☆ <薯童(ソドン)祭りと共にする百済交流団ツアー(5月2日~6日)>報告記
増田都子
3月初めだったか、国会議員会館での集会に出席した時、在日の超優秀な通訳者の方…韓国のNHKといわれるKBSの日本取材にはほとんど同行、国際会議の同時通訳も難なくこなす方…と隣り合わせになりました。
すると、超魅力的なお誘いが!「増田さん、韓国の益山(イクサン)で薯童祭りというのがあります。ソウル往復チケットををとれば4泊5日の滞在費は全部、益山文化観光財団がもってくれるんです。友達も一人ぐらいなら参加しても大丈夫ですよ」
え~~っ!? 「いっきま~っす! 私、韓ドラの『薯童謠(ソドンヨ)』74話、全部、見たのよ~~っ! すっごく、おもしろかった。パスポートは期限が切れてるけど直ぐ手続きします! 友達、誘うね」と速攻で(笑)お返事。
※ 韓国時代劇「薯童謠 ソドンヨ」|BS日テレ (bs4.jp)
このドラマは、のちの百済第30代王の武王(ムワン)と敵国である新羅の善花(ソンファ)姫との国境を越えた恋と王位継承争いを絡めた、とってもおもしろいものでした。
ドラマの中では百済王から倭王に贈られたという天理市の石上神宮にあるのと同じ七支刀(非公開)が臣従の誓いの重要なアイテムとして出てきたり、登場はしないものの聖徳太子の話が出てきたり…と百済と倭王権との密接な関係が良く理解できるものでした。
数年前から韓ドラ沼にどっぷり嵌っている私の寝不足の元(笑)。
私は百済の都があった扶余や公州は知ってましたが、益山という地名は初めてでした。武王の時代はここに都が置かれていて、というか遷都していたそうです。
それは京都の青蓮院にある中国史書の写本『観音応験記』にその記事が掲載されていて証明された、ということです。中国にはもうこの書は存在しないとか…。
ドラマに出てきた善花姫の願いで建てたという弥勒寺址の見学も、もちろんスケジュールに入っていましたので大いに期待しました。
で、なぜ、そんな夢のようなご招待旅行なのかというと
「コロナ前、毎年、日本からもお祭りのパレードに参加していて、イベント参加には少しは補助されていたんですが、コロナ禍とセウォル号事件などで祭りどころじゃなく、ソウル往復チケットまで取っていたのに中止になったりしたんです。それで、5年ぶりの全面復活ということなんで、破格の待遇になったんではないでしょうか。たぶん、こんなことは最初で最後ですよ」
ということでした。
第1日目、5月2日は移動日です。
私や友人も含め関東圏の人達は成田空港から出発。大阪・神戸、愛知、長野からも参加者があるので、ソウル空港で22人全員集合。空港で記念写真をとってから豪華バスで益山まで移動。焼き肉店で益山文化観光財団理事長さん主催の歓迎夕食会。
バスは普通の55席の大型観光バスに見えましたが座席は28席のみでグリーン車の座席の感じでした。
5日間もこんな豪華バスに乗っていたので、帰りの格安航空のエコノミー席に座ったら、狭くて硬くて…何たる違いよ! と思っちゃいました。人間、豪華待遇には直ぐ慣れてしまうようで、「ド庶民の普通」に戻っただけなのに、なんだか不当な仕打ちを受けたような気分(笑)になりました。
四つ星ホテルの広いツインルームに一人で3連泊。
◎5月3日、午前。日本植民地時代の駅舎見学
薯童祭りパレードは午後なので、午前中は市内からバスで30分くらいのところにある、復元された日帝時代の1914年に作られた韓国では一番古い駅舎と言われる春浦(チュンポ)駅を見学。
小さな駅舎は私の田舎の駅と同じくらいの感じでしたが、当時もこういう色だったとかで、日本国内よりも洒落た駅舎だったようです。
当時の汽車と線路も復元されていて、汽車の中には当時の写真が展示されていました。
この山になった米俵は、みんなこの駅から近くの群山(クンサン)港に運ばれ、日本に持ち込まれたのです。おコメを生産した朝鮮農民たちは飢餓に苦しんでいた…本当に酷いこと、申し訳ないことを帝国日本はしてきました。
バスで移動するとき、とても広い平野でよく耕されており肥沃な穀倉地帯だということが分かりました。日帝時代のここの大地主は細川護立侯爵…護熙さんのお爺さん…でした。ネット検索したら以下。
※ 旧植民地・朝鮮における日本人大地主階級の変貌過程(上) (maff.go.jp)
「朝鮮の売買地価は日本におけるそれの十分の一乃至三十分の一という低廉さであった。侯爵細川護立…二千町歩」だったそうです。それも「全州の中でも最良の土地」を…。
1町歩は約1ヘクタール=10000㎡・約3千坪(サッカーの公式ピッチは約7,000~8,000㎡)ですから二千町歩は約600万坪となり、サッカー場が(8000㎡として)が2500も入る面積!
