【東京「君が代」裁判第3次訴訟 2010年7月7日】
◎ 代理人弁論 弁護士 植竹和弘
1.本訴訟の概要
本訴訟は、都立学校の教職員である原告らが、「卒業式等の式典において、指定された席で国旗に向かって起立し、国歌を斉唱すること」 「国歌斉唱時にピアノ伴奏をすること」等を命じる校長の職務命令に違反したことを理由に、東京都教育委員会(以下、「都教委」という)が原告らに対して行った各懲戒処分の取り消し、および、都教委の所属公共団体である東京都に対して慰謝料の支払いを求める訴えです。
校長の職務命令は、2003年10月13日に都教委から各校長に宛てて発出された「10・23通達」と同通達に関する指導・監督に基づくもので、同通達の内容は校長に職務命令の発令を強制するものですが、10・23通達は違憲違法であり、これに基づく校長の職務命令には重大かつ明白な瑕疵があるため、原告らはこれに従う義務は生ぜず、職務命令違反を理由とする各懲戒処分はいずれも違法であって取り消されるべきです。
2,本訴訟の意義
(1)本訴訟では子どもの成長発達権、学習権を豊かに保障するために不可欠な教師の教育の自由と共に、とりわけ原告らの思想・良心・信教の自由が最も基本的な問題として取り上げられています。
これまでに教育や教育政策、教育制度のあり方を巡る教育裁判が数多く提起され、そこで教師の教育の自由が問題とされていますが、教師の思想・良心・信教の自由が本格的に問題とされたケースはありませんでした。公権力がこれほどまでに国民、子どもや教師たちの心の内奥にまで侵入してきたことは、戦後に民主主義の時代を迎えて以来、かってなかったことだからです。
(2)いうまでもなく、思想・良心・信教の自由は、自らの行為や態度を自律的に決定するために不可欠なものであり、憲法が最も高い価値を認めている個人の尊厳に直結する自由であり、民主主義の根幹をなすものであります。
公立学校の教師についても、当然に個人の尊厳が尊重されなければなりません。
(3)改定前の教育基本法前文は、「個人の尊厳を重んじ」「普遍的にしてしかも個性豊かな文化の創造」「憲法の精神に則り、教育の目的を明示して」と謳い、憲法的価値を教育の理念とすることを明らかにしていました。同法1条は、教育の目的として「人格の完成」「平和な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値を尊び…」と定め、同法2条は、教育の方針として「学問の白由を尊重し…自主的精神を育て」と定めていました。
改定後の教育基本法前文においても、「民主的で文化的な国家」の更なる発展、「世界の平和と人類の福祉の向上」「我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成」を揚げ、「憲法の精神にのっとり、わが国の未来を切り拓く教育」を謳っている。その1条は、「人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」と定めています。ここで「憲法の精神にのっとり」とあるのは、教育を通じて憲法的価値を子どもに伝えることを意味しており、したがって憲法13条にのっとり、「すべて国民は個人として尊重される」ことを教育の場で実現すること、換言すれば個人の尊厳を重視する教育を行なうことを要請したものにほかなりません。
このような自由と民主主義の教育の要請は、わが国だけに限ったことではありません。 20世紀前半に二度の悲惨な世界大戦を経験した世界の国々に共通した要請であり、教育基本法前文及び1条は世界史の潮流に沿った普遍性を有するものであります。このような要請は、1948年の世界人権宣言26条にも明記され、79年の経済的、社会的、文化的権利に関する国際規約によって条約化されている。同規約の13条は、「締約国は、教育が人格の完成及び人格の尊厳についての意識の十分な発達を指向し、並びに人権及び基本的自由の尊重を強化すべきことに同意する。更に、締約国は、教育がすべての者に対し、自由な社会に効果的に参加すること…を助長することに同意する」と定めています。
子どもの権利条約の前文も上記規約と同趣旨であり、12条、13条、14条は、意見表明権、表現の自由、思想・良心・宗教の自由をそれぞれ定めています。すなわち学校教育においては、子どもの個人の尊厳を尊重する立場に立ち、子どもの上記の諸白由を保障しなければならず、そのためには他者の思想・良心・信教を互いに認め合い尊重し合う気風が、学校の中に醸成されなければなりません。
