◆ <朝日新書『太平洋戦争秘史』(山崎雅弘著)に大喝!>
~事象説明が不正確な上に”思い付きの虚報”まで記載
皆さま 高嶋伸欣です
東南アジアから20日に帰国したところで、同地域の戦史について,問題点だらけのトンデモナイ新刊書に遭遇しました。アジアからの報告の前に、その内容の悪影響が拡散されない内にと思い、取り急ぎ同書批判のメールをお届けいたします。
長文ですので時間のある時にご覧ください。
問題の書は、朝日新書・山崎雅弘著『太平洋戦争秘史ー周辺国・植民地から見た「日本の戦争」』 (朝日新聞出版、2022.08.30発行、全文445p) です。
1 執筆意図はまともに思えました
8月21日朝刊掲載の広告にあるキャッチコピー(添付資料1)に惹かれ、すぐに入手して通読しました。
「まえがき」の冒頭の一文では「本書は」「従来の書物とは少し違った角度から光を当てた研究書です」と明記され、知的期待感が高められました。
加えて「まえがき」によれば、本書執筆の理由の一つが、「日本軍の軍人」の名誉を傷つけるような主張に対して「それらを否定・否認することが『日本人としての務め』である、というような、自国中心の歴史認識が社会に広まりつつあるから」とのことです。
文脈からは安倍晋三氏が推奨した「新しい歴史教科書をつくる会」や産経新聞の「歴史戦」などの動きを意識しものと読めます。
さらに、「国際社会で共有されている歴史認識」を意識するとし、「あとがき」では「歴史を学ぶ者、とりわけ学生が」弊害を被ることの内容にすべきとも指摘しています。
著者の山崎氏のこれらの指摘には共感を覚えました。
2 ところが、たちまち疑問点が次々と浮上
一方で、「まえがき」(添付資料1)では「周辺国・植民地」の視点で「太平洋戦争との関わりにおける軍事や政治の情勢を読み解いた書物は、ほとんどなかったように思います」と明確な根拠もなしに判断し、「太平洋戦争の文献的空白」を埋めるべく、本書を執筆したのだという意味付けをしています。
そうした文献が現在では多数存在していることは、近在の図書館へ足を運んだり、ネットで調べればすぐ判明します。「空白」ではなく大手出版社などやマスコミの関心が薄く、それらの多くが小規模出版社から発行されていただけです。
そうした文献を見つける努力を山崎氏は欠いていることが、ここから読めます。
山崎氏は自身で基本的な事項を実証する姿勢を堅持しているのか、疑問が生じました。
加えて「あとがき」では、戦争の名称についての議論を「最近では『アジア太平洋戦争』という呼び方も広まっているようです」と軽くあしらい、本書では「名称が文中に登場する頻度が高いので、『アジア太平洋戦争』だと煩雑に思える」ので「従来通りの『太平洋戦争』を用いることにしました」とあります。
最近の議論や学術的成果について「ようです」という程度の認識で、その意義を軽んじている姿勢は、単に「煩雑」を理由に「従来通りの」表現をあっさりと採用していることに通じています。
使用する用語を、その学術的意義よりも、執筆の簡便さに基づいて取捨選択している自筆の書を「研究書」と呼称する山崎氏の”研究”の定義は、特別のようです。
*それに、「アジア太平洋戦争」に該当する戦争の名称(山崎氏のいう「太平洋戦争」)が登場しているのは、全445pの同書を一瞥したところでは、本文の場合、総合計でも114か所でしかありませんでした。
「煩雑に思える」からよりも「面倒くさい」からではないかと勘繰りたくさえなります。
また戦時中の周辺地域や植民地に関しては「文献的空白」があるとしたことを本書執筆の意味付けにした以上、「アジア太平洋戦争」という呼称を後追い的に使用できないという自縄自縛の面もありそうです。
この点、「『アジア太平洋戦争』という呼び名も広まっているようです」という無責任な言い回しにも、山崎氏なりの整合性があるのだと読めます。
さらに、「ようです」という程度の認識で論を進めていて、「『日本軍の軍人』の名誉を傷つけるような主張」を「否定・否認することが『日本人としての務め』」とする動きに対抗できるのでしょうか。心許ないです。
3 各論ー疑問・問題点
当初の期待感とは別に、「はじめに」と「あとがき」(添付資料1)に触たことで、同書が「研究書」としての実態をどれほど満たしているか検証しながら、本文を読み進めることにしました。
精読したのは、「序章」と私が長年関わってきている「マラヤ・シンガポール(第二章)」「タイ(第六章)」などです。
