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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

控訴理由書「はじめに」(後)

2010年05月09日 | 日の丸・君が代関連ニュース
 ◇ 東京「君が代」第1次訴訟・控訴審第4回口頭弁論 5月11日(火)
 14:40傍聴抽選 15:00開廷 東京高裁101号法廷


 ★ 東京『君が代』第1次訴訟 「控訴理由書」(2009/9/15)から
  <「はじめに」 後編>


5 時の権力がその権力構造維持の手段として国民の精神を操作しようとするとき,最も普遍的で効果的な手段は教育の統制である。
  戦前の日本の教育にその典型を見ることができる。その時代,軍人勅諭とともに教育の根幹とされ,国民道徳のイデオロギーの支柱となった教育勅語は,「我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ」との位置付けをされて,教育の場で国民に文字どおり叩き込まれた。
  その徳目の中心は「常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」と言うものであった。国家のために臣民の命を捨てる心情の育成が教育の基本とされたのである。
  この極端な全体主義的イデオロギーを全面否定して,個人の尊厳を根源的な価値とする教育理念を確立したのが,日本国憲法教育基本法である。1947年成立の教育基本法前文は,「(日本国憲法の)理想の実現は,根本において教育の力にまつべきものである」と宣言した。
  現行の教育法体系は原則として教育内容への権力的介入を許さない。例外的に許されるのは合理的な理由がある場合に限定される。いま,その大原則が首都東京の公立学校の教育現場で危殆に瀕している
6 この深刻な事態を招いたものが,10・23通達である。
  その違憲・違法を争う最初の訴訟が,400人余の原告による,いわゆる「日の丸・君が代強制 予防訴訟」である。2006年9月21日に東京地裁民事36部が言い渡したその一審判決は,憲法的常識に貫かれたものであった。
  精神的自由の根源にある思想・良心の自由の保障を最大限尊重する立場を鮮明にし,教育への画一的な権力的支配に厳格な態度を示して,人権擁護の府としての裁判所の職責を全うした。
  この判決で,「10・23通達」は,当然に撤回されるであろうと思わせる事態が出現した。ところが,翌2007年に風向きが変わる。2月27日のピアノ最高裁第3小法廷判決からである。
  同判決の多数意見は,憲法判例に関心を持つ者にとっては,まことに奇妙な理解しがたい理由で,ピアノ伴奏強制の違憲性を否定した。
 「命じられた者にとって主観的にはともかく,一般的には,ピアノ伴奏を命じても,命じられた者の歴史観・世界観それ自体が侵害されているとは言えないというのである。同判決の事案は10・23通達以前の例ではあるが,10・23通達関係の諸事件に厚く高い壁となって,立ちはだかっている。
  ピアノ最高裁第3小法廷判決に続く下級審判決は,生硬なピアノ最高裁判決多数意見を丸呑みし,コピーしたごとき判決が続いている。残念ながら,本件の原判決もその系譜につらなるものとなった。
  権力が人権を侵害し,過度に教育への介入を行っているときに,権力の側を規制すべきが違憲審査制を持つ裁判所の役割である個人の人権を制約するのが裁判所本来の役割ではない。原判決は裁判所本来の役割を果たしていないと言わざるを得ない。
  とりわけ,原判決に現れた教育委員会の権限論は,旭川学テ最高裁大法廷判決が構築した大綱的基準論を誤解するものである。教育委員会による現場介入無制約論となりかねない危険性を有するものとして到底納得し得ない。
  最高裁と,これに追従した下級審判決とは,人権擁護の職責を放擲し,そのために著しく国民の信頼を失った。貴裁判所がこの愚を繰り返すことなく,国民の信頼を回復されるよう,強く願うものである。