したがって、自らの思想・良心・信教からして日の丸に向かって起立し君が代を斉唱することができない子どもがいた場合には、不起立・不斉唱の自由を保障できるよう、そのような思想・良心・信教を認め、尊重する気風が学校内になければなりません。
このように学校教育は、子どもが自らの意見を形成し、それを表現することや、自らの思想・良心・信教の自由を行使する方法を学ぶことができるようなものでなければなりません。それによって初めて子どもは、「民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備える」ことが可能となり、「自由な社会に効果的に参加すること」が可能とされるのです。
(4)そして、このような学校教育を行うためには、教師についても個人の尊厳が尊重され、その思想・良心・信教の自由が認められることが必要不可欠です。教師の思想・良心・信教の自由が、子どもたちの面前で、とりわけ卒業式などの儀式の際に侵害され、個人の尊厳が蹂躙されるような環境では、上記のような学校教育が不可能となることは明らかである。
(5)我が国ではサンフランシスコ講和条約以降、教育の国家統制が強化されてきました。その強力な手段が学習指導要領であり、特に1989年の改訂によって、卒業式等において国旗国歌を「指導するものとする」とされました。しかし、その後も「国旗」「国歌」について定義づけた法律はなく、日の丸が国旗なのか、君が代が国歌なのかということが教育現場で議論となっていたところ、1999年2月に広島県立世羅高校の校長が自殺するという痛ましい事件をきっかけとして、国旗国歌法の制定が政治課題となり、1999年8月9日に国旗国歌法が成立に至りました。しかし、国旗国歌法の制定は、日の丸が国旗であり君が代が国歌であることを規定することそのものに意義があるとされ、同法の国会審議段階でなされた政府答弁でも、同法が教育現場も含む国民生活において、国民に対しなんら変化や義務づけを行なうものではないと強調されていたのです。
このような経過の中で、東京都では、2003年に10・23通達が発出され、卒業式等における日の丸・君が代の強制により教師の教育の自由が全面的に剥奪されただけでなく、教師の思想・良心・信教の自由までが侵害されるに至っているのです。
2006年12月に教育基本法改定が可決されるや否や、翌2007年1月1日、日本経団連の御手洗会長は、「希望の国、日本」、いわゆる御手洗ビジョンを発表しました。そこには「国を愛する心や国旗・国歌を大切に思う気持ちを育む」「教育現場のみならず、官公庁や企業、スポーツイベントなど、社会のさまざまな場面で日常的に国旗を掲げ、国歌を斉唱し、これを尊重する心を確立する」ことが明記されていました。この教育基本法改正及び御手洗ビジョンにより国民の大多数が、「さまざまな場面で日常的に」日の丸・君が代を強制されることになります。今や日の丸・君が代の強制は、子どもと教師、学校の中だけの間題ではなく、広く国民全体の内心の自由に関わる重大な問題となっているのです。
その意味で、教師の思想・良心・信教の白由を護る本件訴訟は、格段にその社会的意義を高めています。
3.裁判所の使命
(1)愛媛県知事による県護国神社や靖国神社への玉串料奉納の憲法違反性が争われた愛媛玉串料訴訟において、最高裁大法廷は憲法違反との判断を示したが、その判決において、尾崎行信裁判官が次のとおりの補充意見を述べています。
本件の玉串料等の奉納は、その金額も回数も少なく、特定宗教の援助等に当たるとして問題とするほどのものではないと主張されており、これに加えて、今日の社会情勢では、昭和初期と異なり、もはや国家神道の復活など期待する者もなく、その点に関する不安は杞憂に等しいともいわれる。しかし、我々が自らの歴史を振り返れば、そのように考えることの危険がいかに大きいかを示す実例を容易に見ることができる。人々は、大正末期、最も拡大された自由を享受する目々を過ごしていたが、その情勢は、わずか数年にして国家の意図するままに一変し、信教の自由はもちろん、思想の自由、言論、出版の自由もことごとく制限、禁圧されて、有名無実となったのみか、生命身体の自由をも奪われたのである。
『今日の滴る細流がたちまち荒れ狂う激流となる』との警句を身をもって体験したのは、最近のことである。情勢の急変には10年を要しなかったことを想起すれば、今日この種の問題を些細なこととして放置すべきでなく、回数や金額の多少を問わず、常に発生の初期においてこれを制止し、事態の拡大を防止すべきものと信ずる。