こういう「胸が痛む歴史も遺して忘れまい」とする姿勢はとても大切ですね!
この細川農場の管理人が住んでいた日本家屋もそのまま残っており…内部はリフォームされているそうですが…現在の家主さんが住んでらっしゃるので庭から外観を見学。それから近くのカフェで一休み。
そのカフェはこの写真上の今村農場の址に作られ、石柱はほぼ残されていました。
写真左下が現在。このカフェにはライブのできる小さな建物も併設されていてUNOという若い3人組ユニットが私たちの為にライブ演奏してくれました。
尾崎豊の『I love you』を韓国語で、米津玄師の『レモン』は日本語で。
爽やかに晴れた5月の風の中、春浦特別コーヒー…春浦産のお米が原料とか…をいただきながら、女性ボーカルの優しい歌声がとても心に沁みました。
こんなふうに、良いものは国境を越えて共有できるし、支配・被支配の関係が無くなればお互いに敬意をもって気持ちよく接しあえて平和なんですよねぇ…。
ふと、キング牧師の「I have a dream」の一説が思い浮かびました。
「昔は奴隷だった人の子孫と昔は奴隷の主人だった人の子孫が、友愛のテーブルを囲んで一緒に座る」
…昔は植民地として支配されていた国の子孫と昔は植民地支配していた国の側の子孫が、友愛のテーブルを囲んで一緒に座っている…。 でも、軍用機が…近くに基地があるようで…爆音をうるさく響かせて上空を飛んでいき、現実に引き戻されました。この国は未だDPRKと休戦中…。
◎5月3日、午後。いよいよメインの薯童(ソドン)祭りパレードに参加
パレードにどういう形で参加するか…益山文化観光財団理事長さんから「和服で参加する人が欲しい」というリクエストがあったそうなのです。「増田さん、どうですか」なんて言われましたが、20歳の成人式に無理やり和服を着せられて見合い写真を撮らされたので「こんな窮屈なモン、二度と着ない」と宣言して一式全部、妹にあげた後は現在まで浴衣しか着たことがなく…。
そこで、誘った友人に声を掛けたら、着付けの先生に相談してくれて「海外ではトシなんか考えず、派手なのを着るべきだ」と三越おあつらえの…たぶん、200万円ぐらいはしただろう金糸をたくさん使った派手な大振袖を渡されたそうです。
で、彼女は毎日着る練習をし、その成果が出て後述するように大正解でした。
で、その他の面々は…実は愛知から参加した人たちは「現代の朝鮮通信使あいち」という会を作って市民活動をしてらっしゃって「一度も戦争しなかった『百済&倭』時代と江戸時代は共通性があるから、朝鮮通信使の装いで参加しましょう! 正使や副使、武官、旗持ちなど希望者で。江戸時代の使いは男性のみだけど、今の時代は女性がいいのでは?」という提案がありました。
この会は、なんと、通信使の旗とか衣装とかは、ほぼ手作りしたそうです。そこで、私は「どうせなら、正使がいい! 『皆の者、頭が高いぞよ~』と言えるシチュエーションがいいよね!」
という不純な動機(笑)で手を上げました。「武官か正使で!」という希望を出されたもう一人の女性を蹴落とし…ってジョーク(笑)…メールで平和的に話し合い、譲っていただいて正使役に!
さて、地元のテレビ局の記者も3日間、密着取材してくれて、このパレードは夜のテレビニュースで報道する、ということで楽しみでしたが、ホテルのテレビは外国人向けチャンネルしかなかったようで見られなかったため、あとでYouTubeで見ました。
見てみたら、なんと!?…映し出されたのは、大振袖の友人がメイン! 「朝鮮通信使」は彼女の後ろにいた最後の旗持ちの人だけが映ってました(笑)。やっぱり、韓国の人達には韓服はちっとも珍しいものではないため「『日本、百済交流団』として、日本人も参加しています!」というのには「派手な和服」の視覚化が一番、ということだったのでしょうね…友人は、ホテルで一人で気付けるのに小1時間かかったそうですが、大成功!
(以下略)
・・・超長文の記録と多数の興味深い写真のすべては、当ブログのキャパシティではとても転載しきれません。
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※ 「日本、百済交流団ツアー」報告記(全文リンク)
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