2016年5月10日 最高裁判所第三小法廷 御中
今、日本の教育は世界から注目されているという報道を多く目にします。
学校では読み、書き、そろばんなどの知育教育だけでなく、自分たちの教室を自分たちできれいにする掃除を通じた生活教育や、生徒全員が一丸となって取り組み、チームワークや達成感を学ぶ運動会や文化祭などの行事を通じた体験教育が世界の称賛を浴びています。
給食は発達段階に応じて栄養の計算された美味しい食事が提供されます。またあまり指摘されていませんが、どんな山奥の学校にもプールがあり、小学校低学年から水泳教育が実施され、水難事故から子供たちの命を守っている事実は誇ってよいと思います。
このような日本で、隔てなく優れた義務教育を受けられることは幸せだと保護者として感謝の念を抱いてきました。
しかしながら近年、世界に誇れないこと、むしろ恥ずかしいことが起きてきました。
2003年以降の国旗・国歌の強制です。翌年春から都立学校の卒業式・入学式の雰囲気は変わりました。
それまでの各学校の創意を活かした、子供の成長を祝うあたたかい行事から、式次第が事細かく決められ硬直化した儀式のための儀式と変わりました。
以前は国歌斉唱時には「内心の自由」のアナウンスも認められていました。また先生方への強制もありませんでした。
国歌斉唱にはどのような教育的意味があるのでしょうか。
この式が最大級の公的儀式であるという重みづけと、国旗・国歌への忠誠心を涵養するということでしょうか。
しかし「君が代」に対しては、その歴史的経過から複雑な思いを抱く人々も多いのです。
戦争の時代に「君が代」が果たした意味を忘れえない教員や、宗教上の理由から起立できない教員にはそれなりの正当な理由があります。
そのような不起立の教員に対して、「職務だから」と起立・斉唱を迫り、従わない場合には処罰するというのはあまりにも強権的で、教育の場にふさわしくありません。
学校は上からの指揮命令系統を貫徹させる軍隊ではないのです。
命に関わることでない限り「上からの有無を言わさぬ命令」が「思想・信条の自由」「表現の自由」などの基本的人権を侵すことは許されないのです。
教員への強制にとどまらず、2006年3月の通達をきっかけに卒業式の司会を担当する教員の進行台本に「生徒が起立するまで起立を促すこと」という指示が書かれるようになりました。
これは日本が批准した「子どもの権利条約」にあきらかに違反します。
またある都立高校では生徒が歌わないと先生が罰せられるというような事態も聞いています。これは教員と生徒への強制以外の何者でもありません。
公的な儀式の場で学校が基本的人権を認めず、根拠ある理由で起立しない少数の教員に対し、制裁を繰り返し、最高裁で処分が厳しすぎると断定されてもなおしつように減給処分を科し続ける都教委はまことに異常で、都民として心が痛み、国際社会にも恥ずかしく思います。
どうぞ憲法に照らして、行き過ぎた違法な処分を撤回し、先生にとっても生徒にとっても、思想・信条の自由、表現の自由が保障されるまっとうな学校をとり戻すとともに、日本が基本的人権を尊重する社会であることを内外に示すことのできる判決をお願い申し上げます。
以上
(了)
◎ 要 請 書
M.K.
今、日本の教育は世界から注目されているという報道を多く目にします。
学校では読み、書き、そろばんなどの知育教育だけでなく、自分たちの教室を自分たちできれいにする掃除を通じた生活教育や、生徒全員が一丸となって取り組み、チームワークや達成感を学ぶ運動会や文化祭などの行事を通じた体験教育が世界の称賛を浴びています。
給食は発達段階に応じて栄養の計算された美味しい食事が提供されます。またあまり指摘されていませんが、どんな山奥の学校にもプールがあり、小学校低学年から水泳教育が実施され、水難事故から子供たちの命を守っている事実は誇ってよいと思います。
このような日本で、隔てなく優れた義務教育を受けられることは幸せだと保護者として感謝の念を抱いてきました。
しかしながら近年、世界に誇れないこと、むしろ恥ずかしいことが起きてきました。
2003年以降の国旗・国歌の強制です。翌年春から都立学校の卒業式・入学式の雰囲気は変わりました。
それまでの各学校の創意を活かした、子供の成長を祝うあたたかい行事から、式次第が事細かく決められ硬直化した儀式のための儀式と変わりました。
以前は国歌斉唱時には「内心の自由」のアナウンスも認められていました。また先生方への強制もありませんでした。
国歌斉唱にはどのような教育的意味があるのでしょうか。
この式が最大級の公的儀式であるという重みづけと、国旗・国歌への忠誠心を涵養するということでしょうか。
しかし「君が代」に対しては、その歴史的経過から複雑な思いを抱く人々も多いのです。
戦争の時代に「君が代」が果たした意味を忘れえない教員や、宗教上の理由から起立できない教員にはそれなりの正当な理由があります。
そのような不起立の教員に対して、「職務だから」と起立・斉唱を迫り、従わない場合には処罰するというのはあまりにも強権的で、教育の場にふさわしくありません。
学校は上からの指揮命令系統を貫徹させる軍隊ではないのです。
命に関わることでない限り「上からの有無を言わさぬ命令」が「思想・信条の自由」「表現の自由」などの基本的人権を侵すことは許されないのです。
教員への強制にとどまらず、2006年3月の通達をきっかけに卒業式の司会を担当する教員の進行台本に「生徒が起立するまで起立を促すこと」という指示が書かれるようになりました。
これは日本が批准した「子どもの権利条約」にあきらかに違反します。
またある都立高校では生徒が歌わないと先生が罰せられるというような事態も聞いています。これは教員と生徒への強制以外の何者でもありません。
公的な儀式の場で学校が基本的人権を認めず、根拠ある理由で起立しない少数の教員に対し、制裁を繰り返し、最高裁で処分が厳しすぎると断定されてもなおしつように減給処分を科し続ける都教委はまことに異常で、都民として心が痛み、国際社会にも恥ずかしく思います。
どうぞ憲法に照らして、行き過ぎた違法な処分を撤回し、先生にとっても生徒にとっても、思想・信条の自由、表現の自由が保障されるまっとうな学校をとり戻すとともに、日本が基本的人権を尊重する社会であることを内外に示すことのできる判決をお願い申し上げます。
以上
(了)
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