結論を先に明らかにすると、疑問点や事実関係の杜撰さが目立ちました。
さらには、重大な歴史的事実に対して致命的な歪曲断定の記述(4で詳述)がありました。
全体的に、歴史的事象の扱いに濃淡が目立ちます。扱っている事象それぞれについてもその意味付けがすでに多くの文献でされているにもかかわらず、その掘り下げられた内容に触れていないどころか、その掘り下げ成果を反映させた記述もされてないのです。
最近の調査・研究をほとんど反映していない事柄も目立ちます。歴史教科書などにすでに以前から記載されているような事柄をとくとくと述べている事例も、少なくありません。
私が精読した限りで、同書は『秘史』に程遠く、さしづめ関連書から集めたエピソードのリライト本であるかのようです。
以下、上記の疑問点や問題点の幾つかについて具体的に説明します(添付資料2)。
<疑問・問題点①>序章 (34p)
序章の冒頭で1941年12月8日の対英米開戦の経過を説明しています。そこでは、日本が「宣戦布告を行い」「太平洋戦争が勃発した」としながら、その後で「日本軍は宣戦布告を行う前に英領マラヤと米国ハワイの真珠湾に対する先制奇襲攻撃を実行した」と記述しています。
これでは支離滅裂です。
これが「以降の内容を理解しやすいよう」「大まかな流れを紹介する」という趣旨に基づいた冒頭部分に記述なのです。読者を混乱させる記述であると気づかない著者にしろ編集者にしろ、仕事ぶりが早くも心配されます。
ともあれ、「太平洋戦争が勃発した」のは、宣戦布告前の海軍による攻撃によってだというのが事実ですから、冒頭の一文は誤記です。
続けて、山崎氏は「日米交渉打ち切り」通告の手交が真珠湾攻撃の事後になった件に言及しています。そこでは同通告文に「宣戦布告の内容はなく」という文言を挿入しています。宣戦布告は事後だったのだと強調したいのだと読めます。
ただし、この部分では「日米交渉打ち切り」通告文書の「伝達は真珠湾攻撃の後となった」とあるだけで、同文書の「伝達」と宣戦布告の前後関係には全く触れていません。
ここで確認すべきなのは、宣戦布告が12月8日午前11時45分(東京、ワシントン、ロンドンで同時通告)だったという事実です。
これらの事象を時系列順にした説明文は、中学・高校の歴史教科書に10年以上前から登場しています。それらの教科書の発行部数は毎年、総計で約400万部です。
「太平洋戦争の文献的空白」認識は山崎氏の周辺のみでしか通用しないのではないでしょうか。出版元の朝日新聞出版社の校閲態勢はどうなっているのだろうか、という疑問も湧いてきます。
<疑問・問題点②> 第2章 マラヤ・シンガポール(英領)ー山崎氏は英領コタバルとタイ領シンゴラなどへの攻撃をほぼ同時であるかのように扱っている
ここ(92p)では「1941年12月8日の午前2時15分、日本軍のマレー侵攻作戦が開始され、太平洋戦争の幕が切って落とされた」と、一応正確に記述されています。
*このことは、一方で前出の序章冒頭の一文の杜撰さを改めて裏付けています。
ただし、その次の「日本陸軍の上陸地点は、タイ領のシンゴラとパタニ、そして英領マラヤのコタバルだった」は、正確さを欠いています。
第1に、陸軍のマレー侵攻作戦では、タイ領にカンボジア(仏印)国境からの侵攻、メナム(チャオプラヤ)川河口からのバンコック侵攻が同時に実行されました。このことがまるで無視されています。
それに、タイ領のマレー半島東岸にはシンゴラ、パタニ以外でも上陸作戦が行われています。「シンゴラとパタニなど」と表現すべきです。
*それらの地点では半日間の「日タイ戦争」が行われ、タイ側に多くの死者をだしました。今もタイでは各地で12月8日朝、追悼行事が行われています。
第2に、これらタイ領土への侵攻作戦は、山崎氏の言う「午前2時15分」に「英領マラヤのコタバル」での上陸作戦が予定通りに実行されたことを確認した後に、実行されたもので、コタバル作戦と同時ではありません。
山崎氏の記述は不正確です。
第3に、山崎氏は「12月8日の午前2時15分」をもって「太平洋戦争の幕が切って落とされた」と強調していますが、その時刻はコタバルだけのものであるときちんと認識していない、と読めます。歴史的出来事については、派生した時刻の順に記述すべきですが、山崎氏の場合は「日本軍の上陸地点」としてタイ領を先に記述しています。
この点、同書のこの部分の記述は不正確です。
<疑問・問題点3>ー山崎氏はマレー作戦の内容を誤認している?
