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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

東京「君が代」裁判・第5次訴訟の憲法論の骨格

2021年08月24日 | 日の丸・君が代関連ニュース
 ◆ 5度目の正直で、違憲判決を勝ち取ろう (『リベルテ』から)
弁護団 澤藤統一郎


朝日新聞憲法調査(2021年5月3日)

 ◆ 第5次訴訟第1回法廷

 7月29日、東京「君が代」裁判・第5次訴訟の第1回口頭弁論が開かれた。係属部は東京地裁民事第36部、かつて予防訴訟1審において、400名余の原告に完全勝訴の判決を言い渡した難波孝一裁判長の所属部である。
 コロナ禍の中での法廷であったが、凛とした原告団の気迫がみなぎる法廷となった。原告団が作成した当日配布の「傍聴ハンドブック」の表紙に、「5度目の正直で、違憲判決を勝ち取ろうね」とあった。弁護団もまったく同じ思いである。
 第1次訴訟控訴審における大橋判決の如く、落とし所としての懲戒権の逸脱濫用としての違法を認定しての全処分取消しであってもよいが、目指すところは違憲判断なのだ。
 あらためて、5次訴訟の憲法論の骨格を述べておきたい。

 ◆ 私たちの憲法論

 国旗・国歌とは、国家の象徴と意味付けられた旗と歌である。国旗・国歌は、原告らの前には、国家として立ち現れる。
 国旗・国歌への敬意表明の強制は、国家への敬意表明の強制にほかならない。法的には、敬意表明を強制される個人と、敬意の対象である国家とを対峙させて、その憲法価値の優劣を比較する場の設定とならざるを得ない。
 「国旗に向かって起立し、国歌を斉唱せよ」との強制が可能とする論理には、国家の存立という価値をもって、個人の尊厳に優越するものとの原理的前提がある。
 もちろん、こんな憲法論が成り立つ余地はない。個人の尊厳こそが至高の憲法価値である。
 国家は、個人の尊厳を擁護する手段としての存在に過ぎず、個人の尊厳を傷付けることは主権者から委託された権限を逸脱する行為にほかならない。
 したがって、国家が国民に、国旗・国歌への敬意表明を強制することは、そもそも国家のなし得る権限を逸脱することとしていかなる法的効果も持ち得ない。
 訴状では、このことを「客観違憲」「違憲論の客観的アプローチ」と呼んでいる。
 また、国旗・国歌とされている「日の丸・君が代」は、天皇主権の旧体制時代の象徴である。原告らに対する「日の丸・君が代」への敬意表明の強制に服することは、戦前の軍国主義、侵略主義、専制支配、人権否定、思想統制、宗教弾圧への、容認や妥協を求める側面を否定し得ない。
 「日の丸・君が代」は、原告らの前には、日本国憲法が否定した反価値として立ち現れる。原告らはいずれも、日本国憲法の理念をこよなく大切と考える信念に照らして、日の丸・君が代への敬意表明の強制には従うことができない。
 「日の丸・君が代」に敬意を表明することはできないという、原告らの思想・良心・信仰にもとつく信念と、その信念の発露である不起立・不斉唱の行為とは真摯性を介して分かちがたく結びついており、公権力による起立・斉唱の強制も、その強制手段としての懲戒権の行使も原告らの思想・良心・信仰を鞭打ち、個人の尊厳を毀損するものである。
 したがって、国家が国民に、「日の丸・君が代」ぺの敬意表明を強制することは、原告らの思想・良心・信仰の自由という人権を侵害する行為として、違憲・違法な公権力の行使として許されない。
 訴状では、このことを「主観違憲論」「違憲の主観的アプローチ」と呼んでいる。
 この違憲論における客観的アプローチも主観的アプローチも、人権(ないし個人の尊厳)と国家との対峙における価値優劣を直接に問う、憲法の根幹に関わる問題である。これまで、最高裁が正面からこれに向き合ってこなかったことを残念に思い、今度こそ、「5度目の正直」を実現したい。
 ◆ 何がグローバルスタンダードか

