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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

フィンランドと日本の違いは、教育制度、教師の多忙度、現場への裁量

2013年07月19日 | こども危機
 ◆ フィンランドと日本の教育を体験して
ウコンマーンアホ万里 早稲田大学教育学部1年生

 ◆ 二つの例
 あれはフィンランドの現地高校の数学の授業中のことであった。
 斜め前の席の女の子が、ずっと編み物をしている。靴下だろうか。手元を見ないで編みながら、スクリーンを見つめて授業を聞いている。
 先生は気づいていないのか、と思いながら私はノートに目を向けた。するとその子の声がした。「先生、それはさっきの式を使ってこうして解くのはだめですか」
 編みながら、である。先生は何ら編み物を気にする様子はなくその子の質問に答えている。編み物が目に入っている筈なのに、注意しない
 そういえば、日本の中学に居た頃にも先生が生徒を注意しないことがあった。中学の授業中、どうにも騒がしく、携帯電話をいじっている生徒もいた。先生はそれが目に入っている筈なのに、注意せず、騒がしい中で淡々と板書をし、一人授業をしていた。
 生徒が他の事をしているが、注意をしない。一見同じに見える二つの例の教師の行為だが、その根底には全く正反対の理由がある。
 ◆ 日本の中学とは大違い
 私は日本で中学校まで通い、フィンランドの高校に進学した。語学にあまり不自由しなくなった2年目から、両国の教育の違いについて、徐々に興味を持っていった
 違いは山ほどあった。部活や校則の有無、生徒や教師の様子、授業の雰囲気、学校の対応まで、違いを全て記していると終りが見えない。
 したがってここでは、私が最も興味を持った違いについてお話したい。とはいえこれは、中学と高校という、年齢も違い義務教育がどうかも違う学校の比較であることを注意して頂きたい。
 先ほどの例に話を戻そう。フィンランドの例で教師が生徒を注意しなかった理由は、その生徒が手を動かすことでより物事に集中できるタイプの子だと認識していたからだ。
 その生徒は、手元を見ずに編みながらも授業を熱心に聞いていた。生徒が最もよく授業に集中できるならば、編み物をしていても構わないのだ。
 それでは、私はゲームをしている方が集中できる、などと屁理屈を言う生徒が出てくるのでは、と思われるかもしれない。実際、フィンランドの高校には校則はほとんどなく、ゲームや携帯を持ってくることはできる。だがしかし、そのような屁理屈を言う生徒は現れないし、時折携帯でメールを打つ子はいるものの、日本の中学に居た頃のように常に携帯をいじる生徒もいない。
 皆比較的集中して授業を聞き、授業の進行を妨げるとしても積極的に質問をする。私がいた日本の中学とは大違いであった。
 ◆ 生徒が主体
 なぜこのような違いが生まれるのか。私の生徒としての感覚では、フィンランドの学校では生徒が自分たちを主体だと感じていたことに理由があると思う。
 フィンランドでは、教育現場に大きな裁量が与えられている。
 もちろん、高校卒業時に大学資格試験があるため、それに受かるよう授業を進めなければならないが、具体的な進め方や授業の内容、教科書の選択及び使用の有無まで全て教師が決めることができる。したがって、生徒の様子を見て進行速度や授業構成を変えることができる。全ては生徒が中心なのである。
 それゆえ、生徒が質問をすることで進行が遅くなっても何ら構わず、むしろ生徒が質問することで授業がよりわかりやすくなると考えられる
 学校としても、例えば生徒の希望する授業が満員だった場合、スクールカウンセラーに相談をすると新しい授業を開設してくれることもある。
 試験も、希望すれば追試を受けられるため、一回きりというプレッシャーはなく、生徒自身のペースで学習をすすめられる。卒業年数も2年半から4年と好きなペースで学習できる。
 ◆ 教師と生徒の対話
 では、生徒たちはどうして自分たちを主体だと考えられるのか。
 その原因として、授業にグループワークや生徒同士の話し合い、意見表明の機会がとても多いことがあげられる。
 教師からの質問が多く、生徒はそれに発言をして答える。つまり、教師と生徒の対話によって授業がなりたっている。
 教師が自分に話しかけている、自分たちの話を聞いているということがよくわかり、生徒が自身の存在価値を認識し、主体的に参加することにつながるのではないか。
 逆に、日本の中学では、もちろん教師によるのだが、騒がしい中一人黙々と板書をし、宙にむかって授業をしつづけている教師も少なくなかった。あるいは、静かな授業であっても、生徒の大半は居眠りをしており、教師は淡々と資料を読み上げる一方的な授業も多かった。
 そこには対話は成り立っておらず、生徒としても、自分たちはどうせ居ても居なくても同じだ、人間扱いされていない、対等に扱われていないと感じるのではないか。
 ◆ 一方的な関係
 教師一人に対し、生徒の人数は多い。その中で、教師と個人という関係を全生徒それぞれと保ちつづける事は、さぞかし難易度が高いだろう。
 教師には、高い能力と高度な教師教育、十分に準備をし、自身の能力をも高められる余裕のある時間が必要なのではないか。
 実際、フィンランドでは職業として教師の人気が非常に高く、教育学部の倍率も非常に高い。加えて、大学・大学院での教員育成の授業のレベルも高く、何より実習期間がとても長いことは有名である。
 また、フィンランドでは、教師は数ある職業の中でも休みが多いことで知られている。休みの間にじっくり授業の準備をし、生徒のことを考え、自身もしっかり休んでストレスをためずにいられる。
 日本ではどうだろうか。
 情熱をもって教師という職業を目指し、教師になる人もいるだろう。しかし、とりあえず教員免許を取っておこうという学生も数多く、軽い気持ちで取りやすい状況でもある。
 また、教師の多忙化は大きな問題になっている。加えて、制度上の問題もある。そもそも教科書や教え方がかなり制限されていたら、現場に裁量はあまりない。生徒に合わせて柔軟に教授スタイルを変えたり、生徒がより興味を持ってくれるように授業や資料を考えたりすることに限度がある。
 多忙化とこの制度の硬さでは、教師のやりがいも薄れ、時間的制約も大きい。
 校則の多さや生徒の要求に柔軟には対応してくれない点も、生徒が自分たちは対等に思われていないと感じ、自身を主体と思えない原因かもしれない。
 国から地方、地方から学校教師から生徒へ、上から下という一方的な関係のあり方が問題なのではないか。
 ◆ フィンランドを参考に新たな教育の模索を
 私の結論を言うと、一見同じ行為に見える文頭の二つの行為の違いは、教育において生徒が中心であるか否かの違い、そして教師と生徒が対等であり尊重しあっているか、それとも無視しあっているかの違いから生じているのではないか。
 その背景には、教育制度、教師の多忙度、現場への裁量等の違いがある。
 それらの違いは結局、社会や文化の違いからきている。

