◆ 戦後76年 中国とどう向き合うか
日中関係の出発点-ポツダム宣言 (週刊新社会)
◆ 戦後日本の出発点
今年は、日本がアジア・太平洋戦争で敗北し、日本の徹底した非軍事化を要求したポツダム宣言(以下「宣言」)を受諾して降伏した1945年から76年に当たる。しかし、今や「宣言」受諾で降伏した事実はほとんど忘れ去られている。
「戦後日本の出発点は?」と聞かれたら、大多数の日本人は「サンフランシスコ平和条約「(以下「条約」)で独立を回復した1952年」と答えるだろう。
「宣言」作成を主導した米国は、米ソ冷戦を背景に、「宣言」に基づく占領政策を転換し、「条約」(独立回復)と日米安保条約(軍事同盟)プラス日華平和条約(中国敵視)のセット(=「サンフランシスコ体制」-以下「体制」-)を日本が受け入れること(「片面講和」)を条件に独立を認めた。
当時はこれに反対し、「宣言」に基づく非軍事・平和の路線を堅持し、ソ連、中国を含む世界諸国との平和条約締結を通じた独立回復(「全面講和」)を主張する運動が行われた。
すなわち、戦後日本の出発点を「宣言」におくか「条約」におくかという、進路をめぐる国を二分する保守対革新の闘いがあったのだ。
しかし、長期にわたる自民党政治と高度経済成長期以後の国民意識の保守化によって、革新勢力は衰退を余儀なくされ、「体制」堅持を日本政治の前提とする政治状況が固定化していった。
◆ 対米追随政治と日中関係
1960年代に中ソ論争が起こり、米国はヴェトナム戦争の泥沼に入り込むという情勢を背景に、ニクソン政権は対ソ包囲網強化とヴエトナム戦争清算を目指して中国との戦略的関係改善へと舵を切った(1972年のニクソン訪中と上海コミュニケ)。これは日本にとって「体制」がわずかな綻びを呈した瞬間だった。
1972年に登場した田中・大平政権はこの機会を見逃さず、中国(毛沢東・周恩来)も対日要求(いわゆる「復交三原則」)の敷居を低くして応じたことで、日中共同声明(以下「声明」)が成立し、国交正常化は実現した。
◆ 腫れ物の台湾問題
しかし、米中関係と日中関係は当初から台湾問題という腫れ物を抱え込んでいた。中国(清朝)は日清戦争に敗北して台湾を日本に割譲した。
米英中首脳のカイロ宣言(1943年)は台湾を中国に返還することを定め、「宣言」第8項は「カイロ宣言ノ条項ハ履行セラルヘク」と定めた。
ところが米国主導で作成された「条約」は、日本が台湾を「放棄する」とだけ定め、帰属先を明示しなかった。
中国は両宣言に基づいて台湾は中国の領土と主張する。しかし、米国はその主張を認めず、「台湾防衛」戦略を一貫して堅持してきた。
米中関係は1979年の国交樹立以後、様々な試練にさらされてきている。
特に米国は、21世紀に入ってからの中国の経済成長と超大国化を「脅威」と捉え、バイデン政権に至っては「台湾防衛」戦略強調で対抗するまでになった。
◆ 「極東条項」と「声明」
対米追随の日本は米国の台湾政策にも全面的に従ってきた。
日米安保条約には「極東条項」があり、台湾有事が含まれる。つまり、台湾有事とは、「極東条項」発動で「日本有事」に直結する、正に国家的存亡の危機を意味する。
日本は、「声明」(第3項)で、中国の「台湾は中国の領土」という主張を「十分理解し、尊重」するとした。
同時に、「ポツダム宣言第8項に基づく立場を堅持する」として、「一つの中国」に
コミットしながら、米国の戦略にも同調する工夫を講じた。
◆ 日中関係の本質的改善
中国は「宣言」に基づく中日関係の全面的構築を訴えてきた。
しかし、日本は「条約」「体制」堅持(対米追随)を前提にした日中関係の限定的構築に応じる用意しかない。
つまり、日中関係は米中関係、台湾問題に振り回される構造がビルト・インされている。
しかし私たちは、「体制」堅持、「米国=善、中国=悪」のステロタイプを払拭しなければならない。
トランプ/バイデン政権が米国の「一国主義」的本質をさらけ出してきたことは、私たちが対米追随の惰性に安住することの愚と危険を教えている。
◆ 非軍事・平和に回帰
今、私たちに求められることは、「宣言」に立ち返り、非軍事・平和を根底に据えることだ。
日中関係についても同じく、「宣言」を日中関係の原点に据え、「紛争の平和的解決・武力不行使」(第6項)及び「覇権を求めない」(第7項)ことを定めた「声明」に立ち返らなければならない。
◆ 米国の暴走を止める
台湾問題については米国の暴走を阻止することを至上課題に据えなければならない。米国の無体な要求(集団的自衛権行使による台湾基同防衛)に対しては、日本が「声明」(第3項)で「一つの中国」原則を支持しており、応じることはできないと拒否しなければならない。
※ プロフィール:浅井基文(あさい・もとふみ)
1941年愛知県生れ。外務省、日本大学、明治学院大学、広島平和研究所等で勤務。著書に『中国をどう見るか』(高文研)等。
『週刊新社会』(2021年8月10日)
日中関係の出発点-ポツダム宣言 (週刊新社会)
