《治安維持法国賠同盟》月刊『不屈』4月号から
▲ 実体験を語る~「闘いの記録」三・二四【春を呼ぶ集い】で
私の思想的目覚めのきっかけになったのは、昭和四年師範二年生の時、同志社大学女子専門部英文科出身の英語の田畑ハル先生との出逢いであった。先生の最初の授業は野外運動場の木陰での授業でした。
この自由な雰囲気に忽ち私達の気持を夢中にし、宮田さんと二人で先生のご自宅を訪問し、先生の御主人の田畑忍先生も居られ(後に同志社大学の総長、憲法学者として高名になられた方)、皇室批判をされ、書棚には堺利彦の「社会主義の発展」等あった。初めて聞く皇室批判には一寸驚いたが道理にかなった話として新鮮な気持ちで聞いた。後に近所の日本キリスト教会で牧師の天皇制批判も聞く。
師範五年生当時、富山高等学校(七年制)で共産青年同盟の運動があり、女子師範生を目標に働きかけ同盟員になった宮田、永井の二人が逮捕を逃れるため家出を強行し、家出の際に持ち出した貯金通帳を家に返す様頼まれ届けました。それがきっかけに校長から強く詰問を受け、面子をどうしてくれるとまで怒られ、逃げた二人が昭和八年一月戻ってきて逮捕され、私も逮捕され一週間で帰されて昭和八年一月退学処分を受た。
四名退学、一名停学処分、私は、昭和八年八月労農救援会の無産者託児所で働く。昭和八年十月無産者託児所が弾圧され潰される。
昭和十二年八月証人調べがあり、検事局の呼び出しを受け「三十二年テーゼ」を韮澤慶子さんから受け取ったことでの呼び出しをうけ、証言を拒否し検事を怒らせ、渋谷署に二十九日間拘留される。
昭和十九年上旬、突然警察に襲われる。夫水谷信雄、妹、私の三人が逮捕されたが、姉がいるから母の事は姉に任されると思っていた所、その姉が逮捕のきっかけとなる。
港区高輪の友の家に間借りしていた姉が、打ち続く戦争を呪いこの戦争の大もとの天皇を呪い天皇を殺してもあき足りないと近所の親しい人に喋り、その友人が高輪署に伝えて姉が最初につかまり、すぐ巣鴨拘置所に、次に栃木の女子刑務所に懲役刑で送られ、敗戦により帰宅する。
私も昭和十九年十月、巣鴨拘置所に送られる。八十四番という名称で実名は使えない。
被告は青い着物で寝具も青一色です。北向きの二畳間に小さな洗面、トイレの個室。部屋を房と呼び房から廊下に出るのは週一回か五日に一回だったかのお風呂行、毎日か隔日かの運動場に行くときだけ。風呂は五分間位、湯槽に体を浸す事は許されず湯の温度を高くして入れないようにしてあり、手拭を湯に浸しさっと拭うだけ、次から次へと追われてお風呂を出た。それでもこの運動で足の老化を防いだ。
編み傘をかぶり、人に見られない様な注意が払われ、歩くにも草履で音を立てない様に。看守も草履で音をたてないので、何時も房の高窓から監視されているようです。
昭和二十年にはいると絶えず空襲にさらされ、三月には裁判所が焼けて夫の裁判記録が消失した。
八月十五日、その日は朝からジリジリと灼ける様に暑く異様な雰囲気が漂っていた。拘置所も心なしか落付かず人の足音も多かった様です。そのうちに廊下で教戒師の声がして戦争が終わった事を告げ、日本が受諾した「ポツダム宣言」を読み始めた。宗教、政治、言論、結社の自由と云う文言が聞こえてきた。私は思わず心の中で「万歳」と叫びこれで自由になれる、また長く続いた十五年戦争も終え待ち望んだ平和が蘇った事を心から祝福し感激に浸りました。
思えば長く苦しい日々の事が走馬灯の様に胸をよぎりました。侵略戦争でどれ程多くの人々が戦場の露と消えた事か。戦争に反対し行動までに至らず心の中に良心を持ち続けただけで捕まえられ、敗戦を待たずに獄舎で無念の死を遂げた人も多くありました。
さて、私共思想犯に対する拘置所の職員達も低姿勢に変わった。たまに逢う教戒師のお説教も聞かなくて済んだ。偉そうな部長も副部長も私共に言う事はなくなった。
GHQの命令で治安維持法撤廃が指示されたのは、十月四日であったと思います。そして私共思想犯は十月十日に一斉に釈放されたと思います。
敗戦の八月十五日から釈放までの約二ヶ月、獄舎で無為の日を送りましたが、被告でもない人間として精神的には極めて痛快な日々を送った。
いよいよ釈放の日が来た。朝から手続きに追われ、領置された書類箱や衣類などまとめて持てるものは持ち、拘置所を後にしたのは夕方の事でした。妹と二人で帰りました。
十九年三月に捕まって以来の邂逅でした。目標が消失し苦労して拘置所から巣鴨駅まで辺り一面焼野原を辿り着き、電車を乗り継ぎ乍ら久ヶ原の家に正に帰還したのです。
久ヶ原も高射砲陣地がありそれを狙われてか屡々焼夷弾投下に見舞われ、辺り一面焼野ヶ原の中、商店街の一部とたまたま我が家のある一角が焼け残っていた。天もまた母はじめ私共を助けてくれたとしか云い様もありません。小さな庭に防空壕があり、家の前の通りにも防空壕があり、みんな母が掘ったものです。
苦労した母の喜びも云い様がありませんでした。
治安維持法国賠同盟都本部 月刊『不屈』NO.454(2012/4/15)付録〔東京版〕
http://www7.plala.or.jp/tian/
▲ 実体験を語る~「闘いの記録」三・二四【春を呼ぶ集い】で
