=2009年事件(河原井・根津ともに停職6月処分:取消訴訟)地裁(2017.11.27)=
傍聴者の皆さま お忙しい中傍聴に駆けつけてくださり、ありがとうございます。
今日は◎ 西原博史・早大教授に書いていただいた鑑定意見書とそれに基づく準備書面を提出(陳述)します。
意見鑑定書の内容を紹介します(文責:根津)
◇ 懲戒権者の裁量権逸脱濫用の有無
問われるべきは、本件事実関係の中に、被処分者に対して多大な経済的・精神的な不利益を強制する極めて重大な停職6月処分を選択することを正当化する特別な事情が存在するか、である。
1.君が代不起立処分の特殊性に関する最高裁および下級審裁判例の認識
2012・1・16最高裁判決櫻井龍子裁判官補足意見は、「処分対象者の多くは…やむを得ず不起立を繰り返す…。懲戒処分の加重量定は、法が予定している懲戒制度の運用の許容範囲に入るとは到底考えられず」という。
このことは、「歴史観ないし世界観それ自体を否定するもの」となることは許されない、という点が常に考慮されねばならないということであり、それに沿って、本件原告らの2007年処分取り消し訴訟の2015年高裁・須藤判決は「自らの思想や信条を捨てるか、それとも教職員としての身分を捨てるかの二者択一の選択を迫られる」こととなるような事態は「日本国憲法が保障している個人としての思想及び良心の自由に対する実質的な侵害につながる」と認定するに至った。
また、この高裁判決が、「極めて大きな心理的圧迫を加える結果になるものであるから、十分な根拠をもって慎重に行われなければならない」としたことも忘れてはならない。
2.本件における停職処分を基礎づける具体的な事情
最判等は重大な処分を行うことが許されるのは、「学校の規律や秩序の保持等の必要性と処分による不利益の内容との権衡の観点から当該処分を選択することの相当性を基礎づける具体的事情が認められる場合」に限られるとする。
本件においては、停職6月という極めて非常識かつ異例な重さの処分を正当化するだけの「十分な根拠」はない。
2008年処分では、あたかも処分根拠の不足を補うべき事由を探すかのごとく、「君が代」強制反対のメッセージが読み取れるとされたトレーナー着用が大問題であるかのように扱った。しかし、具体的な実害がいかなる点においても確認されておらず、単に校長の個人的な感情において否定的に評価された。
この処分取消訴訟の地裁2017年判決は、「当該処分を選択する…具体的事情があった」と認定したが、どのような実害が発生したかは何ら明らかにしておらず、論理的整合性を持つものではなく、本件処分の適法性を考察するにあたって前提とすることの許されるものではない。
また、仮に東京地裁2017年判決における、2008年判示が適切であったとしても、2009年に処分対象とされた事実関係は不起立行為のみであり、2007年当時の処分を超える根拠にはならない。
2015年高裁・須藤判決が指摘するように、処分量定において「具体的に行われた非違行為の内容や影響の程度等」がまずもって考慮されると考えるならば、本件において、停職6月という特殊かつ異様な処分を採用する根拠はどこにもなかったはずだ。
「次は免職」の意味を持つ停職6月処分は被処分者に対して強度の「心理的圧迫」を生じさせることからすると、心理的圧迫をも正当化し得る「権衡の観点から当該処分を選択することの相当性を基礎づける具体的事情」の存在が不可欠であるはずだが、その点も考慮された証拠がない。
したがって、比例原則違反、考慮すべき事項を考慮しない、都教委の裁量権の範囲を超えた処分であった。
◇ 思想・良心の自由に対する直接的侵害の有無
1.10・23通達の体制における特定思想に対する意図的攻撃
君が代斉唱への参加が自らの信条に照らして許されないと考える教職員に生じている侵害状況を、十把一からげに「歴史観ないし世界観との関係で否定的な評価」と概括化してとらえる最高裁の起立命令合憲判決に示された見方では、権利侵害の実質を正確に把握することはできない。
最高裁判決は、君が代斉唱に違和感を持たない者を含む「一般的」「客観的」に見て、「間接的」侵害と正当化する。しかし、最高裁が作り上げた職務命令と懲戒処分のつながりに関する認識枠組みが、個別の事例を見たときに、これでよかったのか、である。
不起立の態様や式典への影響等を「個別具体的」に認定して行われる慎重な検討が、組織的・継続的に排除されてきた。
そこには、君が代斉唱に違和感を持たない者を含む一般的状況における職務命令の許容可能性をもって正当化できるような性質のものとは異なる、特定の教職員に対する意図的な弾圧作用が見て取れる。