(2)ドイツ告白教会の神学者であり、ナチスへの抵抗運動を担った牧師のマルティン・ニーメラーが第二次大戦後、ドイツのキリスト者がナチスによる災禍が自分たちの身に降りかかるまで、 その悪魔性に目を閉ざし見過ごしてきた罪を深く悔い、痛恨の思いを込めて読んだ詩があります。
ナチの連中が共産主義者を攻撃したとき、 私は声をあげなかった、
私は共産主義者ではなかったから。
社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、 私は声をあげなかった、
私は社会民主主義者ではなかったから。
彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、 私は声をあげなかった、
私は労働組合員ではなかったから。
彼らがユダヤ人たちを連れて行ったとき、 私は声をあげなかった、
私はユダヤ人ではなかったから。
そして、 彼らが私を攻撃したとき、
私のために声をあげる者は、 誰一人残っていなかった。
(3)日の丸に正対して君が代を歌うこと、君が代斉唱の伴奏を強制することを、社会的儀礼や常識の範囲として「問題とするほどのものではない」、「今日の社会情勢では、もはや全体主義権力の復活などは考えられず、その点に関する不安は杞憂に等しい」のではなく、「そのように考えることの危険がいかに大きいかを示す実例を容易に見ることができる」と言うべきです。
現在は入学式や卒業式での君が代の強制が、そこに留まらず、官公庁での就業開始・終了時、衆参本会議開始時、更には、裁判所の就業開始・終了時に君が代斉唱が強制されるに至った時にはもう遅いのです。現に、千葉県内の殆どの警察署では、毎夕、終業の午後5時になると署内に君が代が流れ、警察官全員が直立不動でそれを拝聴し、その間、接見にいった弁護士が待たされるという状況も出現しています。
「今日の滴る細流がたちまち荒れ狂う激流となる」は、しばしば引用される厳言です。10・23通達は、既に「今日の滴る細流」の域を超えています。しかし、まだ「激流」にまでは至っていません。「荒れ狂う激流」とならないうちに、「思想・良心の自由」と「権力の教育への介入阻止」を実現しなければなりません。
訴訟の冒頭にあたって、貴裁判所に、国民が負託したその重い職責を全うされるよう、強く要請するものです
◎ 代理人弁論 弁護士 植竹和弘
1.本訴訟の概要
本訴訟は、都立学校の教職員である原告らが、「卒業式等の式典において、指定された席で国旗に向かって起立し、国歌を斉唱すること」 「国歌斉唱時にピアノ伴奏をすること」等を命じる校長の職務命令に違反したことを理由に、東京都教育委員会(以下、「都教委」という)が原告らに対して行った各懲戒処分の取り消し、および、都教委の所属公共団体である東京都に対して慰謝料の支払いを求める訴えです。
校長の職務命令は、2003年10月13日に都教委から各校長に宛てて発出された「10・23通達」と同通達に関する指導・監督に基づくもので、同通達の内容は校長に職務命令の発令を強制するものですが、10・23通達は違憲違法であり、これに基づく校長の職務命令には重大かつ明白な瑕疵があるため、原告らはこれに従う義務は生ぜず、職務命令違反を理由とする各懲戒処分はいずれも違法であって取り消されるべきです。
2,本訴訟の意義
(1)本訴訟では子どもの成長発達権、学習権を豊かに保障するために不可欠な教師の教育の自由と共に、とりわけ原告らの思想・良心・信教の自由が最も基本的な問題として取り上げられています。
これまでに教育や教育政策、教育制度のあり方を巡る教育裁判が数多く提起され、そこで教師の教育の自由が問題とされていますが、教師の思想・良心・信教の自由が本格的に問題とされたケースはありませんでした。公権力がこれほどまでに国民、子どもや教師たちの心の内奥にまで侵入してきたことは、戦後に民主主義の時代を迎えて以来、かってなかったことだからです。
(2)いうまでもなく、思想・良心・信教の自由は、自らの行為や態度を自律的に決定するために不可欠なものであり、憲法が最も高い価値を認めている個人の尊厳に直結する自由であり、民主主義の根幹をなすものであります。
公立学校の教師についても、当然に個人の尊厳が尊重されなければなりません。
(3)改定前の教育基本法前文は、「個人の尊厳を重んじ」「普遍的にしてしかも個性豊かな文化の創造」「憲法の精神に則り、教育の目的を明示して」と謳い、憲法的価値を教育の理念とすることを明らかにしていました。同法1条は、教育の目的として「人格の完成」「平和な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値を尊び…」と定め、同法2条は、教育の方針として「学問の白由を尊重し…自主的精神を育て」と定めていました。