それだけではありません。山崎氏は、コタバル先攻作戦の意味、さらにはマレー作戦全体の意味を正確に把握しているのか、極めて疑わしいのです。
なぜなら、同書「第8章 インド(イギリス領)」には「インド軍部隊は戦車と自転車を駆使してジャングルに浸透する日本軍に翻弄された」という記述があるのです(277p、添付資料には引用してありません)。
山崎氏が連想しているマレー半島のジャングルは「戦車と自転車を駆使」できる低木や隙間だらけの植生なのでしょうか。それはジャングルではなくサバンナの草原です。
マレー半島は密生する強靭な竹と昼なお暗く樹木に覆われた文字通りのジャングルが東海岸に迫り、「戦車と自転車」どころか兵士が徒歩で部隊として行動するのは極めて困難な場所です(現在も東側の開発は遅れています)。
そのことを日本軍は事前に察知していたので、漁村が点在するだけで道路もほとんどない英領マレー半島の東海岸上陸をあきらめ、部隊行動が可能な幹線道路と鉄道が整備されている西海岸側に素早く半島を横断できるタイ領マレー半島の狭窄部(クラ地峡付近)を横断するという、独立国タイをないがしろにする作戦を立案したのです。
その結果、タイ領マレ―半島東海岸に陸軍の大部隊の上陸作戦を実施することになりましたが、上陸作戦では空からの攻撃に弱く、大被害が生じます。当時、日本軍機は仏印に配備されていましたが、シャム湾を横切って往復することになるので上陸地点の上空には長く留まれないし、それらの機種の大半は爆撃機でした。
困った日本軍は視点を替えて、上陸予定地点に飛来可能な英国軍機の基地の所在情報を収集したところ、コタバルに英国軍機が配備されていることが判明したのです。
そこで、タイ領への大部隊による上陸作戦中の被害を最小に食い止めるには、上陸作戦に先だつコタバル英国軍基地の攻略が必須であるとの結論に至ります。
*ちなみに、こうした日本軍のマレー作戦の筋書きは、当時の英米などの軍事専門家の間でも、「日本軍はコタバルから侵攻を開始するだろう」と見透かされていたと言われています。
南部仏印まで進駐した日本軍のねらいが東南アジアの資源地帯の占領にあるのは明らかで、そのために英軍の東南アジアの拠点シンガポール攻略が必須であり、それには半島のタイ領狭窄部分に上陸して半島西側を駆け下ることになる。そこで、上陸作戦での被害を最小限にするために、コタバルの英軍基地の制圧に先遣隊を送り込むだろう、と想定されたというわけです。
そうした想定に基づいて、英軍はコタバル海岸にトーチカを並べ、鉄条網の設置などをして待ち構えていました。従って、コタバル上陸は満を持している英軍に正面から挑んだもので奇襲ではなく、被害甚大が予想されながら遂行された作戦です。実際、同作戦を担当した侘美支隊は多数の死傷者を出しています。
こうした戦略の筋道は、山崎氏が参考文献として列記している公刊戦史叢書第1巻『マレー侵攻作戦』に説明されています。また吉村昭著『大本営が震えた日』(新潮文庫など)でも平易に説明されています。
そうした関連資料があるにも拘わらず、山崎氏は「戦車と自転車を駆使してジャングルに浸透する日本軍」と明記しているのです。関連文献を飛ばし読みした半可通のまま想像をたくましくした”でまかせ”を書き並べているのではないかとは、いいすぎでしょうか。
<疑問・問題点4>「第6章 タイ」ー山崎氏は日本とタイとの中立条約に言及しても、同条約を踏みにじった事実に触れるのを避け、あるいはその事実に気づいてない
「第2章 マラヤ・シンガポール」では日本軍による華僑虐殺についての記述の問題がありますが、その前に前出の話題と関連した「第6章 タイ」の記述上の問題点について触れておきます。
