◆ 5・11「板橋高校藤田裁判」無罪判決を勝ち取る集会 ◆
<日時> 5月11日(木)18:30~
<場所> 板橋グリーンホール
(東武東上線大山、三田線板橋区役所前)
<主催> 藤田先生を応援する会
<共催> 東京「日の丸・君が代」強制反対裁判をすすめる会
被告人陳述~私は「学校の子」です。
藤田勝久
2006年3月23日
私は、1948 年(昭和23 年)4 月、国民学校が廃止された翌年の小学校に入学しました。私の人生は新憲法の歩みと軌を一にしております。戦前の教育への深刻な反省から戦後教育は何よりも教育内容への行政の介入を排除すべく、憲法及び教育基本法においてその自由と教員の自主的な責任を謳いました。言うなれば司法権の独立に相当する教育権の独立という発想です。そのことによって戦前とは断絶した民主的な社会が実現されていくのだと考えたからです。
私は「学校の子」です。北海道時代は数学の分らない生徒を夜遅く自宅で教えました。家庭訪問で根釧原野を走り回りました。阿寒の山の一軒の生徒の家に行くには半日かかりました。家出した男子生徒を親と相談し家で預かりました。東京では毎日の長距離通勤の中で未明に家を出、何度も何度も生徒を自宅まで呼びに行きました。何としても進級、卒業させたいとの思いからでした。硬式野球の監督時代は冬季以外休日、祭日もなく引率、練習試合に明け暮れました。板橋高校時代は朝6時半ごろ出勤し掃除、煙草拾い、登校指導をしました。生活指導では通算数百人もの生徒の事情聴取、説諭、問題の解決に尽力しました。授業・担任・部活動などで接した生徒数は総計一万人に達すると思います。ただただ学校の中に生き、学校の中で生涯の過半を過ごしてまいりました。管理職となって授業の場や担任から離れる気持ちはさらさらなく「生涯一教員」としての誇りをもって過ごしてまいりました。
その中での思いは学校は、行政権力や政党からの介入を受けることなく自由な雰囲気の中で教職員と生徒が心を通わせて過ごす場である、またそうでなければならないということです。ところが1990 年代後半都立高校に暗雲が漂いだしました。学校の根幹である自由で平等な立場での議論の場、「職員会議」が単なる報告の場に替えられ、すべては校長が決定するという流れが加速してきます。あの夜遅くまで議論を闘わせた熱気はどこへいってしまったのでしょうか。
そのような流れの中で、都教委は卒業式の「式次第の一項目」から、椅子の向き、旗の選定とその位置、歌の一つを命令で行わせるという、かって考えられもしなかったことを命じてきました。
私は永年の教員生活の中で卒業式を最も大切にし定時制では4年間、全日制では3年間の労苦の報われる日として感動をもって迎えた教員の一人です。
2004 年3 月の板橋高校の卒業式は最後、生徒の選曲した「旅立ちの日に」という歌が全盲の女生徒のピアノの音にあわせて見事な二部合唱で高らかに歌われ感動的な卒業式であったと聞きます。理不尽にも退出させられ参列出来なかったことが残念でなりません。式中、校長・教頭・都議が1分近くにわたって卒業生を叱責したと聞きます。
以前、正門の前の縁石に座っていた老婆に聞いた話を思い出します。「戦時中、ここに千川という川があったんだよ、蛍がいっぱいいてねえ、警官が灯火管制、灯を消せって怒鳴っていたよ」そのような時代が再び来ないことを願って止みません。
今回、家宅捜索をされ起訴され裁判となり、精神的にも経済的にも追い込まれました。ここに結審を迎えることが出来たのは、弁護士の先生方を初めとして多くの方々のご支援のお陰です。深く感謝申し上げます。
裁判所におかれましても公正な審理を尽くしていただいたことに深甚なる敬意の念を表したいと思います。
皆様へのお礼の言葉をもって本人陳述を終わらせていただきます。
ありがとうございました。
『板橋高校元教員・藤田先生を応援する会通信第13号』より
<日時> 5月11日(木)18:30~