改定後の教育基本法前文においても、「民主的で文化的な国家」の更なる発展、「世界の平和と人類の福祉の向上」「我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成」を揚げ、「憲法の精神にのっとり、わが国の未来を切り拓く教育」を謳っている。その1条は、「人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」と定めています。ここで「憲法の精神にのっとり」とあるのは、教育を通じて憲法的価値を子どもに伝えることを意味しており、したがって憲法13条にのっとり、「すべて国民は個人として尊重される」ことを教育の場で実現すること、換言すれば個人の尊厳を重視する教育を行なうことを要請したものにほかなりません。
このような自由と民主主義の教育の要請は、わが国だけに限ったことではありません。 20世紀前半に二度の悲惨な世界大戦を経験した世界の国々に共通した要請であり、教育基本法前文及び1条は世界史の潮流に沿った普遍性を有するものであります。このような要請は、1948年の世界人権宣言26条にも明記され、79年の経済的、社会的、文化的権利に関する国際規約によって条約化されている。同規約の13条は、「締約国は、教育が人格の完成及び人格の尊厳についての意識の十分な発達を指向し、並びに人権及び基本的自由の尊重を強化すべきことに同意する。更に、締約国は、教育がすべての者に対し、自由な社会に効果的に参加すること…を助長することに同意する」と定めています。
子どもの権利条約の前文も上記規約と同趣旨であり、12条、13条、14条は、意見表明権、表現の自由、思想・良心・宗教の自由をそれぞれ定めています。すなわち学校教育においては、子どもの個人の尊厳を尊重する立場に立ち、子どもの上記の諸白由を保障しなければならず、そのためには他者の思想・良心・信教を互いに認め合い尊重し合う気風が、学校の中に醸成されなければなりません。
したがって、自らの思想・良心・信教からして日の丸に向かって起立し君が代を斉唱することができない子どもがいた場合には、不起立・不斉唱の自由を保障できるよう、そのような思想・良心・信教を認め、尊重する気風が学校内になければなりません。
このように学校教育は、子どもが自らの意見を形成し、それを表現することや、自らの思想・良心・信教の自由を行使する方法を学ぶことができるようなものでなければなりません。それによって初めて子どもは、「民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備える」ことが可能となり、「自由な社会に効果的に参加すること」が可能とされるのです。
(4)そして、このような学校教育を行うためには、教師についても個人の尊厳が尊重され、その思想・良心・信教の自由が認められることが必要不可欠です。教師の思想・良心・信教の自由が、子どもたちの面前で、とりわけ卒業式などの儀式の際に侵害され、個人の尊厳が蹂躙されるような環境では、上記のような学校教育が不可能となることは明らかである。
(5)我が国ではサンフランシスコ講和条約以降、教育の国家統制が強化されてきました。その強力な手段が学習指導要領であり、特に1989年の改訂によって、卒業式等において国旗国歌を「指導するものとする」とされました。しかし、その後も「国旗」「国歌」について定義づけた法律はなく、日の丸が国旗なのか、君が代が国歌なのかということが教育現場で議論となっていたところ、1999年2月に広島県立世羅高校の校長が自殺するという痛ましい事件をきっかけとして、国旗国歌法の制定が政治課題となり、1999年8月9日に国旗国歌法が成立に至りました。しかし、国旗国歌法の制定は、日の丸が国旗であり君が代が国歌であることを規定することそのものに意義があるとされ、同法の国会審議段階でなされた政府答弁でも、同法が教育現場も含む国民生活において、国民に対しなんら変化や義務づけを行なうものではないと強調されていたのです。
このような経過の中で、東京都では、2003年に10・23通達が発出され、卒業式等における日の丸・君が代の強制により教師の教育の自由が全面的に剥奪されただけでなく、教師の思想・良心・信教の自由までが侵害されるに至っているのです。