同書の212pでは、タイのピブン首相が軍事力よりも外交で独立を維持するとの方針の下に、1939年9月には早々と中立を宣言し、1940年6月には英仏と相互不可侵条約を結んだ上、同時に日本と「日泰(タイ)友好和親条約」に調印した、と記述されています。
これらの記述は正確です。
そして、続けて「この三つの条約は」「締約国の一方が戦争状態に入ったなら、相手方は中立を守るという項目が含まれていた」と記述し、タイがあくまでも中立の立場を維持できるようにしたのだという説明を付けています。
この説明もほぼ妥当です。
ところが、その先の219pの記述では、日本軍が12月8日早朝にタイ領に無断侵攻し、同日夜に「タイ政府と日本政府の間で日本軍部隊のタイ領内通過協定が結ばれ」たと記述していますが、それ以上の説明がありません。
少し落ち着いて考えてみれば、タイは対英戦を始めた日本軍に領土内の通過を許容する便宜をこの「協定」で提供したことになります。それは、英国からすると中立ではなく日本陣営の一員になったという意味になります。
つまり、日本軍は前年に調印した(批准書も12月に交換済み)「友好和親条約」でタイの中立政策維持を保障した条項を、武力侵攻の脅しをもって踏みにじっていたのです。
戦後の日本では、「敗戦直前にソ連が『日ソ中立条約』を一方的に破って日本に参戦した」とする指摘が広く繰り返されていますが、日本自身が対英米開戦時の1941年12月8日に、タイとの中立条約を踏みにじっていた事実が存在していたのです。
この事実は、外務省内では「近代日本外交の最大汚点の一つ」として語ることが、今も事実上の禁句とされています。外交史の事典や叢書等でもこの条約の存在自体に触れているものは希少です。まして、日本軍が同条約を踏みにじったことを明記している文献は皆無同然の状況です。
それだけに、同書が212pで「日泰友好和親条約」に言及しているのには、画期的な意味があります。まさしく書名『秘史』に匹敵する話題であるように見えます。
ところが、著者の山崎氏は、肝心の同条約を日本軍が踏みにじった事実について全く触れていないのです。
これでは、山崎氏はタイの中立政策の説明の一端として「和親条約」を位置づけているだけではないかと勘繰りたくなります。
何しろ、同条約の第1条には締約国の主権尊重・領土不可侵が明記されている一方で、日本軍は開戦時のタイ領侵入では事前了解を得る(中立政策を放棄させる)ことが出来なくともかまわずに武力侵攻する和戦両様の構えの”手筈”を確認していたのです。
このため、日本軍は12月8日の開戦時に国際法違反行為を演じる確率が高いと承知していた東条首相は、天皇による「開戦の詔勅」に従来の詔勅にはあった「国際法を遵守し」等の文言をいれることを最後まで拒否して通したことが、戦後明らかにされています。
昭和天皇からは、再々、そうした文言を入れるように求められたにもかかわらず、東条首相は「天皇がウソをつくことになりますから」として、かわしたとのことです。
こうしたエピソードは『秘史』そのものですし、「日本軍人の名誉」を守るために自国中心の歪んだ歴史認識が広まっている社会状況に歯止めを掛ける効果が期待できる事柄でもあります。
山崎氏は、同書出版の趣旨に極めてふさわしいこの話題の掘り下げを、なぜ瀬戸際でやめてしまったのか。不思議です。
もし、こうした意味があるということに気付いていないか、ぞの意味に価値を見出さなかったというのであれば、この点でも同書を「研究書です」とする位置づけには大いに疑問を覚えます。
