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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

関東大震災時の朝鮮人虐殺事件の歴史の改竄をしたかった?都教委

2013年02月25日 | 暴走する都教委
  『尾形修一の教員免許更新制反対日記』から
 ▲ 都教委の震災碑文 改ざん引用


 1月25日付で、「都教委、関東大震災の朝鮮人虐殺事件を否定」(リンク)という記事を書いた。その続報を書こうと思って、今見たらちょうどこの記事に民族差別そのもののコメントがあった。「通りすがり」を名乗る人物からの論証なきコメントにきちんと反論する意味を感じないので、コメントは公開ではなく「保留」とする。この問題については、在日本大韓民国民団(民団)東京地方本部が、2月7日に都教委に抗議文を提出している
 ところで、僕は最近この問題で、非常に驚くべきことを知った。都教委が「引用」したとする「碑文」が間違っているというのである。

 そのことは、2月2日付で発行された「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」の「会報144号」の掲載された矢野恭子さんの文章で知った。僕はビックリしたのだが、書くのは現物の碑文を確認してからにしたいと思っていた。今日ようやく、墨田区の横網町公園に行って確認できたので、報告しておきたい。
 簡単に経過を振り返っておけば、都教委は日本史を独自に必修化し、「江戸から東京へ」という独自教科書(副読本)を作成している。その必修化自体、あるいは「江戸から東京へ」という本全体の問題もあるのだが、それは一応置いておく。
 今回都教委はその本の中の文章をいくつか変更することにして、ホームページで公開した。その中に、史跡紹介のコラムの中で、「(前略)大震災の混乱の中で、数多くの朝鮮人が虐殺されたことを悼み(後略)」と書かれていた部分を、「(前略)碑には、大震災の混乱の中で『朝鮮人の尊い生命が奪われました』と記されている。」と変更するとされたのである。
 これは「地の文」から「虐殺」という言葉を削除し、紛れもない虐殺事件の性格を否定するという意味を持つと考えて、ブログの前記記事で批判したわけである。
 ところで、その時点では碑文の引用と言う形にした以上、またカギカッコ(「 」)を使用している以上、そこで書かれている文章は碑にあるものをそのまま書いたのだろうと思い込み、確認まではしなかった。いくら都教委とはいっても、まさかカギカッコの中の文章が碑とは異なるとまでは考えなかったのである。
 では、実際の碑文を見てみたい。
  「一九二三年九月発生した関東大震災の混乱のなかで、あやまった策動と流言蜚語のために六千余名にのぼる朝鮮人が尊い生命を奪われました。私たちは、震災五十周年をむかえ、朝鮮人犠牲者を心から追悼します。
  この事件の真実を識ることは不幸な歴史をくりかえさず、民族差別を無くし、人権を尊重し、善隣友好と平和の大道を拓く礎となると信じます。
  思想・信条の相違を超えて、この碑の建設に寄せられた日本人の総意と献身が、日本と朝鮮両民族の永遠の親善の力となることを期待します。」
 比べてみれば、碑文=「朝鮮人尊い生命奪われました」
            引用=「朝鮮人尊い生命奪われました」

