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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

平成23年最高裁判決法廷意見・多数意見への批判

2012年02月08日 | 日の丸・君が代関連ニュース
 《東京「君が代」裁判三次訴訟第7回口頭弁論(2012/2/3)陳述要旨》2/4
 ◎ 第2 平成23年最高裁判決法廷意見・多数意見について
代理人弁護士 兒島秀樹


「報告集会の弁護団」 《撮影:平田 泉》

 1 ピアノ判決から平成23年最高裁判決への流れをどう見るべきか。

 この流れの中で最も重要なことは、もともとピアノ判決に重大な欠陥があったことを如実に物語っているということである。
 ア まず、ピアノ判決の特色は、上告人の歴史観世界観とピアノ伴奏拒否との関係が不可分か可分かを問題にし、不可分とは言えないとして当該制約を合憲としたことにあった。
 ところが、平成23年判決では一方で不可分・可分を問題にすること自体は維持しつつ、他方で、制約そのものが直接的か間接的かを問題にすることによって合憲という結論を導き出した。
 これは、不可分か可分かのみでは合憲性を裏付ける理由としては希薄であることを最高裁自体が意識した結果と見ることができる。
 イ 次に、求められる行為の性質の判断については、ピアノ判決が、単に「客観的には」と言っていたのに対して、平成23年判決は「一般的客観的に見て」「外部からの認識」によればという言い方に改めている。
 これも上記不可分・可分の問題同様、「客観的には」と言うのみでは合憲性を裏付ける理由として不十分であることを最高裁自体が意識した結果と見ることができる。
 ウ そのうえ、平成23年の判決中においても、第一小法廷判決・第二小法廷判決と第三小法廷判決①及び②とでは「間接的な制約」の説明について、後者には「心理的葛藤を生じさせるものである。」という説明が加わったという違いがある。
 これは、第一小法廷・第二小法廷判決の判示のみでは、「間接的な制約」の意味が必ずしも明らかでないことを意識し、これを補おうとしたものと解される。
 エ さらに、ピアノ判決の藤田反対意見では、上告人の「思想及び良心」の内容について、多数意見が認めた「『君が代』が果たしてきた役割に対する否定的評価という歴史観ないし世界観それ自体」だけではなく「『君が代』の斉唱をめぐり、学校の入学式のような公的儀式の場で、公的機関が、参加者にその意思に反してでも一律に行動すべく強制することに対する否定的評価(従って、また、このような行動に自分は参加してはならないという信念ないし信条)」も含まれていると指摘し、この信念・信条との関係では当該制約は「直接的抑圧となることは明白」と述べていた。
 そして、須藤補足意見も、これと同旨のことを述べているのである。
 「直接的抑圧」については、宮川反対意見が、起立斉唱行為は「上告人らにとって譲れない一線を越える行動」、「上告人らの思想及び良心の核心を動揺させる」ものと述べているのが、「直接的抑圧」であることを認めたに等しい趣旨である。
 オ また、平成23年判決において補足意見を提出した7名の裁判官のうち、5名もの裁判官が、そもそも司法の場でこの問題を判断することに懸念を示したり、裁量権逸脱の可能性を示唆したりしていることも、ピアノ判決の欠陥への認識を示し、かつ平成23年の法廷・多数意見を単にそのまま維持することへの懸念を示したものと言える。
 力 以上のとおり、平成23年判決は、ピアノ判決に欠陥があったことを露呈し、これを補おうとしてはいるものの、宮川反対意見に鋭く批判されているように、かえってその欠陥が浮き彫りになっていると言える。
 逆に、ピアノ判決の藤田反対意見の正しさが、一部平成23年判決の補足意見によっても支持され、宮川反対意見ではより一層明確になるなど、ピアノ判決から平成23年判決への法廷・多数意見の流れに対する最高裁内部での批判は格段に強まっていると言えるのである。
 2 法廷・多数意見への批判一その1
 法廷・多数意見は、起立斉唱行為を「敬意の表明そのもの」ではなく、「敬意の表明の要素を含む行為」だとして、職務命令による制約を「間接的制約」だと言う。
 しかしながら、法廷・多数意見が言うように、「敬意の表明」が起立斉唱行為の単なる部分的なひとつの要素にすぎないとすれば、一体、ほかにどのような要素があると言うのであろうか。あるいは、起立斉唱行為の主たる要素は何だと言うのであろうか。
