《被処分者の会通信から》
◆ 教科書「人間と社会」を批判する!
2016年4月から都立高校では、従来の「奉仕」に代わって「人間と社会」の授業が1年間35単位分として始まった。実施に先立ち1年間、都教委の「研修」が行われた。
私は、A高校の教科「人間と社会」推進委員長としてこれに参加した。4回にわたる「研修と模範授業」を受講したが、都教委は何を意図して「人間と社会」を導入したのか全く理解できなかった。
私は、この教科の「怪しさ」を予感していたので、本校での導入に際しては、従来実施してきた「奉仕」の中身をそのまま継承し「名称」だけ変更して「人間と社会」に取って代えた。多くの学校でそのような対応をしていると思うが、しかし、実際に「人間と社会」の教科書を使っている学校も少なくないと思う。
「人間と社会」の教科書は、何を意図しているかは、教科書そのものからは理解できない。都教委作製の「指導資料」を読んで初めて理解できるのである。
「人間と社会」は18章から構成されているが、各章ごとに「道徳的価値」が掲載されているのである。
たとえば、3章「働くことの意義」の道徳的価値は「責任と勤勉」であり、「責任と勤勉」についてこう説明されている。
「自ら考え、判断し、実行し、自己の行為の結果に『責任』を持つことが道徳の基本である。・・人が、その集団の一員としてより良く生きていくためには、自己の所属する集団の意義を十分理解し、それぞれの役割と責任を自覚しながら、個々の存在として尊重されることが重要である。『勤勉』とは、仕事や勉強などに一生懸命に励むことである。」
教科書は、この「道徳的価値」を生徒が身につけるように巧みに誘導するのである。
働くことは、「社会に貢献することであり、幸せな世の中を築くことにつながること」とし、それを生徒に教えるためにグループによる議論、いわゆるアクティブラーニングをさせるのである。アクティブラーニングの狙いは、議論をして「正解」を考えさせるのではなく、個人の意見も集団の意見の一つに過ぎないことを確認させる作業でしかないのだ。
2015年発行の文科省の「私たちの道徳」は、小中学生に2018・9年度から実施する教科「道徳」のひな形になる教科書の見本だが、この中で「働くこと」については、こう説明されている。
「働くことは義務である」「勤労や奉仕を通して社会に貢献する。」
この説明は、「人間と社会」の「働くことの意義」と同じものである。
ここでは、働くことは「勤労の権利を有し、義務を負う」(憲法27条)という視点が全くない。
この傾向は教科書「人間と社会」全体を貫いている。
すなわち、この教科書は憲法の保障する個人としての人権の価値をどんどん薄め、仲間や集団や社会に貢献することが人間としての生き方であり道徳であることを教えるための教科書である。
人権を薄め「公」に奉仕する人間の育成が狙いなのだ。
個人よりも「公」を重視し、憲法で保障された人権に基づく市民社会の形成ではなく、公や全体(明記されていないが、最終的には国家)に仕える「公民」を育成することが目標なのである。(「私たちの道徳」では、国家に仕えることまで言及されている。)
戦前、日本国民は教育勅語により国家に仕えることが「臣民」としての道徳であることを植え付けられ、国家緊急時に戦争に協力させられた。「人間と社会」の教科書は、オブラートに包みながら陰にそのような意図を内包していのではないか。(A高校・B)
『被処分者の会通信 第113号』(2017.9.29)
◆ 教科書「人間と社会」を批判する!
2016年4月から都立高校では、従来の「奉仕」に代わって「人間と社会」の授業が1年間35単位分として始まった。実施に先立ち1年間、都教委の「研修」が行われた。
私は、A高校の教科「人間と社会」推進委員長としてこれに参加した。4回にわたる「研修と模範授業」を受講したが、都教委は何を意図して「人間と社会」を導入したのか全く理解できなかった。
私は、この教科の「怪しさ」を予感していたので、本校での導入に際しては、従来実施してきた「奉仕」の中身をそのまま継承し「名称」だけ変更して「人間と社会」に取って代えた。多くの学校でそのような対応をしていると思うが、しかし、実際に「人間と社会」の教科書を使っている学校も少なくないと思う。
「人間と社会」の教科書は、何を意図しているかは、教科書そのものからは理解できない。都教委作製の「指導資料」を読んで初めて理解できるのである。
「人間と社会」は18章から構成されているが、各章ごとに「道徳的価値」が掲載されているのである。
たとえば、3章「働くことの意義」の道徳的価値は「責任と勤勉」であり、「責任と勤勉」についてこう説明されている。
「自ら考え、判断し、実行し、自己の行為の結果に『責任』を持つことが道徳の基本である。・・人が、その集団の一員としてより良く生きていくためには、自己の所属する集団の意義を十分理解し、それぞれの役割と責任を自覚しながら、個々の存在として尊重されることが重要である。『勤勉』とは、仕事や勉強などに一生懸命に励むことである。」
教科書は、この「道徳的価値」を生徒が身につけるように巧みに誘導するのである。
働くことは、「社会に貢献することであり、幸せな世の中を築くことにつながること」とし、それを生徒に教えるためにグループによる議論、いわゆるアクティブラーニングをさせるのである。アクティブラーニングの狙いは、議論をして「正解」を考えさせるのではなく、個人の意見も集団の意見の一つに過ぎないことを確認させる作業でしかないのだ。
2015年発行の文科省の「私たちの道徳」は、小中学生に2018・9年度から実施する教科「道徳」のひな形になる教科書の見本だが、この中で「働くこと」については、こう説明されている。
「働くことは義務である」「勤労や奉仕を通して社会に貢献する。」
この説明は、「人間と社会」の「働くことの意義」と同じものである。
ここでは、働くことは「勤労の権利を有し、義務を負う」(憲法27条)という視点が全くない。
この傾向は教科書「人間と社会」全体を貫いている。
すなわち、この教科書は憲法の保障する個人としての人権の価値をどんどん薄め、仲間や集団や社会に貢献することが人間としての生き方であり道徳であることを教えるための教科書である。
人権を薄め「公」に奉仕する人間の育成が狙いなのだ。
個人よりも「公」を重視し、憲法で保障された人権に基づく市民社会の形成ではなく、公や全体(明記されていないが、最終的には国家)に仕える「公民」を育成することが目標なのである。(「私たちの道徳」では、国家に仕えることまで言及されている。)
戦前、日本国民は教育勅語により国家に仕えることが「臣民」としての道徳であることを植え付けられ、国家緊急時に戦争に協力させられた。「人間と社会」の教科書は、オブラートに包みながら陰にそのような意図を内包していのではないか。(A高校・B)
『被処分者の会通信 第113号』(2017.9.29)
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