7 本件を通じて,人権の保障システムが健全に機能しているか否かという原理的な課題が提起されている。残念ながら,今,司法運用の潮流は人権を保障し得ていない。
  枝葉の細部の論理に拘泥する以前に,根と幹とを見なくてはならない。権力と個人の思想・良心とが対峙する局面において,まずどちらの側に立ってものを見,ものを考えるべきなのか。裁判所は当然に,国民個人の側に立たなくてはならない。権力の強制と人権の侵害を合理化する論理をひねり出そうという姿勢であってはならない。秩序維持を最優先とする感覚であってはならない。
  なお,現代においては,権力構造は多数派が形成する。従って,社会の多数派に属する思想や良心が,権力と衝突することは原理的にない。権力と対峙して軋轢を生じる個人とは,実は多数派の論理を受容しない少数派の個人なのである。
  従って,権力的規制から擁護されるべき思想・良心の典型として想定されるものは,「多数派から憎まれる思想」であり,「多数派が眉をひそめる良心」なのである
  人権保障に,多数決原理や社会的多数派の論理や感情を持ち込んではならない。多数派の論理としての社会的儀礼論や「儀式は荘厳でなくてはならない」などの「社会的多数派の感情的俗論」を根拠に,少数者の人権を切り捨ててはならない。
  しかも,強調しておきたいのは,控訴人らの教育者としての情熱と真摯さである。控訴人らは,教育者としての理念や誠実性を譲ることができないと思えばこそ,生徒の前での面従腹背を潔しとせず,敢えて制裁を覚悟して,不起立・不斉唱・不伴奏等に至った。貴裁判所には,この控訴人らの教員としての真摯な姿勢について,十分にご理解いただきたい。
8 愛媛玉串料訴訟大法廷判決は,津地鎮祭訴訟・山口護国神社合祀拒否訴訟の各大法廷判決を,「緩やかな政教分離」から「厳格な政教分離」へと,事実上変更した。その判決において,尾崎行信裁判官が次のとおりの補充意見を述べている。
 「本件の玉串料等の奉納は,その金額も回数も少なく,特定宗教の援助等に当たるとして問題とするほどのものではないと主張されており,これに加えて,今日の社会情勢では,昭和初期と異なり,もはや国家神道の復活など期待する者もなく,その点に関する不安は杞憂に等しいともいわれる。しかし,我々が自らの歴史を振り返れば,そのように考えることの危険がいかに大きいかを示す実例を容易に見ることができる。人々は,大正末期,最も拡大された自由を享受する日々を過ごしていたが,その情勢は,わずか数年にして国家の意図するままに一変し,信教の自由はもちろん,思想の自由,言論,出版の自由もことごとく制限,禁圧されて,有名無実となったのみか,生命身体の自由をも奪われたのである。『今日の滴る細流がたちまち荒れ狂う激流となる』との警句を身をもって体験したのは,最近のことである。情勢の急変には一〇年を要しなかったことを想起すれば,今日この種の問題を些細なこととして放置すべきでなく,回数や金額の多少を問わず,常に発生の初期においてこれを制止し,事態の拡大を防止すべきものと信ずる」
  日の丸に正対して君が代を歌うこと,君が代斉唱の伴奏を強制することを,社会的儀礼や常識の範囲として「問題とするほどのものではない」,「今日の社会情勢では,昭和初期と異なり,もはや全体主義権力の復活など期待する者もなく,その点に関する不安は杞憂に等しい」のではない。
  「そのように考えることの危険がいかに大きいかを示す実例を容易に見ることができる」と言うべきなのである。
  『今日の滴る細流がたちまち荒れ狂う激流となる』は,しばしば引用される箴言である。10・23通達は,既に『今日の滴る細流』の域を超えている。しかし,まだ『激流』にまでは至っていない。『荒れ狂う激流』とならないうちに,「思想・良心の自由」「権力の教育への介入阻止」を実現しなければならない。
  控訴審の冒頭にあたって,貴裁判所に,国民が負託したその重い職責を全うされるよう,強く要請するものである。
 (終わり)

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