 職務命令を下してまで起立斉唱行為を強制している被上告人東京都ですらも、「自国及び他国の国旗に対し、あるいは国歌斉唱時に際し、起立して尊重の意を示すことは国際儀礼として定着している。」などと主張して、これが「尊重の意」を表明する行為であることを認めている。無論、「敬意」と「尊重」はほとんど同義である。
 結局、国旗・国歌に対する起立斉唱行為は、国旗・国歌という国家シンボルに対する「敬意の表明そのもの」、あるいは「敬意の表明を主たる要素とする行為」にほかならないのである。
 3 法廷・多数意見への批判一その2
 (1)法廷・多数意見は、「一般的客観的」見地および「外部からの認識」を基準にして、起立斉唱行為の性質を「慣例上の儀礼的所作」と評価している。
 しかし、思想良心の自由の保障は、個々人の内心の自由を保障するものであるから、ある外部的行動がこれを侵害するか否かが問題になっている場合、その外部的行動の性質は、個別具体的にその個人の主観から判断すべきであり、保障の対象となる個人の意思を無視して「一般的客観的」見地や「外部からの認識」を基準として判断することは、それ自体、思想良心の自由をないがしろにする論理矛盾の基準に他ならない。
 エホバの証人剣道拒否退学処分事件の最高裁判決が、学校側の措置を学生の信仰の自由に対する配慮を欠いたものと判断したのも、「剣道」という外部的行動を個別具体的な学生自身の主観を判断基準として見たからだと推察されるのである。
 (2)また、法廷・多数意見が、起立斉唱行為を「慣例上の儀礼的な所作」だと言うのは、決して上告人ら教員との関係性においてではなく、まさに「一般的客観的」見地や「外部からの認識」に基づくものである。
 そうであるならば、法廷・多数意見によれば、キリスト教など偶像崇拝禁止の信仰をもつ生徒や日の丸君が代に強い反感を持つ朝鮮人や中国人の生徒などに対して起立斉唱行為を強制することも、「慣例上の儀礼的な所作」であって、彼らの歴史観・世界観それ自体を否定するものではないから許されるということになってしまう。
 しかし、生徒に対して不利益処分を科してまで起立斉唱行為を強制することは、被告東京都ですら許されないと認めており、金築補足意見も認めるところである。
 法廷・多数意見は、このような生徒に対する強制すら認める結果となりかねない論理的要素を含んでいるのである。
 (3)さらに、宮川反対意見が述べているとおり、「本件は少数者の思想及び良心の自由に深く関わる問題である」。そして「憲法は少数者の思想及び良心の自由を多数者のそれと等しく尊重し、その思想及び良心の自由の核心に反する行為を行なうことを強制することは許容していない」。
 むしろ、民主主義を基本理念とする日本国憲法のもとで、多数者は多くの場合、民主主義の多数決原理によって保護されることを考えれば、憲法における基本的人権保障規定の存在意義は少数者の保護にこそあると言っても過言でない。
 ところが、法廷・多数意見の「一般的客観的」見地や「外部からの認識」を判断基準とする考え方は、まさに、多数者の見地・認識をもって少数者の思想良心の自由の侵害の有無を判断するものである。判断基準として論理矛盾であることは勿論、むしろ少数者保護にこそ存在意義のある基本的人権規定の存在意義そのものを根底から揺るがす根本的に誤った論理と言わなければならない。
 (4)上告人の個別具体的な主観を基準にすれば、裁判官宮川光治反対意見が述べているように、たとえ「多くの人々にとっては(中略)式典における起立斉唱は儀式におけるマナー」であっても、「上告人らにとって」は「慣例上の儀礼的な所作ではなく、上告人ら自身の歴史観ないし世界観等にとって譲れない一線を越える行動であり、上告人らの思想及び良心の核心を動揺させる」行動、「教育者として、その魂というべき教育上の信念を否定することになる」行動なのである。
 つまり、上告人らにとって「個人の歴史観世界観に反する外部的行動」を求められること、すなわち直接的制約になると言わなければならない。
 (5)以上に述べた理由から、法廷・多数意見が起立斉唱行為の性質を「一般的客観的」見地、「外部からの認識」を基準として「慣例上の儀礼的な所作」であると判断したことは大きな誤りであり、「個別具体的な上告人らの主観」を基準として、起立斉唱行為の性質は「上告人らの歴史観世界観に反する外部的行動」と判断されなければならない。
 4 法廷・多数意見への批判一その3