<疑問・問題点5>「第2章 マラヤ・シンガポール」ーマラヤの華僑 虐殺事件の扱いは何故軽いのか
同書103p~105pにかけて、シンガポールでの日本軍による華僑虐殺の『秘史』が比較的詳しく記述されています。
ただし、日本軍内の経緯が紹介されているシンガポールの「華僑大虐殺(地元では『大検証』)」については、その犠牲者の追悼碑(いわゆる「血債の塔」)の写真が小学校歴史教科書にも登場するなど、20年程前から日本の歴史教科書で児童生徒が学んでいる”秘史”です。
当然、教室では教員が教科書記述を補足して、上記のような軍内部の経緯などにも触れていると思われます。
そうした現状にあって、「日本軍の軍人」の名誉のためには「自国中心の歴史認識」の広まりに抗う『秘史』とするのであれば、記述にそれなりの配慮がされるべきではないかと思われます。
例えば、103pで殺害された中国人の数について「正確な記録が存在しないが」としています。確かにその通りなのですが、「記録が存在しない」のは、日本軍が「華僑大虐殺」を軍の正式の行動として実施しながら、きちんと氏名どころか人数の記録さえも作成しないで、極めて恣意的便宜的な識別によって「敵性華僑」と決めつけ、殺害したためです。
さらに、敗戦直後、日本軍が全部隊に対して戦犯裁判などの証拠とされないように全ての記録類の焼却・破棄を指示したため、「大検証」を実施した部隊の公式記録『陣中日誌』なども残されていません。
証拠隠滅を組織的に実行した結果として、「正確な記録が存在しない」事態となったので、その事態の責任はすべて日本側にあります。
戦闘終了後でもあるにもかかわらず、日本軍は人を人と思わない行動をここまで徹底させていたことの結果として、戦後も正確な数字が不明で、それだけ責任追及を曖昧にしていることになります。
そうした気づきにくい一面を指摘してこその『秘史』ではないかと思われます。
加えて、そうした指摘は前出の「『日本軍の軍人』の名誉」を偏重する風潮に対しては一定の影響を及ぼすはずと思えます。
こうした点で、103pの記述は教科書のレベルを超えているとは考えられません。
さらに見過ごせないのは、105pのマラヤでの華僑虐殺に言及した2行の記述です。
「日本軍による中国系市民の大量殺害は、マラヤでも実行され、戦後のマレーシア側記録によれば数万人が犠牲となった」とありますが、問題点だらけです。
第1に「戦後のマレーシア側記録」とありますが、同書で山崎氏は日本軍がマラヤとシンガポールの占領地で、英国の植民地統治の民族分断策を踏襲したと、繰り返し強調しています。それが、戦後にも禍根として残り政情不安やシンガポールの分離独立の一因ともなったと、説いています。
こうした記述は事実に即しています。
そこから確認されるべきことは、住民虐殺のターゲットにされたのは華僑であって、マレー系マレーシア人は華僑弾圧による財産・資産や仕事などの遺棄による横取りで益を得た側であるということです。
従って、戦中の華僑虐殺についての戦後の議論において「戦後のマレーシア側の記録」という表現を用いるのは、議論を曖昧にするものです。
「研究書」としては不適切です。
第2に、仮に「マレーシア側の記録」を「マレーシアの中国系の人びと(華人)による調査報告」と読み替えたとしても、「数万人が犠牲になった」と推定してはいても断定できているものを、我々は寡聞にして知りません。
我々もすべての資料・報告について熟知しているとは断言できませんから、山崎氏がそうした「記録」の存在を知悉しているのであれば、そうした記録の存在自体が『秘史』でもあるとして、明らかにされることが望まれます。
