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【僕、国歌歌わないもん】(石原慎太郎)
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東京五輪に 【国旗も国歌も必要ない】(ビートたけし)
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対米従属で「世界征服」を夢想するデマゴギー政治家安倍首相を倒そう!
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1月2日、▲ サウジアラビア政府が著名なシーア派の聖職者ニムル師ら47人を処刑しました。
これを受け中東全体が大きな危機に陥り、影響は全世界に及びつつあります。
背景にはこの間の原油価格の低迷などにより、サウジアラビアなどの産油国の財政が急速に悪化し、産油国内における階級対立が強まっているということもあるようです。
戦後70年を経て、世界は新たな戦争と内乱の時代に入ろうとしているようにも見えます。
ギリシャ時代、ペロポネソス戦争というものがありました。
これはまさに当時における世界戦争と内乱でした。
そして、この戦争と内乱を克明に描いた歴史書として、トゥーキュディデースの『戦史』という本があります。
参考になればと思い、この本(岩波文庫)からいくつかの部分を紹介したいと思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
筆者(トゥーキュディデース)は開戦劈頭いらい、この戦乱が史上特筆に値する大事件に展開することを予想して、ただちに記述をはじめた。
当初、両陣営ともに戦備万端満潮に達して戦闘状態に突入したこと、また残余のギリシャ世界もあるいはただちに、あるいは参戦の時機をうかがいながら、敵味方の陣営に分かれていくのを見たこと、この二つが筆者の予測をつよめたのである。
じじつ、この争はギリシャ世界にはかつてなき大動乱と化し、そして広範囲にわたる異民族諸国、極言すればほとんど全ての人間社会をその渦中に陥れることにさえなった。(『戦史』上、55頁)
私の記録からは伝説的な要素が除かれているために、これを読んで面白いと思う人はすくないかもしれない。
しかしながら、やがて今後展開する歴史も、人間性のみちびくところふたたびかつての如き、つまりそれと相似した過程を辿るのではないか、と思う人々がふりかえって過去の真相を見極めようとするとき、私の歴史に価値をみとめてくれればそれで充分であろう。
この記述は、今日の読者に媚びて賞を得るためではなく、世々の遺産たるべく綴られた。(同上、75頁)
さて、これまでの諸戦争のなかで、最大の事績はペルシャ戦争によってうちたてられた。
とはいえこれも、わずか二度の海戦と二度の陸戦によって、すみやかに勝敗が決した。 しかるに今次大戦では、その期間も長きにわたり、またそのために、これに匹敵する期間にはかつてギリシャが嘗めたこともなかったほどの惨害が全土におそいかかった。(同上、75頁)
(そしてこの本には有名なペリクレースの演説がある。その一部分を紹介する)
「・・・わららの政体は他国の制度を追従するものではない。ひとの理想を追うのではなく、ひとをしてわが範を習わしめるものである。その名は、少数者の独占を排し多数者の公平を守ることを旨として、民主政治と呼ばれる。・・・たとえ貧窮に身を起そうとも、ポリスに益をなす力をもつ人ならば、貧しさゆえに道をとざされることはない。われらはあくまでも自由に公けにつくす道をもち、また日々互いに猜疑の眼を恐れることなく自由な生活を享受している。・・・」(同上、226頁)
(しかし、ペリクレースは伝染病で死んでしまう)
ペリクレースは戦時におけるアテーナイの力量を正確に見通していたように思われる。かれは開戦後、2年6ヶ月間生きていた。
その死後、かれの戦争経過の見通しは一そう高く評価されるにいたった。
かれは、もしアテーナイ人が沈着に機をまち、海軍力の充実につとめ、かたわら戦時中は支配圏の拡大をつつしみポリスに危険を招かぬようつとめるならば、戦は勝利に終わると言っていた。
しかるに、他の者たちは、すべてこの忠告に反することばかりをしてしまった。戦争遂行とは全く無関係と思われても、己の名誉心や利得心を満足させうると見れば事をおこした。(同上、252頁)
皆己れこそ第一人者たらんとして民衆に媚び、政策の指導権を民衆の恣意に委ねることとなった。
このことが禍して、アテーナイのごとく大きいポリスを営み、支配圏を持つ国ではとうぜん、数多い政治的な過失が繰り返されることとなり、その最たるものがシケリア(シチリアのこと)遠征であった。(同上、253頁)