 タテ社会であればやはり上下関係に気を配れる社会人を育てる必要があり、また現場でも必然的にそういった形になってしまうのではないか。
 しかしそのような社会や文化もまた、教育によって伝えられ、創造されてきたのだ。だからこそ、これからの未来像をはっきりさせ、そこに向かうためにどういった教育をすればよいのか、そして教育制度のひずみから生じている現代の教育問題の数々をいかにして解決していくのかを考えなければならない。
 必ずしもフィンランドの教育が完壁なわけではないし、日本社会に合っているわけでもないだろう。日本社会や日本の教育の長所も残しながら、新たな教育を模索することを、フィンランドを参考にしながら進めていきたい。
『子どもと教科書全国ネット21ニュース』89号(2013.4)

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1 コメント

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Unknown (散歩人)
2013-07-19 00:59:29
東京や大阪の教員採用試験の倍率低下が著しい。
その結果、新採の質がどんどん下がっているという。
教育実習に行けば、現在の教育現場が、極悪教育委員会に圧迫されて息も絶え絶えになっていることはすぐにわかる。これではまともな学生は逃げ出すわけで、新採の質の低下も当然と言えよう。
しかも、東京都は教師養成塾で、教える能力・自ら判断する能力など二の次で(というか自ら判断してはいけない)「いいなりになる教師」の育成に力を注いでいるのだから、自ら教師の質を落としているのである。
その一方で都教委は、入試問題(12年度法学部)で日の丸・君が代強制を批判的に取り上げたこと等で早稲田大学を目の敵にして、早大の学生の採用を大幅に減らしたという(実教出版の日本史教科書つぶしと同じ論理)。
つまり、特に東京都では(大坂もか?)、教育現場に弾圧を加えるだけでなく、採用段階でも暴虐の限りを尽くし、結果として教育の質を著しく低下させているのである。まさにフィンランドの真逆を行っていると言わざるを得ない。フィンランドの話を聞けば聞くほどむなしくなる…それが今の東京・大阪の公立学校教師のいつわらざる気持ちであると思う。
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