<場所> 板橋グリーンホール
(東武東上線大山、三田線板橋区役所前)
<主催> 藤田先生を応援する会
<共催> 東京「日の丸・君が代」強制反対裁判をすすめる会
被告人陳述~私は「学校の子」です。
藤田勝久
2006年3月23日
私は、1948 年(昭和23 年)4 月、国民学校が廃止された翌年の小学校に入学しました。私の人生は新憲法の歩みと軌を一にしております。戦前の教育への深刻な反省から戦後教育は何よりも教育内容への行政の介入を排除すべく、憲法及び教育基本法においてその自由と教員の自主的な責任を謳いました。言うなれば司法権の独立に相当する教育権の独立という発想です。そのことによって戦前とは断絶した民主的な社会が実現されていくのだと考えたからです。
私は「学校の子」です。北海道時代は数学の分らない生徒を夜遅く自宅で教えました。家庭訪問で根釧原野を走り回りました。阿寒の山の一軒の生徒の家に行くには半日かかりました。家出した男子生徒を親と相談し家で預かりました。東京では毎日の長距離通勤の中で未明に家を出、何度も何度も生徒を自宅まで呼びに行きました。何としても進級、卒業させたいとの思いからでした。硬式野球の監督時代は冬季以外休日、祭日もなく引率、練習試合に明け暮れました。板橋高校時代は朝6時半ごろ出勤し掃除、煙草拾い、登校指導をしました。生活指導では通算数百人もの生徒の事情聴取、説諭、問題の解決に尽力しました。授業・担任・部活動などで接した生徒数は総計一万人に達すると思います。ただただ学校の中に生き、学校の中で生涯の過半を過ごしてまいりました。管理職となって授業の場や担任から離れる気持ちはさらさらなく「生涯一教員」としての誇りをもって過ごしてまいりました。
その中での思いは学校は、行政権力や政党からの介入を受けることなく自由な雰囲気の中で教職員と生徒が心を通わせて過ごす場である、またそうでなければならないということです。ところが1990 年代後半都立高校に暗雲が漂いだしました。学校の根幹である自由で平等な立場での議論の場、「職員会議」が単なる報告の場に替えられ、すべては校長が決定するという流れが加速してきます。あの夜遅くまで議論を闘わせた熱気はどこへいってしまったのでしょうか。
そのような流れの中で、都教委は卒業式の「式次第の一項目」から、椅子の向き、旗の選定とその位置、歌の一つを命令で行わせるという、かって考えられもしなかったことを命じてきました。
私は永年の教員生活の中で卒業式を最も大切にし定時制では4年間、全日制では3年間の労苦の報われる日として感動をもって迎えた教員の一人です。
2004 年3 月の板橋高校の卒業式は最後、生徒の選曲した「旅立ちの日に」という歌が全盲の女生徒のピアノの音にあわせて見事な二部合唱で高らかに歌われ感動的な卒業式であったと聞きます。理不尽にも退出させられ参列出来なかったことが残念でなりません。式中、校長・教頭・都議が1分近くにわたって卒業生を叱責したと聞きます。
以前、正門の前の縁石に座っていた老婆に聞いた話を思い出します。「戦時中、ここに千川という川があったんだよ、蛍がいっぱいいてねえ、警官が灯火管制、灯を消せって怒鳴っていたよ」そのような時代が再び来ないことを願って止みません。
今回、家宅捜索をされ起訴され裁判となり、精神的にも経済的にも追い込まれました。ここに結審を迎えることが出来たのは、弁護士の先生方を初めとして多くの方々のご支援のお陰です。深く感謝申し上げます。
裁判所におかれましても公正な審理を尽くしていただいたことに深甚なる敬意の念を表したいと思います。
皆様へのお礼の言葉をもって本人陳述を終わらせていただきます。
ありがとうございました。
『板橋高校元教員・藤田先生を応援する会通信第13号』より
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