浅井基文(あさい・もとふみ)
◆ 戦後日本の出発点
今年は、日本がアジア・太平洋戦争で敗北し、日本の徹底した非軍事化を要求したポツダム宣言(以下「宣言」)を受諾して降伏した1945年から76年に当たる。しかし、今や「宣言」受諾で降伏した事実はほとんど忘れ去られている。
「戦後日本の出発点は?」と聞かれたら、大多数の日本人は「サンフランシスコ平和条約「(以下「条約」)で独立を回復した1952年」と答えるだろう。
「宣言」作成を主導した米国は、米ソ冷戦を背景に、「宣言」に基づく占領政策を転換し、「条約」(独立回復)と日米安保条約(軍事同盟)プラス日華平和条約(中国敵視)のセット(=「サンフランシスコ体制」-以下「体制」-)を日本が受け入れること(「片面講和」)を条件に独立を認めた。
当時はこれに反対し、「宣言」に基づく非軍事・平和の路線を堅持し、ソ連、中国を含む世界諸国との平和条約締結を通じた独立回復(「全面講和」)を主張する運動が行われた。
すなわち、戦後日本の出発点を「宣言」におくか「条約」におくかという、進路をめぐる国を二分する保守対革新の闘いがあったのだ。
しかし、長期にわたる自民党政治と高度経済成長期以後の国民意識の保守化によって、革新勢力は衰退を余儀なくされ、「体制」堅持を日本政治の前提とする政治状況が固定化していった。
◆ 対米追随政治と日中関係
1960年代に中ソ論争が起こり、米国はヴェトナム戦争の泥沼に入り込むという情勢を背景に、ニクソン政権は対ソ包囲網強化とヴエトナム戦争清算を目指して中国との戦略的関係改善へと舵を切った(1972年のニクソン訪中と上海コミュニケ)。これは日本にとって「体制」がわずかな綻びを呈した瞬間だった。
1972年に登場した田中・大平政権はこの機会を見逃さず、中国(毛沢東・周恩来)も対日要求(いわゆる「復交三原則」)の敷居を低くして応じたことで、日中共同声明(以下「声明」)が成立し、国交正常化は実現した。
◆ 腫れ物の台湾問題
しかし、米中関係と日中関係は当初から台湾問題という腫れ物を抱え込んでいた。中国(清朝)は日清戦争に敗北して台湾を日本に割譲した。
米英中首脳のカイロ宣言(1943年)は台湾を中国に返還することを定め、「宣言」第8項は「カイロ宣言ノ条項ハ履行セラルヘク」と定めた。
ところが米国主導で作成された「条約」は、日本が台湾を「放棄する」とだけ定め、帰属先を明示しなかった。
中国は両宣言に基づいて台湾は中国の領土と主張する。しかし、米国はその主張を認めず、「台湾防衛」戦略を一貫して堅持してきた。
米中関係は1979年の国交樹立以後、様々な試練にさらされてきている。
特に米国は、21世紀に入ってからの中国の経済成長と超大国化を「脅威」と捉え、バイデン政権に至っては「台湾防衛」戦略強調で対抗するまでになった。
◆ 「極東条項」と「声明」
対米追随の日本は米国の台湾政策にも全面的に従ってきた。
日米安保条約には「極東条項」があり、台湾有事が含まれる。つまり、台湾有事とは、「極東条項」発動で「日本有事」に直結する、正に国家的存亡の危機を意味する。
日本は、「声明」(第3項)で、中国の「台湾は中国の領土」という主張を「十分理解し、尊重」するとした。
同時に、「ポツダム宣言第8項に基づく立場を堅持する」として、「一つの中国」に
コミットしながら、米国の戦略にも同調する工夫を講じた。
◆ 日中関係の本質的改善
中国は「宣言」に基づく中日関係の全面的構築を訴えてきた。
しかし、日本は「条約」「体制」堅持(対米追随)を前提にした日中関係の限定的構築に応じる用意しかない。
つまり、日中関係は米中関係、台湾問題に振り回される構造がビルト・インされている。
しかし私たちは、「体制」堅持、「米国=善、中国=悪」のステロタイプを払拭しなければならない。
トランプ/バイデン政権が米国の「一国主義」的本質をさらけ出してきたことは、私たちが対米追随の惰性に安住することの愚と危険を教えている。
◆ 非軍事・平和に回帰
今、私たちに求められることは、「宣言」に立ち返り、非軍事・平和を根底に据えることだ。
日中関係についても同じく、「宣言」を日中関係の原点に据え、「紛争の平和的解決・武力不行使」(第6項)及び「覇権を求めない」(第7項)ことを定めた「声明」に立ち返らなければならない。
◆ 米国の暴走を止める
台湾問題については米国の暴走を阻止することを至上課題に据えなければならない。米国の無体な要求(集団的自衛権行使による台湾基同防衛)に対しては、日本が「声明」(第3項)で「一つの中国」原則を支持しており、応じることはできないと拒否しなければならない。
※ プロフィール:浅井基文(あさい・もとふみ)
1941年愛知県生れ。外務省、日本大学、明治学院大学、広島平和研究所等で勤務。著書に『中国をどう見るか』(高文研)等。
『週刊新社会』(2021年8月10日)
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