また仮にそうされたとしても、「数万人が犠牲になった、とするものももある」とするのが、事実を遵守する「研究書」の在り方ではないかと、思われます。
何しろ、日本側が証拠隠滅を組織的に実施したのですから。
第3に、同書では巻末の「参考文献」一覧において、この「第2章」では林博史著『華僑虐殺』(すずさわ書店)を挙げていますが、その内容をまるで生かしていません。
『華僑虐殺』は、マラヤにおける住民虐殺について極めて実証的に検証し、日本軍が公式の命令書をもって広島の陸軍第5師団に「敵性華僑狩り」を実行させたことを明らかにしている書です。
これまでのところ、マラヤの華僑虐殺について同書に匹敵する研究書は登場していません。
同書の最大の特色は、ネグリセンビラン州などマラヤの一部分ではあるものの、日本側の「正確な記録」である『陣中日誌』や『戦闘詳報』などに基づいて虐殺の事実を確認している点です。
この点はシンガポールの場合と異なる大きな特色です。さらに、日本軍による大量虐殺で知られる「南京事件」において、論争が今なお続いている一因は、日本側がシンガポールの場合と同様に裁判どころか、氏名や人数の記録さえも作成しない、人を人とも思わない野蛮行為をやってのけたことにある責任を棚に上げて、平然と「日本側の主張に異論があるのなら、中国側から犠牲者数を証明しろ」という厚顔無恥の主張をしていることにあります。
ところが、ことマラヤの華僑虐殺については、林博史氏が1987年秋に防衛庁(当時)の研修所図書館で第5師団11連隊第7中隊の『陣中日誌』に、日々の華僑虐殺状況が刺殺数など詳細に記述されているのを発見したのです。これによってマラヤの華僑虐殺は、戦友会や「『日本軍の軍人』の名誉」を守りたいとする人々が、虐殺が軍による組織的な戦争犯罪であることに、異論を唱えられなくなっている稀有な事例となっています。
それなのに、山崎氏はシンガポールの「大検証」について詳しく説明をする中でわざわざ「正確な記録が存在しないが」などと言及しておきながら、"正確な記録が残されている”マラヤでの華僑虐殺については素っ気ない、しかも実証性に欠ける2行だけの記述で済ましているのです。
ちなみに、上記『華僑虐殺』(すずさわ書店)は1992年刊行で、今では入手困難な書です。そのことは、ある意味「太平洋戦争の文献的空白」を象徴しているようにも思えます。そうした参照困難な書を山崎氏は参考文献として挙げながら、『秘史』とするにふさわしい同書の内容には知らんぷりです。
「『日本軍の軍人』の名誉」を守ろうとする動きを危惧したとの「まえがき」の言もどこまで本心なのか疑われます。
なお、シンガポール「大検証」に関する山崎本103p~104pの、日本軍内の動きについての記述の大半も、参考文献に挙げられている林博史著『シンガポール華僑虐殺』(高文研、2007年*山崎本では参考文献の刊行年を記載していない)の史料に基づく論証をリライトしたものとしか思えません。
山崎本は「あとがき」で、参考にしたすべての書物の関係者への敬意と感謝を述べています。そうすることでリライト本を「研究書」と自称できると、山崎氏と編集者(山崎氏が名前を明記しています)は考えているのでしょうか。
4 極めつきのトンデモ話ー「日本海軍は、12月8日にハワイの真珠湾を奇襲攻撃する予定で、日本陸軍はその攻撃予定時刻の直前に、英領マラヤのイギリス軍を攻撃する手筈となっていた」(218p)。山崎氏は対英米開戦時の状況・作戦内容について正確に理解できていないまま、前代未聞の状況解釈(でっち上げ)を「研究書」に記載している!