2006年12月に教育基本法改定が可決されるや否や、翌2007年1月1日、日本経団連の御手洗会長は、「希望の国、日本」、いわゆる御手洗ビジョンを発表しました。そこには「国を愛する心や国旗・国歌を大切に思う気持ちを育む」「教育現場のみならず、官公庁や企業、スポーツイベントなど、社会のさまざまな場面で日常的に国旗を掲げ、国歌を斉唱し、これを尊重する心を確立する」ことが明記されていました。この教育基本法改正及び御手洗ビジョンにより国民の大多数が、「さまざまな場面で日常的に」日の丸・君が代を強制されることになります。今や日の丸・君が代の強制は、子どもと教師、学校の中だけの間題ではなく、広く国民全体の内心の自由に関わる重大な問題となっているのです。
その意味で、教師の思想・良心・信教の白由を護る本件訴訟は、格段にその社会的意義を高めています。
3.裁判所の使命
(1)愛媛県知事による県護国神社や靖国神社への玉串料奉納の憲法違反性が争われた愛媛玉串料訴訟において、最高裁大法廷は憲法違反との判断を示したが、その判決において、尾崎行信裁判官が次のとおりの補充意見を述べています。
本件の玉串料等の奉納は、その金額も回数も少なく、特定宗教の援助等に当たるとして問題とするほどのものではないと主張されており、これに加えて、今日の社会情勢では、昭和初期と異なり、もはや国家神道の復活など期待する者もなく、その点に関する不安は杞憂に等しいともいわれる。しかし、我々が自らの歴史を振り返れば、そのように考えることの危険がいかに大きいかを示す実例を容易に見ることができる。人々は、大正末期、最も拡大された自由を享受する目々を過ごしていたが、その情勢は、わずか数年にして国家の意図するままに一変し、信教の自由はもちろん、思想の自由、言論、出版の自由もことごとく制限、禁圧されて、有名無実となったのみか、生命身体の自由をも奪われたのである。
『今日の滴る細流がたちまち荒れ狂う激流となる』との警句を身をもって体験したのは、最近のことである。情勢の急変には10年を要しなかったことを想起すれば、今日この種の問題を些細なこととして放置すべきでなく、回数や金額の多少を問わず、常に発生の初期においてこれを制止し、事態の拡大を防止すべきものと信ずる。
(2)ドイツ告白教会の神学者であり、ナチスへの抵抗運動を担った牧師のマルティン・ニーメラーが第二次大戦後、ドイツのキリスト者がナチスによる災禍が自分たちの身に降りかかるまで、 その悪魔性に目を閉ざし見過ごしてきた罪を深く悔い、痛恨の思いを込めて読んだ詩があります。
ナチの連中が共産主義者を攻撃したとき、 私は声をあげなかった、
私は共産主義者ではなかったから。
社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、 私は声をあげなかった、
私は社会民主主義者ではなかったから。
彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、 私は声をあげなかった、
私は労働組合員ではなかったから。
彼らがユダヤ人たちを連れて行ったとき、 私は声をあげなかった、
私はユダヤ人ではなかったから。
そして、 彼らが私を攻撃したとき、
私のために声をあげる者は、 誰一人残っていなかった。
(3)日の丸に正対して君が代を歌うこと、君が代斉唱の伴奏を強制することを、社会的儀礼や常識の範囲として「問題とするほどのものではない」、「今日の社会情勢では、もはや全体主義権力の復活などは考えられず、その点に関する不安は杞憂に等しい」のではなく、「そのように考えることの危険がいかに大きいかを示す実例を容易に見ることができる」と言うべきです。
現在は入学式や卒業式での君が代の強制が、そこに留まらず、官公庁での就業開始・終了時、衆参本会議開始時、更には、裁判所の就業開始・終了時に君が代斉唱が強制されるに至った時にはもう遅いのです。現に、千葉県内の殆どの警察署では、毎夕、終業の午後5時になると署内に君が代が流れ、警察官全員が直立不動でそれを拝聴し、その間、接見にいった弁護士が待たされるという状況も出現しています。
「今日の滴る細流がたちまち荒れ狂う激流となる」は、しばしば引用される厳言です。10・23通達は、既に「今日の滴る細流」の域を超えています。しかし、まだ「激流」にまでは至っていません。「荒れ狂う激流」とならないうちに、「思想・良心の自由」と「権力の教育への介入阻止」を実現しなければなりません。
訴訟の冒頭にあたって、貴裁判所に、国民が負託したその重い職責を全うされるよう、強く要請するものです
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