(その後、各地で内乱が起きてくる。
なおシケリア遠征の詳細は下巻に述べてある)
このようにして内乱は残虐の度を増しつつ荒れ狂った。
しかもこの事件(ケルキューラの内乱)は最初の実例であっただけに人々に一そう強烈な印象を与えた。
その後になると、処々の都市においてもアテーナイ勢の加勢を導入しようとする民衆派領袖と、ラケダイモーン(スパルタのこと)勢を入れようとする貴族派の紛争が生じ、そのために極言すれば全ギリシャ世界が動乱の渦中に陥ったからである。・・・・
・・この時生じたごとき実例は、人間の政情が変わらない限り、個々の事件の条件の違いに応じて多少の緩急の差や形態の差こそあれ、未来の歴史にも繰り返されるであろう。
なぜなら、平和と繁栄のさなかにあれば、国家も個人も己の意に反するごとき強制におかれることがないために、よりよき判断をえらぶことができる。
しかるに戦争は日々の暮らしを足もとから奪いとり、強食弱肉を説く師となって、ほとんどの人間の感情をただ目前の安危という一点に釘づけにするからである。(『戦史』中、100頁)
このようにして内乱の度にギリシャ世界には、ありとあらゆる形の道徳的退廃がひろまった。
素直さとは人格高潔にして備わるべき徳であるのに、それも今は世の嘲笑をうけて姿を消し、市民たちはたがいに政見を異にして敵視しあった為に、いたるところに猜疑の念が目立って強くあらわれた。・・・
・・だが一般的にみると、最後まで生き残った者たちは、権謀術策に劣っていた者たちが多い。その訳は、この者たちは己の足らざるを知り、相手の巧妙さを恐れていたので、相手の口車に乗りはしないか、相手は捕捉しがたい手で味方の計画の裏をかき先回りをするのではないか、と警戒を怠らず、行動に向かって果敢に突き進んだからである。
かれらの計画は見えすいている、策謀ではや勝ちと決まったものを実行に移して手に入れる必要はない、と高をくくっていた者たちは、虚をつかれてかえって破綻を招いたのであった。(同上、103~104頁)
(下巻にはシケリア遠征のことがきわめて詳細に記述され、
次のように結論づけられている)
かくしてこの〔ギリシャあげての〕作戦は、今次大戦中の諸戦に比すればもとよりのこと、筆者の判断によれば、われわれが過去のギリシャ史から聞き知る限りの実例と比べても、正しく最大規模を画するものとなり、しかも、勝者(スパルタ側)がこれに優る光輝を克ち得た例もなく、また敗者(アテネ側)がこれに過ぐる悲惨に落ちた類もなきものとなった。
じじつ、かれらはあらゆる面で徹底的な敗北を喫し、どの点を見てもかれらの損失の大ならざるはなく、全軍壊滅という言葉さながらに、兵も船も、ことごとく失われ、さしもの大軍も故国に帰りついたものは、数えるほどしかいなかった。これがシケリア遠征の顛末であった。(『戦史』下、243頁)
(その後も戦いは続いたが、その中でアテネの民主制の廃止が起きてくる。
貴族派の若者たちが当時の民主派の最高指導者アンドロクレースや他の人物を暗殺するのである)
民議会は消極的に黙り込み、たとえ発言権を奪われても乱暴な目にさえ遭わなければそれだけでも得だ、と思いこむほどに気力を失ってしまったのである。
そして人々は、この謀議派の人数が実際の加盟者の数よりも、はるかに多いと考えて、みな己の節を屈して口を閉ざした。・・
・・じじつ謀議派の顔ぶれには、まさか貴族政治の仲間入りをしようとは、容易には信じられないような人物までが、これに加わっていた。
そしてこのような人物らが、市民一般の間で不信の念を強める最大の原因となり、そして民衆派内における相互の不信感を抜きがたいものと化することによって、とりもなおさず貴族派の地位を確立するに最も効果的な力となったのである。(同上、312~313頁)
(そして、どのように巧妙に民主制を破棄したかについて
次のように述べられている。少しわかりにくいので読み飛ばされても構わない。
ただ、今後日本における民主主義破壊を食い止める参考のために紹介しておきたい)
さて、アテーナイ本国の事態がこのような瀬戸際まで来ていたとき、ペイサンドロス(以前は極端な民主派だったようです)らの一行が到着し、ただちに残りの仕事に着手した。先ず、民議会を招集すると、次の提案をおこなった。
10名の全権立法委員を選出し、選出された者たちは、ポリスがとるべき最もすぐれた政治形態について、具体的な具申書を草し、一定期日までにこれを民議会に上程すべし、と。
やがて定めの日がやってくると、謀議派は民議会会衆をコローノスに(市外約十スタディオン(約1.8キロ)離れていて、ここにはポセイドーンの神域がある)閉じ込めた。
