同級生の3分の2は避難したまま戻っていない
▼ 原発災害で我慢を強いられる子どもたち
「全国各地 どこにいても
負けるな! がんばれ! 原1小 けやきっこ」
校庭のケヤキがシンボルの南相馬市立原町1小。震災前には615人だった児童は、津波や放射能の影響などで次々に全国各地に転校してしまった。現在、3分の1以下の児童189人が、市内の鹿島小学校を仮校舎として授業を行っている。授業が行われていない学校のフェンスには横断幕が掲げられ、全国に散った子どもたちを応援している。
収束しない原発事故。終わらない除染。
相次ぐ転校による児童数の減少や、遠方の仮校舎へ時間をかけたスクールバスでの登下校、すし詰めの蒸し暑い教室と遊泳中止のままのプール。
福島県内の子どもたちの教育環境が、ますます厳しさを増している。
現在の子どもたちの教育現場の実情を取材しようと、2学期の始業式を迎えた8月25日、同市の鹿島小学校を訪ねた。
もうすぐ震災から半年。子どもたちの現状はどうなっているだろうか。
通学路には早朝から、ランドセルを背負った子どもたちが父母らに連れられて、次々に姿を見せた。スクールバスで通ってくる子どもたちもいる。久しぶりに友達に会ったうれしさだろうか、子どもたちの表情も和らぎ、歓声が飛び交っている。
しかしこの日は、震災と原発事故の影響で、例年とはまるで違う状況で2学期最初の日を迎えることになった。
▼ 子どもの数が激減 学校の環境も激変
南相馬市の人口は震災以降、激減している。震災前約7万人だったのが、現在少しずつ市民が戻っているものの、3万9000人まで落ち込んでいる。児童、生徒数も激減し、事故震災前の児童数は小中学校で6021人(小学校4059人、中学校1962人、いずれも推計)と6000人を超えていたのが、震災直後から市外に転校する子どもが相次ぎ、半分以下の2350人(小学校1410人、中学校940人)まで減った。
1学期の間に地域の除染活動が行われたり、放射線量が下がってきたことなどを市がアナウンスしたことから、夏休みの間に小中学校合わせて239人の子どもたちが戻り、小学校で1542人、中学校で1047人の合計2589人。それでも震災前の半分にも満たない。
小中学校22校のうち、鹿島小、八沢小、上真野小の3小学校と鹿島中の合計4小中学校以外の学校は、警戒区域や緊急時避難準備区域内に校舎があるなどの理由から、ほかの学校の校舎を借りて授業をしている。自宅が遠い子どもは、スクールバスや父母の送り迎えなどで通学している。
鹿島小には、同校の児童とともに、原町1小、原町3小、小高小、原町1中の児童・生徒が学校生活を送っている。人数は原町1小が189人、原町3小176人、小高小70人、原町1中250人、これに鹿島小の児童238人で、合計923人。震災前は鹿島小児童305人で使っていた学校施設を、震災後はその3倍の児童・生徒で融通し合いながら使っている。
普段と違う始業式――。それは、時間制で学校ごとに順番を決めて、学校隣接の公共体育館を使って行われることから始まった。音楽の先生は、学校の校歌を書いた紙を教室から持参し、始業式の開始前に体育館の壁に張った。
▼ 「楽しみだった運動会ができず悔しい」
午前8時30分、鹿島小の始業式が行われた。4月から延期されていた教職員の異動が8月に行われたことから、本年度の異動教職員の着任式も同時に行われた。校長先生のあいさつのあと、児童の代表が夏休みの体験と2学期の目標を作文にして発表した。
県内の放射線の影響を避けて、夏休みだけでも県外で過ごしたという子どもが多かったようだ。
沖縄県での夏休みのサマーキャンプに参加した5年生の男子児童は、「沖縄県で、高校生や中学生と海で泳いだり、バイキングでグループ活動の大切さを学びました。沖縄県の海は透明で、福島県とは違ってきれいだなと思いました。浅いところで水色、深いところで青色でした。海の水は塩辛かったです。沖縄県で活動したことは勉強になりました。福島県の原発が収まったら、沖縄県の人にもぜひ来てほしいと思っています。2学期は友達と仲良くして、楽しい2学期が送れるように頑張りたいです」と目標を発表してくれた。