 法廷・多数意見が、起立斉唱行為は、「上告人の有する歴史観ないし世界観を否定することと不可分に結びつくものとはいえず、上告人に対して起立斉唱行為を求める本件職務命令は、上告人の歴史観ないし世界観それ自体を否定するものということはできない。」と判示する根拠は、判示自体が「その性質の点から見て」と端的に示しているとおり、起立斉唱行為の性質を「慣例上の儀礼的な所作」と見たことにある。
 ところが、3で述べたとおり、その性質を「一般的客観的」見地や「外部からの認識」を基準に「慣例上の儀礼的な所作」と見ること自体が大きな誤りであり、「個別具体的な上告人らの主観」を基準として、起立斉唱行為は「上告人らの歴史観世界観に反する外部的行動」と判断すべきなのであるから、当然、起立斉唱行為は、「上告人の有する歴史観ないし世界観を否定することと*不可分に結びつくもの」であり、上告人に対して起立斉唱行為を求める本件職務命令は、「上告人の歴史観ないし世界観それ自体を否定するもの」ということになる。
 5 法廷・多数意見への批判一その4
 法廷・多数意見が、本件職命令は「個人の思想及び良心の自由を直ちに制約するものと認めることはできない」と判示した根拠は、①起立斉唱行為が「上告人らの有する歴史観ないし世界観を否定することと不可分に結び付くものとはいえず」、②本件職務命令が上告人らの「歴史観ないし世界観それ自体を否定するものということはできない」こと、③「特定の思想又はこれに反する思想の表明として外部から認識されるものと評価することは困難であること」、④本件職務命令が「特定の思想を持つことを強制したり、これに反する思想を持つことを禁止したりするものではなく、特定の思想について告白することを強要するものということもできない」という点にある。
 ①②が誤りであることは既に述べた。
 ③も、既に述べた「外部からの認識」を基準とする誤りをおかしている。
 ④については、確かに、本件職務命令は、直接的に、上告人らの持っ歴史観世界観や教育上の信念そのものを禁止したり、これに反する「特定の思想」を強制したり、その有無の告白を強要するものではない。
 しかし、日本の歴史上見られたキリスト教禁止令などを除けば、内心の自由が制約される場合のほとんどは、直接的に「特定の思想」を禁じたり強制したりするのではなく、これに反する外部的行動を強制したり禁止したりすることを介して行なわれる
 法廷・多数意見の④が「直接的な制約でない」ことの理由になるとすれば、キリスト教自体を禁止せずに「踏み絵」だけを行なうことは、内心の自由の「直接的な制約でない」ということになってしまう。
 憲法19条の思想良心の自由には、「沈黙の自由」も含まれ、いかなる思想良心を有しているかいないかを外部的に告白または表現するように強制することはもちろん、何らかの方法・手段で直接・間接に推知することもまた禁止されているのである。
 つまり、直接か間接かは自由を制限する手段・方法の類型の違いにすぎず、どちらであろうとも許されないことに変わりないと言うべきである。
 結局、①②③④の根拠は、いずれも本件職務命令が上告人の思想良心の自由に対する「直接的な制約でない」ことの根拠にはなり得ない。
 6 法廷・多数意見への批判一その5
 既に主張したとおり、職務命令による上告人らの思想良心の自由に対する制約については、「二重の基準論」に基づき、経済的自由の違憲審査に用いられる「合理性の基準」ではなく、精神的自由の違憲審査に用いられる「厳格な基準」によるべきであった。
 この批判は、裁判官宮川光治の反対意見が次のように鋭く指摘しているとおりである。
 「本件各職務命令の合憲性の判断に関しては、いわゆる厳格な基準により、本件事案の内容に即して、具体的に,目的・手段・目的と手段との関係をそれぞれ審査することとなる。目的は真にやむを得ない利益であるか、手段は必要最小限度の制限であるか、関係は必要不可欠であるかということをみていくこととなる。
 結局、具体的目的である「教育上の特に重要な節目となる儀式的行事」における「生徒等への配慮を含め、教育上の行事にふさわしい秩序を確保して式典の円滑な進行を図ること」が真にやむを得ない利益といい得るか、不起立不斉唱行為がその目的にとって実質的害悪を引き起こす蓋然性が明白で、害悪が極めて重大であるか(式典が妨害され、運営上重大な支障をもたらすか)を検討することになる。その上で、本件各職務命令がそれを避けるために必要不可欠であるか、より制限的でない他の選び得る手段が存在するか(受付を担当させる等、会場の外における役割を与え、不起立不斉唱行為を回避させることができないか)を検討することとなろう。」

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