かの立法委員たちは他の事柄については何もいわず、ただ一項目だけの提案をおこなった。すなわち、アテーナイ市民ならば誰であれ、望みの政見を発表しても、これを罰されない、と。
だが発表者に対して憲法違反の訴えを起こしたりその他の迫害手段を用いるものには、重刑が科せられることになった。
この提案が通ると、はや何のはばかりもなく、次の案が上程された。
すなわち今後は、政務執行および公職給与に関する従来の制度を一切廃止する。代わりに統領として五人の市民を選出する。
これら五人はあらためて百名の市民を選出し、そしてこれらの百名は各自の判断で市民の中から各々三名ずつを選ぶ。
こうして選ばれた者たち計四百名が、評議会に会して、彼らがなしうる最上の判断に従って政治をおこなう、全権をもつ。
かれらが適宜必要と認めた機会に、市民五千名からなる会議をも招集する、と。(『同上、313~314頁)
・・じじつ、独裁者が追放されてから百年にもなんなんとするこの時期に至って、アテナーイ市民から政治的自由をとりあげるということは至難のわざであった。
市民らはこの間、誰の支配をも受けぬ自由人であったのみか、その期間の半ば以上にまたがって他国の諸民に君臨することにも慣れていたからである。(同上、315頁)
かくしてこの期間にわたって、一方が是が非でも本国にも民主政治をおこなわしめんとすれば、他方は軍勢を貴族政治に従わしめんと、互いにあい争う状態が続いたのである。(同上、323頁)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
少し長々と引用しましたが、ここには多くの教訓が述べられていると思います。とくに、
また、いかにして民主制が破壊されていくかということも、同じことを繰り返させない教訓として参考になると思います。
そこでは、貴族派は民主派を暗殺することにより人々を黙らせ、どんな「政見を発表しても」いいが、「憲法違反の訴えを起こしたり」してはならないとまで決めるようになります。
また、ペロポネソス戦争は結局のところ、古代における民主政治と貴族政治の闘いであったこともわかります。
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【僕、国歌歌わないもん】(石原慎太郎)
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東京五輪に 【国旗も国歌も必要ない】(ビートたけし)
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対米従属で「世界征服」を夢想するデマゴギー政治家安倍首相を倒そう!
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1月2日、▲ サウジアラビア政府が著名なシーア派の聖職者ニムル師ら47人を処刑しました。
これを受け中東全体が大きな危機に陥り、影響は全世界に及びつつあります。
背景にはこの間の原油価格の低迷などにより、サウジアラビアなどの産油国の財政が急速に悪化し、産油国内における階級対立が強まっているということもあるようです。
戦後70年を経て、世界は新たな戦争と内乱の時代に入ろうとしているようにも見えます。
ギリシャ時代、ペロポネソス戦争というものがありました。
これはまさに当時における世界戦争と内乱でした。
そして、この戦争と内乱を克明に描いた歴史書として、トゥーキュディデースの『戦史』という本があります。
参考になればと思い、この本(岩波文庫)からいくつかの部分を紹介したいと思います。
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筆者(トゥーキュディデース)は開戦劈頭いらい、この戦乱が史上特筆に値する大事件に展開することを予想して、ただちに記述をはじめた。
当初、両陣営ともに戦備万端満潮に達して戦闘状態に突入したこと、また残余のギリシャ世界もあるいはただちに、あるいは参戦の時機をうかがいながら、敵味方の陣営に分かれていくのを見たこと、この二つが筆者の予測をつよめたのである。
じじつ、この争はギリシャ世界にはかつてなき大動乱と化し、そして広範囲にわたる異民族諸国、極言すればほとんど全ての人間社会をその渦中に陥れることにさえなった。(『戦史』上、55頁)
私の記録からは伝説的な要素が除かれているために、これを読んで面白いと思う人はすくないかもしれない。
しかしながら、やがて今後展開する歴史も、人間性のみちびくところふたたびかつての如き、つまりそれと相似した過程を辿るのではないか、と思う人々がふりかえって過去の真相を見極めようとするとき、私の歴史に価値をみとめてくれればそれで充分であろう。