ことがらは、間接的制約ではなく、「歴史観ないし世界観を否定することと不可分に結びつ」いた意図的排除行為であることになる。
通達の意図について、宮川光治裁判官が「価値中立的な意図で発せられたものではなく、…その歴史観等に対する強い否定的評価を背景に、不利益処分をもってその歴史観等に反する行為を強制するところにある」と述べている通り。
本件のように、信条に反する行為ができない教職員を、具体的に、直後に迫りくる免職の恐れをもって排除しようとすることは、まさに意図的排除行為にほかならない。
2.意図的システムとしての処分加重制度の意義
不起立行為の動機が世界観・歴史観・教育観にあることから、不起立は1回限りとはならない。
累積加重による懲戒処分は、職務命令一処分一再発防止研修などを通じて組織的に被処分教職員の心の中身を入れ替えることを狙った、意図的な思想弾圧作用である。
それでも最終的に立場を変えずに不起立を貫く教員に対しては徹底した攻撃を行っていくシステムである。
現実的な実害が何ら存在しないにもかかわらず、トレーナー等に掲げられた文言等に過剰反応して懲戒処分の理由の中に加えるような暴挙を含む、原告らに対して加えられた数々の圧力措置が、そのシステムの狙いを余すところなく浮き彫りに出す。
当初目論まれていた累積加重の延長線上に免職とすることは適法性を確保できないことが明らかになる中で断念されることとなったが、「次は免職」というプレッシャーを掛けながら何度も停職6月処分を加えていく事態は、もはや、思想・良心の自由に対する「間接的制約」と呼べるものではない。
◇ 君が代不起立をめぐる憲法問題の配置状況における本件の位置
1.行為領域における思想・良心の自由の効果をめぐる問題
信条に基づく君が代不起立が憲法19条に保障された思想・良心の自由に含まれるか否かは、長く明確にされてきていなかった。
1958年改定学習指導要領に国旗・国歌条項が入った段階から子どもが不起立を行うかどうかを決定する親の権利が憲法19条に根拠を有するという指摘は憲法学・教育学の中に現れ始めたが、判例の中にあらわれるのは2011年の起立命令合憲判決であった。
ただ、謝罪広告の強制にかかわる1956年了月4日最高裁大法廷判決は、謝罪の意思表明の強制が「債務者の人格を無視し著しくその名誉を毀損し意思決定の自由及至良心の自由を不当に制限する」と認めた。
最高裁の起立命令合憲判決は「間接的制約」の枠組を承認したが、間接的制約の範囲については最終的決着を見たとは考えられず、議論は継続するだろう。しかし、本件は間接的制約ではない、直接的制約の認定方法に関わるものである。
2.君が代関連訴訟における本来の問題点としての思想差別目的の踏み絵
謝罪広告判決田中耕太郎裁判官補足意見は、良心の自由の意義との関係で、「国家としては宗教や上述のこれと同じように取り扱うべきものについて、禁止、処罰、不利益取扱等による強制、特権、庇護を与えることによる偏頗な処遇というようなことは、各人が良心に従って自由に、ある信仰、思想等をもつことに支障を招来するから、憲法一九条に違反する」とした。
不起立教員を炙りだしては必罰主義に服さしめるような動きは、特定思想を有する者を学校から排除することを狙った「偏頗な処遇」にほかならない。
内心のあり方という点で排除すべき教員というものを想定し、そうした者を見つけ出すための踏み絵を行い、そこで識別された「問題教員」に対して内心の改変を迫り、それでも自らの立場に固執する教員に対して多様な圧力を加えて排除しようとする。これこそが、思想弾圧の典型的な姿である。
不都合な信条の特定、その信条を持つ者が浮かび上がらざるを得ない手続の導入による、排除すべき者の特定、その者に対する信条改変に向けた--多くの場合、転向した場合の報酬としない場合の徹底排除の二者択一を迫る--圧力、そして排除すべきとされた者に対する排除措置などが典型的に、思想弾圧、思想・良心の自由に対する直接的制約の顕れとして生じることになる。
判例・学説のすべてを通じて、こうした思想弾圧的な措置が憲法19条に反することは疑いもなく共有された認識と言えるであろう。
教職員個人の思想・良心の自由が憲法19条によって保障されたものであり、政治的多数派のその時々の恣意によって好き勝手に拘束されてよいものであり得ないことは確実な法原理である。
※ 次回以降の法廷
12月21日(木)14:00~ 527号法廷
1月10日(水)10:00~または13:00 未定です。606号法廷
河原井さん根津さんらの「君が代」解雇をさせない会