 この点について裁判所に理解を求めるために、なにがグローバルスタンダードであるかを語りかけたい。
 日本国憲法は、人権思想や立憲主義という普遍的な人類の叡智の結晶である。
 日本国憲法の理解においては、国家と個人の関係という普遍性をもったテーマについてのグローバルスタンダードに準拠すべきが当然である。
 まずは、国旗や国歌に関する「反グローバル」な姿勢が分かり易い。

 権威主義国家としての中国が反面教師であり、その極端な国家主義の矛盾が香港に鋭く現れている。
 7月30日、香港で中国の国歌を侮辱したとして逮捕者が出た。中国は2017年に国歌法を制定し、香港でも昨年「国歌条例」として施行された。このたびの逮捕は、同条例適用第1号だという。
 7月26日、東京オリンピックで香港に25年ぶりで金メダルをもたらしたフェンシング選手の表彰式があり、中国国歌が流れた。香港のシヨッピングモールで生中継の映像を見ていた群衆が、中国国歌を掻き消すように、「私たちは香港だ」と抗議の声を上げたという。
 逮捕されたのは、これを煽動したという男性。国歌条例は立法会の議員宣誓などの際に国歌斉唱を義務付け、替え歌を歌うなどの侮辱行為を禁止する。違反すると最長で3年の禁銅刑。
 国歌への敬意を、刑事罰の発動までして強制しようといういびつな国家の姿勢なのだ。
 グローバルスタンダードは、ILOとユネスコ合同委員会(セアート)の日本政府に対する勧告の中に見て取ることができる。
 (a) 愛国的な式典に関する規則に関して教員団体と対話する機会を設ける。その目的はそのような式典に関する教員の義務について合意することであり、規則は国旗掲揚や国歌斉唱に参加したくない教員にも対応できるものとする。
 (b) 消極的で混乱をもたらさない不服従の行為に対する懲罰を避ける目的で、懲戒のしくみについて教員団体と対話する機会を設ける。
 つまりは、教員の「消極的で混乱をもたらさない不服従」に対しては、懲罰を避けることが、成熟した文明社会のスタンダードなのだ。
 ◆ 「意外な」世論調査の結果

 国内世論の動向も、有利に援用できる可能性がある。
 人権が多数決によって貶められることはありえない。しかし、世論の多数が「日の丸・君が代」強制による人権侵害に反対であれば、司法が人権を擁護する判断に躊躇する理由はない。
 今年5月憲法記念日にちなんで、朝日新聞が興味ある世論調査を行った。最高裁判例に納得できるか否かを問うものである。言わば、最高裁判決に対する世論の側からの通信簿の作成。「最高裁はこれでいいのか」を主権者国民に問いかけている。
 国民からの厳しい批判あつてこそ、最高裁も姿勢を正す。判例も進歩する。最高裁を批判禁制の聖域にしてはならない。
 朝日新聞社の全国世論調査は、憲法を巡って最高裁判所で議論された5テーマについて、最高裁の結論を納得できるか否か4択で聞いている。その内の一つに、「公立校の式典で起立して君が代を歌わなかった教師を教育委員会が処分してよい」の是非を問う設問がある。
 回答は上の表とおり。
 納得できる・ある程度納得できるが計31%、あまり、納得できない・まったく納得できないが計65%となり、最高裁の判断に与するもの31%、批判する者65%という世論の分布。
 この結果、私にとってやや意外であった。
 私は、「納得できる派」がもっと多いという印象をもっていた。「公務員である以上は、不服でも職務命令に従え」「日本人なら、日の丸・君が代に敬意を表明するのが当然」「大人の常識を弁えよ」等々の俗論と対峙している内に、世の中の多数が都教委の方針支持のように誤解してしまったのだ。
 しかし、視点を変えれば、今や世は多様性の時代ではないか。自分が自分であるための根底にある思想の多様性の尊重も世の潮流となり、それが調査結果に表れているのではないか。
 人権を軽んじた最高裁の判決に対する世論の批判を、最高裁は真摯に、そして深刻に受けとめなければならない。
 本来、法律家や裁判官とは、一般人よりも鋭敏な人権感覚を有した者と想定されているはずではないか。裁判所には真っ当な人権感覚を取り戻していただきたい。
『東京・教育の自由裁判をすすめる会ニュース リベルテ 63号』(2021年8月4日)

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