パワー・トゥ・ザ・ピープル!!アーカイブ

東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

ある都立高の校長

2007年07月05日 | 暴走する都教委
 ◎ ある都立高校長のあきれた暴走ぶり

◆ 「毎日『日の丸』を掲げたい」

 着任の年、前庭に掲揚塔を一方的に造る。それ以後、「毎日『日の丸』を揚げたいが、当面、①行事の時、②お客さんが来た時、③都から通知があった時には必ず前庭のポールに掲げる」と宣言した。都教委の主事が一人で来る時も、PTA理事会の時も揚げる。平均的に週2、3回あがっているという印象である。はじめは教頭が揚げていたが、後に主事におこなわせるようになった。

◆ トップダウンー辺倒
① 生徒指導でも「茶髪禁止」を強引にすすめ、茶髪の生徒を帰宅させ、黒く染め直すまで授業に出させない=欠席扱いにするとした。そのことで読売新聞でもたたかれた、都教委の指導を受け、後に補習をすることで同じ指導を続けた。これが嫌で退学した生徒も数名いた。

② 反対を押し切り進路別学級編成を導入。その結果、「就職、専門学校」クラス(2年3年で各2~3クラス)の卒業生は当初の半分くらい(20名台)に落ち込む結果をもたらした。着任当時は「一人も中退者を出さない」とブチ上げ、1年目の単位不足で進級できない一年生12名を留年させ、翌年の一年生が大変問題を抱えてしまった。翌年からは、「やる気のない生徒は退めてもらう」と方針転換。

③ 特別入試制度として、△△部、△△部等に実技と面接のみで数名ずつ入学させた。
その制度で入学した△△部の生徒で、欠席も多く、授業態度も芳しくない生徒が単位不足となったが、特別措置だとして進級させた。その年、同じ学年で一般生徒で欠席もほとんど無く真面目だが学力が低いために単位が不足した(△△部の生徒より不足は少なかった)生徒がいたが、この生徒は留年となってしまった。

④ 進路や学年が毎年反対していたにもかわらず、3年目に自衛隊を進路説明会に呼んだ。制服姿を見せるなと約束したのにもかかわらず、制服姿で、人数も約束より多く来て、自衛隊員は配るとは聞いていない資料を勝手に配った。

⑤ 都の副知事に竹花元広島県警本部長が就任し、「日本を美しくする会」という団体(イエローハットの会長が主宰)による「トイレを素手で磨く」運動を校内に導入。2回は有志だったが、3回目には全校でやらされる。

⑥ 都教委の主事や学校運営連絡協議会の外部委員をいち早く職員会議に参加させた。協議会の評価委員長△△氏は、山本五十六の「厳しい指導の10か条」をを説く。また、職員会議には参加していないが、△△警察署署長(外部委員)は授業観察の後、「校内が汚いと心もすさむ。徹底的に清掃をさせて欲しい。我々の貴重な税金が使われているのだから」とコメント。

⑦ 生徒の机椅子をエコにするとして大量の予算を振り向け、その結果、図書室を除いて社会科や教務予算で新聞をとることを認めなかった。個人的に配達をしてもらったものも、翌年は禁止された。

⑧ 03年の4月から、ながら条例が廃止されたことを理由に、職場会をどこで行うか事前に願いをだすようにと通告してきた。「政治的話題等は行わないこと」などと書かれた「許可書」を書かせられ、勤務時間外にしか認めない、と。はじめの頃は提出していた。

◆ 一本釣りで主幹を8人もつくり、職員会議を形骸化させていった。
 嫌気がさして校長の1年目にl/3の教員が異動希望を提出。毎年その傾向は続いた。
 また、△△校長の4年間で6人が定年を待たずに退職したり、他にも病休が出た。
 とにかく職場の雰囲気は悪くなり、一部のヒラメ教員を除き、圧倒的に校長のやり方に異議を唱えたが、都教委からのバックアップにより、こうしたことがなされてしまった。
 「5年はいる」と豪語していたが、度重なる失敗・失言により4年で異動した。
 若手校長が都教委の尖兵となっているということが言われていたが、その実験台とでもいうようなケースであった。都教委もどこまでやれるかと見ていたと思われる。

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