この記述は、今日の読者に媚びて賞を得るためではなく、世々の遺産たるべく綴られた。(同上、75頁)
さて、これまでの諸戦争のなかで、最大の事績はペルシャ戦争によってうちたてられた。
とはいえこれも、わずか二度の海戦と二度の陸戦によって、すみやかに勝敗が決した。 しかるに今次大戦では、その期間も長きにわたり、またそのために、これに匹敵する期間にはかつてギリシャが嘗めたこともなかったほどの惨害が全土におそいかかった。(同上、75頁)
(そしてこの本には有名なペリクレースの演説がある。その一部分を紹介する)
「・・・わららの政体は他国の制度を追従するものではない。ひとの理想を追うのではなく、ひとをしてわが範を習わしめるものである。その名は、少数者の独占を排し多数者の公平を守ることを旨として、民主政治と呼ばれる。・・・たとえ貧窮に身を起そうとも、ポリスに益をなす力をもつ人ならば、貧しさゆえに道をとざされることはない。われらはあくまでも自由に公けにつくす道をもち、また日々互いに猜疑の眼を恐れることなく自由な生活を享受している。・・・」(同上、226頁)
(しかし、ペリクレースは伝染病で死んでしまう)
ペリクレースは戦時におけるアテーナイの力量を正確に見通していたように思われる。かれは開戦後、2年6ヶ月間生きていた。
その死後、かれの戦争経過の見通しは一そう高く評価されるにいたった。
かれは、もしアテーナイ人が沈着に機をまち、海軍力の充実につとめ、かたわら戦時中は支配圏の拡大をつつしみポリスに危険を招かぬようつとめるならば、戦は勝利に終わると言っていた。
しかるに、他の者たちは、すべてこの忠告に反することばかりをしてしまった。戦争遂行とは全く無関係と思われても、己の名誉心や利得心を満足させうると見れば事をおこした。(同上、252頁)
皆己れこそ第一人者たらんとして民衆に媚び、政策の指導権を民衆の恣意に委ねることとなった。
このことが禍して、アテーナイのごとく大きいポリスを営み、支配圏を持つ国ではとうぜん、数多い政治的な過失が繰り返されることとなり、その最たるものがシケリア(シチリアのこと)遠征であった。(同上、253頁)
(その後、各地で内乱が起きてくる。
なおシケリア遠征の詳細は下巻に述べてある)
このようにして内乱は残虐の度を増しつつ荒れ狂った。
しかもこの事件(ケルキューラの内乱)は最初の実例であっただけに人々に一そう強烈な印象を与えた。
その後になると、処々の都市においてもアテーナイ勢の加勢を導入しようとする民衆派領袖と、ラケダイモーン(スパルタのこと)勢を入れようとする貴族派の紛争が生じ、そのために極言すれば全ギリシャ世界が動乱の渦中に陥ったからである。・・・・
・・この時生じたごとき実例は、人間の政情が変わらない限り、個々の事件の条件の違いに応じて多少の緩急の差や形態の差こそあれ、未来の歴史にも繰り返されるであろう。
なぜなら、平和と繁栄のさなかにあれば、国家も個人も己の意に反するごとき強制におかれることがないために、よりよき判断をえらぶことができる。
しかるに戦争は日々の暮らしを足もとから奪いとり、強食弱肉を説く師となって、ほとんどの人間の感情をただ目前の安危という一点に釘づけにするからである。(『戦史』中、100頁)
このようにして内乱の度にギリシャ世界には、ありとあらゆる形の道徳的退廃がひろまった。
素直さとは人格高潔にして備わるべき徳であるのに、それも今は世の嘲笑をうけて姿を消し、市民たちはたがいに政見を異にして敵視しあった為に、いたるところに猜疑の念が目立って強くあらわれた。・・・
・・だが一般的にみると、最後まで生き残った者たちは、権謀術策に劣っていた者たちが多い。その訳は、この者たちは己の足らざるを知り、相手の巧妙さを恐れていたので、相手の口車に乗りはしないか、相手は捕捉しがたい手で味方の計画の裏をかき先回りをするのではないか、と警戒を怠らず、行動に向かって果敢に突き進んだからである。
かれらの計画は見えすいている、策謀ではや勝ちと決まったものを実行に移して手に入れる必要はない、と高をくくっていた者たちは、虚をつかれてかえって破綻を招いたのであった。(同上、103~104頁)
(下巻にはシケリア遠征のことがきわめて詳細に記述され、
次のように結論づけられている)
かくしてこの〔ギリシャあげての〕作戦は、今次大戦中の諸戦に比すればもとよりのこと、筆者の判断によれば、われわれが過去のギリシャ史から聞き知る限りの実例と比べても、正しく最大規模を画するものとなり、しかも、勝者(スパルタ側)がこれに優る光輝を克ち得た例もなく、また敗者(アテネ側)がこれに過ぐる悲惨に落ちた類もなきものとなった。