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意見鑑定書の内容を紹介します(文責:根津)
【停職6月処分を受ける教員にとっては、起立斉唱を命じる職務命令は
思想・良心の自由に対する間接的制約ではなく直接的制約であることについて】
思想・良心の自由に対する間接的制約ではなく直接的制約であることについて】
◇ 懲戒権者の裁量権逸脱濫用の有無
問われるべきは、本件事実関係の中に、被処分者に対して多大な経済的・精神的な不利益を強制する極めて重大な停職6月処分を選択することを正当化する特別な事情が存在するか、である。
1.君が代不起立処分の特殊性に関する最高裁および下級審裁判例の認識
2012・1・16最高裁判決櫻井龍子裁判官補足意見は、「処分対象者の多くは…やむを得ず不起立を繰り返す…。懲戒処分の加重量定は、法が予定している懲戒制度の運用の許容範囲に入るとは到底考えられず」という。
このことは、「歴史観ないし世界観それ自体を否定するもの」となることは許されない、という点が常に考慮されねばならないということであり、それに沿って、本件原告らの2007年処分取り消し訴訟の2015年高裁・須藤判決は「自らの思想や信条を捨てるか、それとも教職員としての身分を捨てるかの二者択一の選択を迫られる」こととなるような事態は「日本国憲法が保障している個人としての思想及び良心の自由に対する実質的な侵害につながる」と認定するに至った。
また、この高裁判決が、「極めて大きな心理的圧迫を加える結果になるものであるから、十分な根拠をもって慎重に行われなければならない」としたことも忘れてはならない。
2.本件における停職処分を基礎づける具体的な事情
最判等は重大な処分を行うことが許されるのは、「学校の規律や秩序の保持等の必要性と処分による不利益の内容との権衡の観点から当該処分を選択することの相当性を基礎づける具体的事情が認められる場合」に限られるとする。
本件においては、停職6月という極めて非常識かつ異例な重さの処分を正当化するだけの「十分な根拠」はない。
2008年処分では、あたかも処分根拠の不足を補うべき事由を探すかのごとく、「君が代」強制反対のメッセージが読み取れるとされたトレーナー着用が大問題であるかのように扱った。しかし、具体的な実害がいかなる点においても確認されておらず、単に校長の個人的な感情において否定的に評価された。
この処分取消訴訟の地裁2017年判決は、「当該処分を選択する…具体的事情があった」と認定したが、どのような実害が発生したかは何ら明らかにしておらず、論理的整合性を持つものではなく、本件処分の適法性を考察するにあたって前提とすることの許されるものではない。
また、仮に東京地裁2017年判決における、2008年判示が適切であったとしても、2009年に処分対象とされた事実関係は不起立行為のみであり、2007年当時の処分を超える根拠にはならない。
2015年高裁・須藤判決が指摘するように、処分量定において「具体的に行われた非違行為の内容や影響の程度等」がまずもって考慮されると考えるならば、本件において、停職6月という特殊かつ異様な処分を採用する根拠はどこにもなかったはずだ。
「次は免職」の意味を持つ停職6月処分は被処分者に対して強度の「心理的圧迫」を生じさせることからすると、心理的圧迫をも正当化し得る「権衡の観点から当該処分を選択することの相当性を基礎づける具体的事情」の存在が不可欠であるはずだが、その点も考慮された証拠がない。
したがって、比例原則違反、考慮すべき事項を考慮しない、都教委の裁量権の範囲を超えた処分であった。
◇ 思想・良心の自由に対する直接的侵害の有無
1.10・23通達の体制における特定思想に対する意図的攻撃
君が代斉唱への参加が自らの信条に照らして許されないと考える教職員に生じている侵害状況を、十把一からげに「歴史観ないし世界観との関係で否定的な評価」と概括化してとらえる最高裁の起立命令合憲判決に示された見方では、権利侵害の実質を正確に把握することはできない。
最高裁判決は、君が代斉唱に違和感を持たない者を含む「一般的」「客観的」に見て、「間接的」侵害と正当化する。しかし、最高裁が作り上げた職務命令と懲戒処分のつながりに関する認識枠組みが、個別の事例を見たときに、これでよかったのか、である。
不起立の態様や式典への影響等を「個別具体的」に認定して行われる慎重な検討が、組織的・継続的に排除されてきた。
そこには、君が代斉唱に違和感を持たない者を含む一般的状況における職務命令の許容可能性をもって正当化できるような性質のものとは異なる、特定の教職員に対する意図的な弾圧作用が見て取れる。