前出のように、山崎氏は「第2章 マラヤ・シンガポール」で日本軍による対英米開戦時の行動推移について次のように記述しています。
「1942年12月8日の午前2時15分(日本時間、ハワイの真珠湾への奇襲攻撃が開始される午前3時19分より約1時間前)、日本軍のマレー侵攻作戦が開始され、太平洋戦争の幕が切って落とされた」(92p)
この記述は、正確です。
今でもなおマレー侵攻作戦と真珠湾奇襲作戦はほぼ同時に開始されたとみなして、「真珠湾攻撃でアジア太平洋戦争が始まった」とするドキュメント報道が少なくありません。
山崎氏はそうした”真珠湾神話”に毒されていないように読めます。けれども上記の記述に続けて、前出<疑問・問題点2>で指摘した「日本陸軍の上陸地点は、タイ領のシンゴラとパタニ、そして英領マラヤのコタバルだった」という杜撰な言い回しがされているのです。
この言い回しを目にしたことで、12月8日の開戦時の状況を山崎氏はどれだけ正確に把握して論じているのかという点に特に集中して読み進むようになりました。
そうして遭遇したのが、ハワイ奇襲攻撃の直前にマレーで英軍を攻撃する「手筈になっていた」という、奇想天外、前代未聞の断定的説明です。
「手筈になっていた」ということは、ハワイ攻撃の海軍とマレ―作戦の陸軍がその手順で行動するという点で合意していたという意味になります。
ところで現実には、マレー作戦のコタバル侵攻は前出のように日本軍だけでなく英軍やタイ軍(ピブン首相)など関連諸国の軍事専門家の多くが想定し、コタバル海岸には防御陣地が堅固に構築されていて、奇襲作戦ではありませんでした。
一方で、真珠湾攻撃は文字通りの奇襲作戦で、日本海軍はハワイ近海に到達するまでに察知されたら失敗を覚悟の無謀なものだったことには、現在でも異論はほとんどありません。
それだけに、直前であるにしろコタバル侵攻を先にした場合、英国から米国に素早く警報が伝えられたら、ハワイの米軍も一気に警戒態勢に入ってしまい、奇襲にならなくなります。
従って、コタバル侵攻が直前であろうとも真珠湾奇襲よりも先行することに海軍が同意し、陸海軍間でその旨の「手筈」が整っていたなどという状況はありえないのです。
これは、小中学生でも分かる事柄です。
*なお念のために確認しておくと、12月8日の開戦時の状況は以下の通りです(添付資料3)。
1)陸海両軍は真珠湾奇襲の効果確保を優先し、ハワイとコタバルでの攻撃開始時刻を同時とすることで合意した
2)さらに、ハワイの奇襲攻撃の効果をより確実にするために、米軍の警戒が最も緩い現地の黎明(夜明け)頃の日本時間午前2時とすることで合意し、陸海軍間で「東京協定」を結んで確認した。
3)ところが、連合艦隊の航空部隊では、新たに艦隊に編入された空母瑞鶴と翔鶴の登載飛行機隊の技術が未熟で夜間の発艦や大編隊での夜間飛行が危険と判断され、黎明発艦、昼間航行に作戦を変更した。
4)この結果、真珠湾奇襲は日本時間午前3時30分(現地時間午前8時)に行うことに海軍は変更した。
5)この変更は、1)の趣旨から陸軍に通知されるべきだったが、すでに陸軍は当初の2)の協定に即して全体が行動中で、海軍は部内の調整不足による失態でもある事柄を伝えにくく、結局そのまま放置した。
6)結果として、コタバル上陸戦は季節風による荒波で上陸が遅れて午前2時15分から、真珠湾は順調に行動ができ午前3時20分から、それぞれ攻撃を開始し、両者の時間差は1時間5分(公刊戦史叢書『マレー侵攻作戦』1976年による)となった。
*これは、開戦当初から海軍内の連絡体制不備と陸軍と海軍とが相変わらず不仲で、大作戦失敗寸前の醜態を演じていたことを示すものです。
そうした失態を晒さないで済んだのは、コタバルへ来襲の報告を受けたシンガポールの英軍司令部(パーシバル将軍)がフィリピンなど近在の米軍にもその情報を素早く送るなど、1時間の時間差を有効に活用する機敏さを発揮する能力に欠けていたおかげとも言えます。
山崎氏が「パーシバルは」「教養はあったが情熱に欠け、突発的な危機への対応力は弱かった」と記述している(89p)のと符合する事柄です。
なお、この1時間の時間差が”活用”されていたならば、真珠湾奇襲は失敗に終わり、その後の状況にも大きく影響した可能性があります。日本軍の東南アジア占領作戦も影響を受けたはずですが、こうした観点からこの時間差の意味を追究した論考を寡聞にして私は知りません。
