の公式戦である新人戦が10月にあり、9月の工業大会には現役(1,2年生)に経験を積ませたかったからです。
その年も1,2年生で参加し準決勝まで勝ち進みました。準決勝の相手はF工業高校で3年生も含まれたチームでした。接戦にはなったのですがやはり経験の差が出たのか1点差で惜敗しました。
試合後私は生徒に「今のままでは強くなれない。練習時間は定時制のある学校のため1時間ちょっと、なおかつ狭い体育館で週4回の半面使用である。この練習ではどうしても足りない練習が出てしまう。君たちが自分たちで何ができるかを考えてくれ、」と言いました。
私は以前から「自分たちで考え、自分たちでする練習が生徒を伸ばす」と考えていました。
次の週から生徒たちは、朝の始業1時間半前に登校し学校の周りを30分以上ランニングし、シュート練習を試合に出られない生徒も誰一人欠けることもなく、自分たちで毎日続けていました。私はあえてその練習には参加しませんでした。
次の年の4月の公式戦で、東京都ベスト32を決める4回戦は、くしくも秋に戦ったF工業高校との試合でした。その試合はダブルスコアで大勝しました。
その年の9月の工業大会は3年生が7人残りましたので、3年生チームと現役チームの2チーム参加で臨みました。結果は3年生チームが優勝、現役チームが準優勝という素晴らしい成績でした。翌年も優勝、準優勝という結果を出すことができました。
第3 生徒指導
今から十数年前A工業高校の機械科2年生にT君がいました。そのT君が5月から急に学校に来なくなりました。私は当時そのクラスの機械設計という科目を教えており、また生徒指導部に所属していました。T君の担任に事情を聞いたところ、何か事件に巻き込まれ当分学校には出られないということでした。
11月に担任から生徒指導部に、実はT君は少年刑務所に入っており、12月に出所すると言ってきました。それを受け生徒指導部で検討した結果、処分するのではなく、1週間生徒指導部で面談等をし、その結果を見て復学させるという案を職員会議に提出しました。
管理職はこんな重大事件を起こしたのだから退学勧告をするという方向でした。それにたいし賛否両論が出たのですが、最終的には生徒指導部の原案が通りました。
12月に入りT君が登校しました。私は機械科の教員であり、なおかつ授業もしているということでT君と多くの話ができました。私は人間が素直になれると考えていた灰谷健次郎の「兎の眼」「太陽の子」の読書を勧めました。T君は以前とは違い言動も落ち着いてきました。
T君は出席日数の関係で留年と決まっているのですが、授業にも一生懸命取り組んでいました。それからのT君は2年、3年と努力をし、事件以前はクラスの最下位であった成績も上位で卒業しました。また体育祭のリーダーとしてクラスの優勝に貢献しました。
3年の就職試験のとき私のところに、「面接試験のとき、留年の理由を聞かれたら何と答えればよいか」と相談に来ました。私は正直に答えればよいと言いました。見事合格しました。
それから何年か経ち、私は別の高校に勤務していました。朝その学校の通勤途中に、車の中から「先生」と声をかけられました。T君です。
「おかげさまで会社も続いています。結婚して子どももできました。」と言われたときは本当に良かったと思いました。
第4 不起立の理由
教育現場では、生徒が自主的に行動し、学び、考える力を育てています。それには教員集団が自由にものを考え、意見を述べ合い、協力し合うことが必要不可欠であります。それが10・23通達に象徴されるような上意下達の教育では、生徒を育てる教育はできません。
私の場合「国歌斉唱時の際は起立をして斉唱すること」という職務命令に先立ち、一人校長室に呼ばれ、校長から「卒業式で不起立であると今回は処分される。また3年後の再任用、再雇用の道はなくなる。それでもいいのか?」と脅されました。職員会議で10・23通達は憲法違反だと主張したからでしょうか。卒業学年の担任である私は、処分をちらつかせた強制、いや脅迫するというやり方に強い怒りを覚えました。
常々私は生徒に対し「罰があるから何かをしないのではなく、賞があるから何かをするのではない。なにかをする、しないは、自分で考え行動するものである。」と言っていました。私が脅されて起立することは、今までの私の教育を全否定するもので、一生後悔すると考え起立できませんでした。
都教委は処分を利用してまで、学校現場を管理強化し破壊しています。その結果、学校では、卒業式、入学式などの問題だけでなく、意見を述べる職員はほとんどいなくなりました。多くの職員が「言っても無駄」「時間の無駄」という考えになってしまいました。それは何事でも最終的には「職務命令」を出されれば終わりなのだから、というあきらめであります。職員会議は校長の都教委方針の伝達会となってしまいました。職員集団が自分たちで考えない、無責任な学校運営になってしまいました。
このように児童生徒に向き合っていない教育がエスカレートしていく実態を私は危惧しています。この裁判が、この悪い教育の流れを断ち切ってくれると信じております。