犠牲者 水谷安子(99歳)
私の思想的目覚めのきっかけになったのは、昭和四年師範二年生の時、同志社大学女子専門部英文科出身の英語の田畑ハル先生との出逢いであった。先生の最初の授業は野外運動場の木陰での授業でした。
この自由な雰囲気に忽ち私達の気持を夢中にし、宮田さんと二人で先生のご自宅を訪問し、先生の御主人の田畑忍先生も居られ(後に同志社大学の総長、憲法学者として高名になられた方)、皇室批判をされ、書棚には堺利彦の「社会主義の発展」等あった。初めて聞く皇室批判には一寸驚いたが道理にかなった話として新鮮な気持ちで聞いた。後に近所の日本キリスト教会で牧師の天皇制批判も聞く。
師範五年生当時、富山高等学校(七年制)で共産青年同盟の運動があり、女子師範生を目標に働きかけ同盟員になった宮田、永井の二人が逮捕を逃れるため家出を強行し、家出の際に持ち出した貯金通帳を家に返す様頼まれ届けました。それがきっかけに校長から強く詰問を受け、面子をどうしてくれるとまで怒られ、逃げた二人が昭和八年一月戻ってきて逮捕され、私も逮捕され一週間で帰されて昭和八年一月退学処分を受た。
四名退学、一名停学処分、私は、昭和八年八月労農救援会の無産者託児所で働く。昭和八年十月無産者託児所が弾圧され潰される。
昭和十二年八月証人調べがあり、検事局の呼び出しを受け「三十二年テーゼ」を韮澤慶子さんから受け取ったことでの呼び出しをうけ、証言を拒否し検事を怒らせ、渋谷署に二十九日間拘留される。
昭和十九年上旬、突然警察に襲われる。夫水谷信雄、妹、私の三人が逮捕されたが、姉がいるから母の事は姉に任されると思っていた所、その姉が逮捕のきっかけとなる。
港区高輪の友の家に間借りしていた姉が、打ち続く戦争を呪いこの戦争の大もとの天皇を呪い天皇を殺してもあき足りないと近所の親しい人に喋り、その友人が高輪署に伝えて姉が最初につかまり、すぐ巣鴨拘置所に、次に栃木の女子刑務所に懲役刑で送られ、敗戦により帰宅する。
私も昭和十九年十月、巣鴨拘置所に送られる。八十四番という名称で実名は使えない。
被告は青い着物で寝具も青一色です。北向きの二畳間に小さな洗面、トイレの個室。部屋を房と呼び房から廊下に出るのは週一回か五日に一回だったかのお風呂行、毎日か隔日かの運動場に行くときだけ。風呂は五分間位、湯槽に体を浸す事は許されず湯の温度を高くして入れないようにしてあり、手拭を湯に浸しさっと拭うだけ、次から次へと追われてお風呂を出た。それでもこの運動で足の老化を防いだ。
編み傘をかぶり、人に見られない様な注意が払われ、歩くにも草履で音を立てない様に。看守も草履で音をたてないので、何時も房の高窓から監視されているようです。
昭和二十年にはいると絶えず空襲にさらされ、三月には裁判所が焼けて夫の裁判記録が消失した。
八月十五日、その日は朝からジリジリと灼ける様に暑く異様な雰囲気が漂っていた。拘置所も心なしか落付かず人の足音も多かった様です。そのうちに廊下で教戒師の声がして戦争が終わった事を告げ、日本が受諾した「ポツダム宣言」を読み始めた。宗教、政治、言論、結社の自由と云う文言が聞こえてきた。私は思わず心の中で「万歳」と叫びこれで自由になれる、また長く続いた十五年戦争も終え待ち望んだ平和が蘇った事を心から祝福し感激に浸りました。
思えば長く苦しい日々の事が走馬灯の様に胸をよぎりました。侵略戦争でどれ程多くの人々が戦場の露と消えた事か。戦争に反対し行動までに至らず心の中に良心を持ち続けただけで捕まえられ、敗戦を待たずに獄舎で無念の死を遂げた人も多くありました。
さて、私共思想犯に対する拘置所の職員達も低姿勢に変わった。たまに逢う教戒師のお説教も聞かなくて済んだ。偉そうな部長も副部長も私共に言う事はなくなった。
GHQの命令で治安維持法撤廃が指示されたのは、十月四日であったと思います。そして私共思想犯は十月十日に一斉に釈放されたと思います。
敗戦の八月十五日から釈放までの約二ヶ月、獄舎で無為の日を送りましたが、被告でもない人間として精神的には極めて痛快な日々を送った。
いよいよ釈放の日が来た。朝から手続きに追われ、領置された書類箱や衣類などまとめて持てるものは持ち、拘置所を後にしたのは夕方の事でした。妹と二人で帰りました。
十九年三月に捕まって以来の邂逅でした。目標が消失し苦労して拘置所から巣鴨駅まで辺り一面焼野原を辿り着き、電車を乗り継ぎ乍ら久ヶ原の家に正に帰還したのです。
久ヶ原も高射砲陣地がありそれを狙われてか屡々焼夷弾投下に見舞われ、辺り一面焼野ヶ原の中、商店街の一部とたまたま我が家のある一角が焼け残っていた。天もまた母はじめ私共を助けてくれたとしか云い様もありません。小さな庭に防空壕があり、家の前の通りにも防空壕があり、みんな母が掘ったものです。
苦労した母の喜びも云い様がありませんでした。
治安維持法国賠同盟都本部 月刊『不屈』NO.454(2012/4/15)付録〔東京版〕
http://www7.plala.or.jp/tian/
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