大震災の日に、1人で帰宅する途中、地震に遭った6年生の女子児童は「たくさんの人々にお世話になりながら学校が再開し、少しずつ日々の生活を取り戻してきました。学校が再開しても、楽しみにしていた運動会や春の遠足はできませんでしたが、ほかの小学校の人たちも同じ思いをしていると思い、悔しかったですが、我慢してきました」。震災直後から、子どもたちもさまざまな制約や我慢を強いられて日常生活を送ってきた様子が表れていた。
そして「うれしかったのは、毎日のように全国から様々な形で支援していただいたことです。日本中のみなさんにお礼を言いたいと思います」。「子どもの翼」というイベントで、学生ボランティアの協力で、山形で過ごした体験を紹介し、「放射能の影響がないところで、子どもたちを伸び伸びと過ごさせたいという支援者のみなさまからのプレゼントのおかげで、思い出深い夏休みになりました」と貴重な夏の思い出を発表した。
▼ 騒音の中の授業、報じられない「子どもたちの思い」
原町1小の始業式でも、子どもたちが夏休みの体験を発表した。
「夏休みに一番楽しかったのは、ディズニーランドでジェットコースターに乗ったこと。夢の国のようなところでした。でもいつもの夏休みとは違い、外で遊べなかったり、プールに入れなかったり、残念でした。2学期は漢字の練習を頑張りたいです。友達がたくさん戻ってきて、1日も早くみんなと校庭で遊びたいです」と男子児童。多くの友達と以前のような学校生活を送りたいという願いを語った。
別の男子児童も夏休みの体験を発表した。
「一番の思い出はマーチングの夏合宿に参加したことです。離れ離れになった仲間ととても楽しく充実した練習ができました。夕食の部屋で、離れていた友達と今の学校の様子を話し合ったり、悩みを話し合い、励まし合ったりしたのも、とても良い思い出になりました」。それぞれに悩みを抱えながらも、励まし合って過ごしている。
始業式の後、原町1小の6年生児童の教室を訪問した。
6年生は、震災前に4クラス、約130人の児童が在籍していたのが、現在は34人まで減少し、1クラスのみになってしまった。それでも2学期には6人が戻ってきて、クラスメートが少し増えた。
校庭では、数台の重機で表土を削る大規模な除染工事が急ピッチで進められている。室内まで騒音が響いているが、子どもたちは慣れているのか、あまり気を取られる様子はない。教室によっては窓が閉められていたが、開いているところも。
担任の先生が「けやきっこが6人増えた」と転入生について紹介すると、教室からは拍手も。続いて、2学期の連絡事項が次々に伝えられた。
5、6年生は週明けから、プレハブのユニット校舎に移動して、今よりは広いスペースで勉強ができるようになることや、1学期は、支援物資などによる学校給食だったのが、この日から、ようやく市内の学校の給食室を使った完全給食になったことなどが説明された。
さらに、県や市の事業で、一人ひとりが受けた放射線量が計測できる「ガラスバッジ」が配布されることになり、申込み期限や書類の申請などについての説明もあった。これは希望者に対しての配布で、「保護者の方と相談して明日までに希望者は申し込んでください。無料でもあるし、申し込んでおいた方がいいのでは」とアドバイスした。
先生の連絡事項は、いずれも、震災と原発事故に関するものばかりだ。
今、新聞やテレビでは、「放射性物質汚染がれきの中間貯蔵施設の県内建設」や、「放射能の高汚染地域への帰還は20年後以降」「除染活動で放射線量低減」などのニュースが次々に報道されている。しかし、生活レベルでの被害の実態や、今後、長期にわたってこの深刻な環境汚染と取り組まねばならない子どもたちの日常生活の声や様子、今の思いが報じられる機会は数少ない。フクシマの子どもたちはいったい、いつまで、どれだけ我慢すればいいのだろうか。
▼ 子どもは放射能の影響を受けやすい