ことがらは、間接的制約ではなく、「歴史観ないし世界観を否定することと不可分に結びつ」いた意図的排除行為であることになる。
通達の意図について、宮川光治裁判官が「価値中立的な意図で発せられたものではなく、…その歴史観等に対する強い否定的評価を背景に、不利益処分をもってその歴史観等に反する行為を強制するところにある」と述べている通り。
本件のように、信条に反する行為ができない教職員を、具体的に、直後に迫りくる免職の恐れをもって排除しようとすることは、まさに意図的排除行為にほかならない。
2.意図的システムとしての処分加重制度の意義
不起立行為の動機が世界観・歴史観・教育観にあることから、不起立は1回限りとはならない。
累積加重による懲戒処分は、職務命令一処分一再発防止研修などを通じて組織的に被処分教職員の心の中身を入れ替えることを狙った、意図的な思想弾圧作用である。
それでも最終的に立場を変えずに不起立を貫く教員に対しては徹底した攻撃を行っていくシステムである。
現実的な実害が何ら存在しないにもかかわらず、トレーナー等に掲げられた文言等に過剰反応して懲戒処分の理由の中に加えるような暴挙を含む、原告らに対して加えられた数々の圧力措置が、そのシステムの狙いを余すところなく浮き彫りに出す。
当初目論まれていた累積加重の延長線上に免職とすることは適法性を確保できないことが明らかになる中で断念されることとなったが、「次は免職」というプレッシャーを掛けながら何度も停職6月処分を加えていく事態は、もはや、思想・良心の自由に対する「間接的制約」と呼べるものではない。
◇ 君が代不起立をめぐる憲法問題の配置状況における本件の位置
1.行為領域における思想・良心の自由の効果をめぐる問題
信条に基づく君が代不起立が憲法19条に保障された思想・良心の自由に含まれるか否かは、長く明確にされてきていなかった。
1958年改定学習指導要領に国旗・国歌条項が入った段階から子どもが不起立を行うかどうかを決定する親の権利が憲法19条に根拠を有するという指摘は憲法学・教育学の中に現れ始めたが、判例の中にあらわれるのは2011年の起立命令合憲判決であった。
ただ、謝罪広告の強制にかかわる1956年了月4日最高裁大法廷判決は、謝罪の意思表明の強制が「債務者の人格を無視し著しくその名誉を毀損し意思決定の自由及至良心の自由を不当に制限する」と認めた。
最高裁の起立命令合憲判決は「間接的制約」の枠組を承認したが、間接的制約の範囲については最終的決着を見たとは考えられず、議論は継続するだろう。しかし、本件は間接的制約ではない、直接的制約の認定方法に関わるものである。
2.君が代関連訴訟における本来の問題点としての思想差別目的の踏み絵
謝罪広告判決田中耕太郎裁判官補足意見は、良心の自由の意義との関係で、「国家としては宗教や上述のこれと同じように取り扱うべきものについて、禁止、処罰、不利益取扱等による強制、特権、庇護を与えることによる偏頗な処遇というようなことは、各人が良心に従って自由に、ある信仰、思想等をもつことに支障を招来するから、憲法一九条に違反する」とした。
不起立教員を炙りだしては必罰主義に服さしめるような動きは、特定思想を有する者を学校から排除することを狙った「偏頗な処遇」にほかならない。
内心のあり方という点で排除すべき教員というものを想定し、そうした者を見つけ出すための踏み絵を行い、そこで識別された「問題教員」に対して内心の改変を迫り、それでも自らの立場に固執する教員に対して多様な圧力を加えて排除しようとする。これこそが、思想弾圧の典型的な姿である。
不都合な信条の特定、その信条を持つ者が浮かび上がらざるを得ない手続の導入による、排除すべき者の特定、その者に対する信条改変に向けた--多くの場合、転向した場合の報酬としない場合の徹底排除の二者択一を迫る--圧力、そして排除すべきとされた者に対する排除措置などが典型的に、思想弾圧、思想・良心の自由に対する直接的制約の顕れとして生じることになる。
判例・学説のすべてを通じて、こうした思想弾圧的な措置が憲法19条に反することは疑いもなく共有された認識と言えるであろう。
教職員個人の思想・良心の自由が憲法19条によって保障されたものであり、政治的多数派のその時々の恣意によって好き勝手に拘束されてよいものであり得ないことは確実な法原理である。
※ 次回以降の法廷
12月21日(木)14:00~ 527号法廷
1月10日(水)10:00~または13:00 未定です。606号法廷
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