*添付資料類で明らかにされている上記3)~6)の海軍の不手際は、今あまり知られていない”秘史”の部類です。今も知られない理由の一つに、”12月8日の太平洋戦争開戦は真珠湾から”という”真珠湾神話”をマスコミが垂れ流し続けて、コタバル開戦に人びとが気付き難くされている状況があります。
そして、そうした”真珠湾神話”を広げるようにしむけたのが、戦後の旧海軍関係者たちによる情報操作にあるとも思われ、その巧妙さに私たちは注目しています。
ともあれ、山崎氏はこうした真珠湾奇襲に関する常識中の常識をおしのけ、海軍と陸軍の間では海軍のハワイ攻撃「予定時刻の直前に」陸軍がマライ攻撃を開始する「手筈となっていた」と、何の論証もなしに「第6章 タイ」の部分で突如断言しているのです。
これではまるで思い付きのでたらめを記述したとさえ思えてきます。
ここで連想されるのは、「戦車と自転車を駆使してジャングルを浸透する日本軍」という、前出の迷文(277p)です。
結局のところ、山崎氏は対英米開戦時の全般的状況及びその後の「周辺国・植民地」の状況などについて、参考文献から適正に事実を読み取ることもないまま、勝手に創作した事柄を、いかにももっともらしく並べてて『秘史』と銘打ち、「研究書」として出版しているように思われます。
しかも、ここまで述べたのは、全11章まである内の2章と6章の記述に限っての事柄です。残りの各章につても精査したら、どうなるのでしょうか。
5 結び
今回、上記の<疑問・問題点>などを指摘するあたって、歴史特に軍事史の研究者に事実確認をお願いするメールのやり取りをしました。その際、「山崎さんの著書は”使えない”とすぐに気づいたので、最近は全く手にしたことがない」旨の指摘がありました。
添付資料1の欄外にある著者略歴に多数の著書についてのことと思われます。
私の場合、今回の朝日新書について、広告や「前書き」などに惹かれたりしましたが、間もなく内容から疑問や問題点を次々と読み取り、「研究書」としては相手にする価値がないと判断しました。
その一方で、最後の「手筈となっていた」の一文は見過ごせませんでした。
この2行がなければ、こうした徒労感の残る取り組みはしなかったと思います。
私たちは、40年間、マレー戦線、シンガポール占領下の状況についての調査・研究について、まさしく「文献的空白」状況を埋めるための取り組みを続けてきました。
今では大半の中学・高校歴史教科書に開戦がマレー半島からであることや占領下の東南アジアで住民が苦しめられたことを学べる記述が登場するまでになっています。
対英米戦のアジア太平洋戦争がコタバル開戦だったと学ぶことで、児童生徒は”真珠湾開戦神話”を今も垂れ流しているマスコミなどの報道に疑問を持つことになります。
そこから、海軍の失態があったことに気付かせないように仕向けた戦後の旧海軍関係者を中心とする旧軍勢力に加担しているものだと気づくことにもなる、と予想しています。
そうした時に、真珠湾攻撃よりもコタバルの戦闘が先だったと強調しながら、それは関係者間で合意済みの「手筈」通りのことだったのだなどという暴論を掲載した書が、朝日新聞出版社というそれなりに知名度と社会的評価のある社から出版されたのは、驚きの一語に尽きます。
世代交代が進み、戦争体験の継承の難しさが言われている今、知的事業を司る報道出版業界でこうした書が大手を振って巷に流通する事態に直面させられたのは、残念至極です。
学術的には論じる価値のない暴論、雑音の類ですが、朝日新聞出版の名に引き寄せられた読者が鵜呑みにするだけでなく、そのまま流布することが危惧されます。
朝日新聞出版には、最低限のこととして「手筈となっていた」との暴論の流布・拡散を食い止める措置の実行を求めます。
言論の自由は勿論尊重するけれども、虚偽が明白である暴論の流布は公序良俗を乱す反社会的行為に他ならないのですから。
ここまで、『太平洋戦争秘史』を入手してから、足掛け6日を費やしました。生産性の乏しい取り組みに徒労感は深まるばかりです。
以上 高嶋の私見です。 ご参考までに。
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