◆ ミケランジェロと金城実 (週刊新社会【たんこぶ】)
◆ パチンコ屋はシュール
パリのルーブル美術館で、展示してあるミケランジェロの「抵抗する奴隷」の像を見たとき、少しだけ金城実に近づけた気がした。この像は、1505年から作られ始めた教皇ユリウス2世の墓のために制作されたものだが、結局設置されることはなかった。
私は、一番得意な「企業内研修」の仕事も、講演活動も、すべてやめた。なのに、最も不得手な、できればやめたいと思っている原稿書きは、あと数年続けることにした。
それは、在日百年の民族史と、彫刻家金城実についての本を仕上げて、自身の人生を終えたいと思っているからだ。
しかし、書く書くと言いながら、もう4年は経っている。気楽に執筆を引き受けたはいいが、蓋を開けたら、とてつもない数のバズルのピースからなる迷路が目の前に立ちはだかっていたのだ。私の能力では、生きている間に組み立てられるだろうかと思うほどだ。
そう、金城実は、いつも私になぞなぞを仕掛けてくる。彼の言葉の奥にあるものを当ててみろ、と言わんばかりにだ。
最初の出会いは、酔っ払った金城さんに後ろからど突かれたことだった。「部落とチョーセンが上品でどうするう!もっと野蛮になれえ!」と。初対面でである。
単なる酔っ払いのオヤジで片付けられればいいのだが、彼の言葉は抵抗して生き抜いてきた者の心を鷲掴みにする。奪われし者の現実を知ることなしには語れない一言なのだ。
芸術に対する眼差しも、どんな授業よりも面白い。例えば、「シュール」とは「自由の女神(像)の下で軍艦マーチが鳴り響くパチンコ屋だ」と言われて、すとんと胃の腋に落ちた。
ドラクロワの『民衆を導く自由の女神』(1830年)についての解説は、なぜそこに胸をはだけた女性が必要なのか、という、底の浅い私の疑問を見事に吹き飛ばした。その内容は、いずれまとめようと思う。
ミケランジェロの奴隷の像には様々な解釈がなされているが、日本軍によって銃殺の場に連行される朝鮮人の若者とその母親とで構成された作品である、金城実の「恨(ハン)之碑」(2・7m×2m)を見ることで、その解釈が一つの線としてつながった。
◆ 見透かされる怖さ
金城実というと、チビチリガマの彫刻が思い浮かぶ人も多いだろう。
遺族とともに作り上げ、何度も壊された「世代を結ぶ平和の像」は、私には正視できないほど怖かった。そこに立つと、殺された者たちの声が聞こえてくるような錯覚を覚えるからだ。
誤解を恐れずに言えば、私の中で、作品とその作者(酔っぱらいの金城さん)が、どうしてもつながらない。彼の作品からは、見る者を鷲掴みにする狂気さえ感じてしまう。
ルーブル美術館にあるミケランジェロの『抵抗する奴隷』は、筋骨隆々、縛り上げられた腕や背中に盛り上がる筋肉が見る人の目を引く。しかし、一般に奴隷の体格は細く、栄養状態も良くない。そして、死といつも隣り合わせだ。
ミケランジェロの奴隷は現実とはかけ離れているが、それは抵抗する魂が体を通して表現されているのではないか、と気がついた。
金城実の「恨(ハン)之碑」も、同じように、抵抗する魂が肉体として表現されていたのだ。
初めて目にしたときは、朝鮮人の歴史が誇らしく思えた。
ミケランジェロとの違いは、泣き叫ぶオモニ(母)の声や、武力でしか支配できない旧帝国軍人の卑屈さまでが、死者の声とともに聞こえることだ。
抵抗の文化や芸術には、世界のいたるところで出会うことができる。
ケーテ・コルヴィッツ美術館に展示された、まさに抵抗でその生涯を終えた彼女の作品もまた見るものを圧倒する。
それらと触れ合って初めて、金城実はムーダン(イタコ)なのだと確信した。金城実の体を通して、死者の魂が彫刻となって世に現れてくる。
金城実が恐れられているのは、単に暴力的酔っぱらいというだけでなく、触れ合う人が「見透かされる」と感じるからだ。
日本の外に出れば出るほど、価値あるものとは何かが、嫌というほど見えてくる。
そう、「抵抗」は人類の財産であり、芸術家は歴史の証人なのだ。
金城実の本を書くというのは、自分の力量を考えるとあまりに無謀でめまいがするが、沖縄に対する私の人生の答えとして、なんとか書き上げたいと思っている。
『週刊新社会』(2018年12月4日、11日)
辛 淑玉(シン・スゴ)