じじつ、かれらはあらゆる面で徹底的な敗北を喫し、どの点を見てもかれらの損失の大ならざるはなく、全軍壊滅という言葉さながらに、兵も船も、ことごとく失われ、さしもの大軍も故国に帰りついたものは、数えるほどしかいなかった。これがシケリア遠征の顛末であった。(『戦史』下、243頁)
(その後も戦いは続いたが、その中でアテネの民主制の廃止が起きてくる。
貴族派の若者たちが当時の民主派の最高指導者アンドロクレースや他の人物を暗殺するのである)
民議会は消極的に黙り込み、たとえ発言権を奪われても乱暴な目にさえ遭わなければそれだけでも得だ、と思いこむほどに気力を失ってしまったのである。
そして人々は、この謀議派の人数が実際の加盟者の数よりも、はるかに多いと考えて、みな己の節を屈して口を閉ざした。・・
・・じじつ謀議派の顔ぶれには、まさか貴族政治の仲間入りをしようとは、容易には信じられないような人物までが、これに加わっていた。
そしてこのような人物らが、市民一般の間で不信の念を強める最大の原因となり、そして民衆派内における相互の不信感を抜きがたいものと化することによって、とりもなおさず貴族派の地位を確立するに最も効果的な力となったのである。(同上、312~313頁)
(そして、どのように巧妙に民主制を破棄したかについて
次のように述べられている。少しわかりにくいので読み飛ばされても構わない。
ただ、今後日本における民主主義破壊を食い止める参考のために紹介しておきたい)
さて、アテーナイ本国の事態がこのような瀬戸際まで来ていたとき、ペイサンドロス(以前は極端な民主派だったようです)らの一行が到着し、ただちに残りの仕事に着手した。先ず、民議会を招集すると、次の提案をおこなった。
10名の全権立法委員を選出し、選出された者たちは、ポリスがとるべき最もすぐれた政治形態について、具体的な具申書を草し、一定期日までにこれを民議会に上程すべし、と。
やがて定めの日がやってくると、謀議派は民議会会衆をコローノスに(市外約十スタディオン(約1.8キロ)離れていて、ここにはポセイドーンの神域がある)閉じ込めた。
かの立法委員たちは他の事柄については何もいわず、ただ一項目だけの提案をおこなった。すなわち、アテーナイ市民ならば誰であれ、望みの政見を発表しても、これを罰されない、と。
だが発表者に対して憲法違反の訴えを起こしたりその他の迫害手段を用いるものには、重刑が科せられることになった。
この提案が通ると、はや何のはばかりもなく、次の案が上程された。
すなわち今後は、政務執行および公職給与に関する従来の制度を一切廃止する。代わりに統領として五人の市民を選出する。
これら五人はあらためて百名の市民を選出し、そしてこれらの百名は各自の判断で市民の中から各々三名ずつを選ぶ。
こうして選ばれた者たち計四百名が、評議会に会して、彼らがなしうる最上の判断に従って政治をおこなう、全権をもつ。
かれらが適宜必要と認めた機会に、市民五千名からなる会議をも招集する、と。(『同上、313~314頁)
・・じじつ、独裁者が追放されてから百年にもなんなんとするこの時期に至って、アテナーイ市民から政治的自由をとりあげるということは至難のわざであった。
市民らはこの間、誰の支配をも受けぬ自由人であったのみか、その期間の半ば以上にまたがって他国の諸民に君臨することにも慣れていたからである。(同上、315頁)
かくしてこの期間にわたって、一方が是が非でも本国にも民主政治をおこなわしめんとすれば、他方は軍勢を貴族政治に従わしめんと、互いにあい争う状態が続いたのである。(同上、323頁)
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少し長々と引用しましたが、ここには多くの教訓が述べられていると思います。とくに、
<だが一般的にみると、最後まで生き残った者たちは、権謀術策に劣っていた者たちが多い。その訳は、この者たちは己の足らざるを知り、相手の巧妙さを恐れていたので、相手の口車に乗りはしないか、相手は捕捉しがたい手で味方の計画の裏をかき先回りをするのではないか、と警戒を怠らず、行動に向かって果敢に突き進んだからである。>という部分は参考になるのではないでしょうか。
また、いかにして民主制が破壊されていくかということも、同じことを繰り返させない教訓として参考になると思います。
そこでは、貴族派は民主派を暗殺することにより人々を黙らせ、どんな「政見を発表しても」いいが、「憲法違反の訴えを起こしたり」してはならないとまで決めるようになります。
また、ペロポネソス戦争は結局のところ、古代における民主政治と貴族政治の闘いであったこともわかります。
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