 このように、碑文と都教委の引用は「微妙に違っている」のである。「文意は変更していない」と言い逃れするかもしれないが、カギカッコを使っている以上、それは通らない。カギカッコは、中身の文章の評価とは別に、もとの文章を正確に紹介しておきますよ、と言う時に使うものである。論文ではないとはいえ、その使用法は変わらない。
 それよりも、多分これは意図的な「改ざん」ではなかろうか。つまり、引用された部分は文章全体から見ればごく一部である。
 この碑文を見れば、朝鮮人が生命を奪われたということが言いたいのではなく、それは碑を作る以上自明の前提であって、「あやまった策動と流言蜚語のため」に「六千余名の」朝鮮人が生命を奪われたと書く方が主たる目的であることが明らかである。つまり、虐殺の起きたきっかけと殺害された人数を明示しているわけである。
 この「あやまった策動と流言蜚語」という書き方は、その後の研究の進展からすれば、今では不明瞭すぎると言うべきだろう。でも公的な施設内に建造するときは、配慮を要する場合もあるのが事実である。都教委による引用は、その前段部分を全く削除している。そうすると、「きっかけがあって」「何人もの」「朝鮮人が生命を奪われました」という文章の一番最後の部分だけを取り出すと、文章として「こなれていない」「途中だけ引用した」感じが強くなるわけである。そういう感じをなくすために、わざわざ助詞を改ざんしたのではないかと考えられると思う。
 これは「間違った引用」である以上、今回の変更をそのまま生かすとしても、カッコ内が正確な引用になるように、訂正をする、または訂正文を配布する必要がある。しかし、それにとどまらず、誰がこのような引用をしたのか、碑文にきちんと当たったのか、わざと変更したのか、どうしてチェックできなかったのかなどを追及していくべき問題だと思う。
 なお、東京都立横網町公園には「復興慰霊堂」「復興記念館」などがある。ここは関東大震災時に3万8千人が焼死したといわれる陸軍被服廠の跡地で、震災の慰霊施設であると同時に、関連の記念物を公開している。そこに空襲による戦災被害者の慰霊も加わって、両者のための施設になっている。
 東京大空襲については、別個の平和博物館の建設を求める声がずっとあるが、実現していない。ということで、近代東京の2大惨事である関東大震災と東京大空襲の記憶が同居しているのである。
 そういう場所なので、「東京の人は誰でも一度は行ってるし、東京の子どもたちは社会科見学で必ず訪れる場所となっている」と思うかもしれないが、全くそういうことはない。多分皆行ったことがないだけでなく、多くの人が存在も知らないのではないか。
 さすがに被害が大きかった地元の墨田区では違うかもしれないが、僕は自分が生徒の時代には聞いたことがなかった。自分の授業では一応紹介していたが、行事等で引率したことはない。
 ここには被害児童を慰霊する「悲しみの群像」などもある。これは東京市の小学校長会が1931年に建造したものだが、戦時に金属として回収され戦後に復元されたものである。渋谷駅前のハチ公像なども同様の経過をたどっている。(この「悲しみの群像」建造に当たっては、様々な意見があり紆余曲折したことが、椎名則明「関東大震災を記憶する」(『歴史地理教育』2012年9月号)で論じられている。)
 この公園の場所は総武線、都営地下鉄大江戸線の両国駅北口から5分程度。江戸東京博物館(現在、「尾張徳川家の至宝展」開催中)や国技館、安田庭園などのすぐ近くである。南口方面には回向院や吉良邸跡などがあり、歴史散歩に恰好の地となっている。国技館には相撲博物館(無料)があり、今は大鵬の展示を行っている。今日ついでに見てきたけど、これらの場所へ行く人は多いが足を伸ばして横網町公園にも是非行って欲しいなあと思う。
 なお、関東大震災時の朝鮮人虐殺事件については、今までは「歴史改ざん」の標的にもならない、東京の人なら誰もが知っている恐るべき事件として常識化していたが、時間が経ってさすがに風化してきたのか、最近は平気で否定してしまう人が出てきているようである。
 この問題については、左翼の歴史家の研究では大杉事件、亀戸事件が中心だったため、60年代頃から朝鮮人歴史家を中心に批判の声が上がってきた。70年代以後、民衆史、地方史の研究が深化するにつれ、市民の歴史掘り起し運動とも協力しながらぼう大な史料が発掘されてきた。数多くの史料集や研究書、聞き書きなどが出されている。
 それらの原史料にあたる気もないのに虐殺はなかったなどと書き込むのは恥かしい
 とりあえず、地域の図書館にでも行って、あるいはAmazon等で10年ごとに出ている関東大震災何十周年記念集会記録集などと言った本を読むのがいいと思う。50、60、70、80と出ているはずである。
 それらを見て、注にある史料集や研究書を探し求めるのがいいと思う。また今年8月末に90周年記念集会が予定されているので、それにも参加して学ぶ機会を作って欲しい。それまでに事前の学習会も何度か行われるはずである。
『尾形修一の教員免許更新制反対日記』(2013年02月12日)
http://blog.goo.ne.jp/kurukuru2180/e/6b035adcf54214882278cadd313cb2be
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