◆ パチンコ屋はシュール
パリのルーブル美術館で、展示してあるミケランジェロの「抵抗する奴隷」の像を見たとき、少しだけ金城実に近づけた気がした。この像は、1505年から作られ始めた教皇ユリウス2世の墓のために制作されたものだが、結局設置されることはなかった。
私は、一番得意な「企業内研修」の仕事も、講演活動も、すべてやめた。なのに、最も不得手な、できればやめたいと思っている原稿書きは、あと数年続けることにした。
それは、在日百年の民族史と、彫刻家金城実についての本を仕上げて、自身の人生を終えたいと思っているからだ。
しかし、書く書くと言いながら、もう4年は経っている。気楽に執筆を引き受けたはいいが、蓋を開けたら、とてつもない数のバズルのピースからなる迷路が目の前に立ちはだかっていたのだ。私の能力では、生きている間に組み立てられるだろうかと思うほどだ。
そう、金城実は、いつも私になぞなぞを仕掛けてくる。彼の言葉の奥にあるものを当ててみろ、と言わんばかりにだ。
最初の出会いは、酔っ払った金城さんに後ろからど突かれたことだった。「部落とチョーセンが上品でどうするう!もっと野蛮になれえ!」と。初対面でである。
単なる酔っ払いのオヤジで片付けられればいいのだが、彼の言葉は抵抗して生き抜いてきた者の心を鷲掴みにする。奪われし者の現実を知ることなしには語れない一言なのだ。
芸術に対する眼差しも、どんな授業よりも面白い。例えば、「シュール」とは「自由の女神(像)の下で軍艦マーチが鳴り響くパチンコ屋だ」と言われて、すとんと胃の腋に落ちた。
ドラクロワの『民衆を導く自由の女神』(1830年)についての解説は、なぜそこに胸をはだけた女性が必要なのか、という、底の浅い私の疑問を見事に吹き飛ばした。その内容は、いずれまとめようと思う。
ミケランジェロの奴隷の像には様々な解釈がなされているが、日本軍によって銃殺の場に連行される朝鮮人の若者とその母親とで構成された作品である、金城実の「恨(ハン)之碑」(2・7m×2m)を見ることで、その解釈が一つの線としてつながった。
◆ 見透かされる怖さ
金城実というと、チビチリガマの彫刻が思い浮かぶ人も多いだろう。
遺族とともに作り上げ、何度も壊された「世代を結ぶ平和の像」は、私には正視できないほど怖かった。そこに立つと、殺された者たちの声が聞こえてくるような錯覚を覚えるからだ。
誤解を恐れずに言えば、私の中で、作品とその作者(酔っぱらいの金城さん)が、どうしてもつながらない。彼の作品からは、見る者を鷲掴みにする狂気さえ感じてしまう。
ルーブル美術館にあるミケランジェロの『抵抗する奴隷』は、筋骨隆々、縛り上げられた腕や背中に盛り上がる筋肉が見る人の目を引く。しかし、一般に奴隷の体格は細く、栄養状態も良くない。そして、死といつも隣り合わせだ。
ミケランジェロの奴隷は現実とはかけ離れているが、それは抵抗する魂が体を通して表現されているのではないか、と気がついた。
金城実の「恨(ハン)之碑」も、同じように、抵抗する魂が肉体として表現されていたのだ。
初めて目にしたときは、朝鮮人の歴史が誇らしく思えた。
ミケランジェロとの違いは、泣き叫ぶオモニ(母)の声や、武力でしか支配できない旧帝国軍人の卑屈さまでが、死者の声とともに聞こえることだ。
抵抗の文化や芸術には、世界のいたるところで出会うことができる。
ケーテ・コルヴィッツ美術館に展示された、まさに抵抗でその生涯を終えた彼女の作品もまた見るものを圧倒する。
それらと触れ合って初めて、金城実はムーダン(イタコ)なのだと確信した。金城実の体を通して、死者の魂が彫刻となって世に現れてくる。
金城実が恐れられているのは、単に暴力的酔っぱらいというだけでなく、触れ合う人が「見透かされる」と感じるからだ。
日本の外に出れば出るほど、価値あるものとは何かが、嫌というほど見えてくる。
そう、「抵抗」は人類の財産であり、芸術家は歴史の証人なのだ。
金城実の本を書くというのは、自分の力量を考えるとあまりに無謀でめまいがするが、沖縄に対する私の人生の答えとして、なんとか書き上げたいと思っている。
『週刊新社会』(2018年12月4日、11日)
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