パワー・トゥ・ザ・ピープル!!アーカイブ

東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

キリスト者は東京都では教員になれない

2010年07月05日 | 暴走する都教委
 ◆ キリスト者は東京都では教員になれない!
  ~信仰の自由は地方公務員法に制約される?


 ◆ 合格者に採用辞退を強要した区教委

 昨年、教員で作った「祈りの輪」の集会に、二〇〇六年四月に小学校教員に採用されなかった若いMさんが参加しました。彼の夢は教員志望でした。
 採用試験に合格していたMさんは、校長面接で学級担任も確認した帰り際、気になって「入学式の『君が代』では、自分は立つことも、歌うことも出来ない」と伝えました。すると校長は、教育委員会に連れて行き、そこで、まず「国旗、国歌とは何か」と聞かれ、「あなたは教師なので、そのルールに従った上で信仰の自由を守りなさい」と言われました。つまり、「内心で信仰を守りなさい」と。
 それに対して、「信仰は心だけの問題ではなく、行動も伴なうものであると私は思う」と主張しました。すると教育委員会は、「信仰の自由は結構だが、あなたが違反しているのは、信仰の自由ではなく、地方公務員法の上司の命令には従わなければならないという点である」と問題をすり替えられ、「公務員の服務義務だ」として、「不採用にしないが、君から採用辞退することは出来る」と、言ったというのです。
 教育委員会の態度は実に卑劣で「不採用に出来ない」のは労働法違反だからなのに、命令調でMさんに、まるで採用には「国旗国歌」が絶対条件であるかのように虚偽の言葉で辞退を強いたのです。彼は、信仰を考えた上で辞退を選びました
 彼は、大学四年の時、教員採用に合格し、卒論で国旗国歌を選びました。二〇〇五年にキリスト者学生会(KGK)で「戦争の学び会ー君が代ー」を学び、戦前の日本基督教団が「大東亜共栄圏にあるキリスト信徒に送る手紙」によって植民地朝鮮に神社参拝は礼拝でないと説明し、日本政府の強要を後押しした罪責について学びました。
 その朝鮮の信徒の信仰には命を掛ける価値がある」という言葉で、今後の自分のとるべき行動がはっきり示されたと言います。彼の証を読むと本当に感動的です。
 彼は不思議なことに、現在、採用予定だった学校の常勤講師として担任をしていて、教員になる夢が叶えられています。いつも密かに彼を守る人が必ず現れると言います。
 「私は、あの辞退したこと、悩んだこと、祈ったことすべてに感謝しています。神様は、私たちに無茶な要求をします。私の場合は『M君、教員をやりたければ、教員を辞めなさい』というのが神様の要求でした(笑)。しかし、神様は少しでも神様を信じて歩めば、必ず祝福を下さる。人知では到底計り知れない神の計画によって……」。
 彼は今、夜間の神学校で学び始めました。
 (参考書『神の都を目指して生きる』キリスト者学生会<KGK>発行)
 (略)

 ◆ 神様が陳述書に息を吹き込んで下さった
 二〇〇四年の裁判法廷でクリスチャンとして陳述をした都立高校教員のKさんは、FEBCラジオ放送で言いました。
 「私は東京地裁で自分の陳述書を読み上げている時、自分でも思いかけないことに初めて、この国が間違った方向に行くことを神様がこんなにも惜しんでいると、その神様の愛が強く迫ってきて、泣けて泣けて仕方がありませんでした。
 僕のような信仰もいい加減なものを通しても神様が訴えようとしている。びっくりした。陳述書に息を吹き込んで下さったのです。そこで、はっきり信仰が分かり、温かく見守ってくださる神様を感じた。人権と信仰に新たに目覚めた。
 都立高校教員という当事者として決断を迫られ信仰を与えられていて本当に良かった。自分の智慧とカで権力に対して闘っているのではなく、聖書にあるように迫害されながら福音は伝えられて行く。神様がその時語るぺき言葉も用意して下さり励まして前に進ませて下さる。辛い状況にあるがどうなるのか結構燃えて来る。楽しいと言うか神様の働きでやっていると言うか、歴史的な局面に立たされた使命を感じています。」
 彼はこの裁判についての本『戦争って起こらないよね』(いのちのことば社)を書き、平和の資料にし、諸教会に行って国旗国歌の学校強制について訴えています。
 (略)

 《講演》「信教の自由」と教育の強制について(後)木村葉子

コメント    この記事についてブログを書く
« 国内人権機関と個人通報制度... | トップ | 「表現の自由」の世界標準で... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

暴走する都教委」カテゴリの最新記事