こうした現状から、「なぜ子どもを避難させない」「なぜ避難できない」「なぜ福島県民はもっと戦わないのか」という問いが、読者から飛んでくるだろう。
チェルノブイリ原発事故当時、共産主義だったソ連は、地域住民には詳細な情報を知らせないまま、30キロメートル圏の住民を強制的に避難させた。
我が国ではどうだろうか。警戒区域など立ち入りが禁止された地域を除いて、避難する、しないは現在、個々の判断に任されている。個人の選択を尊重して、自主避難を積極的に受け入れようという自治体が増えてはいるものの、まだまだ政府や行政の支援は薄い。さらに国民が自己判断するのに十分な情報が速やかに公開されていないという、極めて重大な問題もある。
今回の原発事故のような、低線量被ばくには「しきい値」がなく、どこまでが安全か、危険かというのが明確に線引きができず、「将来の結果が明確に分からない」というのが現状だ。つまり、誰も今の段階で「安全です」「危険です」と断言も保証もできない。
だが、子どもは、放射能に対する感受性が大人よりも高い。強く安全側、予防原則の観点に立って、放射線の影響がないところで子どもを生活させるというのが理想的であり、全員の子どもたちにそうさせてあげたいと私個人は思う。
▼ 「安心して」言える国のリーダーがいない
しかし現実には、「(親の)仕事がある」「介護が必要な高齢者がいる」などの理由から、福島で生活せざるを得ない家庭があるのも現実だ。家族と離れて子どもだけで生活させていいものか、迷っている人も多い。「避難」や「放射能汚染」「被ばく」がよりリアルな出来事として目前にあるからこそ、決断できなかったり、様々な事情を考えて避難を選択しない人もいる。国や東電の補償問題の遅さや少なさは言うまでもないが…。
今回の原発事故の対応などを県当局にただしてきた県議の石原信市郎氏は、「県は、早い段階から子どもたちを放射線量の低い地域に学校ぐるみで疎開させ、安全と安心を確保するべきだった。そのほうが子どもの健康への影響も少なく、個別に県外に転校して分散するという現象も避けられた。県への信頼も高まったはずだ」と話す。
それも一案。「避難の権利」や「子どもの学校集団疎開」を訴える市民団体の要請活動も行われているものの、現時点で行政側の対応はなされていない。
民主党の代表選でも原発事故の収束が議論されたが、国民の声は届かず、現場を知らない議論しか行われていない。今、次世代を担うすべての子どもたちに向かって、子どもたちの安全を確保して、「放射能の影響など、何の心配もしないでいいから、安心して思いっきり勉強して運動して、遊んでいいよ」と言って実行できる政治家やリーダーがいないのが、我が国の実態なのだ。
原発震災、放射能汚染は、福島県の子どもたちの日常生活を大きく変化させ、否応なしに次世代の子どもたちを巻き込んだ。とにかく、原発事故の早期収束や徹底した再発防止策なしには、次世代の社会の展望はあり得ない。子ども自身が実感できる安全・安心。それも原発災害の復旧の大きなバロメータではないだろうか。
『日経ビジネスonline』(2011年8月31日)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20110829/222310/
▼ 原発災害で我慢を強いられる子どもたち
藍原 寛子(医療ジャーナリスト)
「全国各地 どこにいても
負けるな! がんばれ! 原1小 けやきっこ」
校庭のケヤキがシンボルの南相馬市立原町1小。震災前には615人だった児童は、津波や放射能の影響などで次々に全国各地に転校してしまった。現在、3分の1以下の児童189人が、市内の鹿島小学校を仮校舎として授業を行っている。授業が行われていない学校のフェンスには横断幕が掲げられ、全国に散った子どもたちを応援している。
収束しない原発事故。終わらない除染。
相次ぐ転校による児童数の減少や、遠方の仮校舎へ時間をかけたスクールバスでの登下校、すし詰めの蒸し暑い教室と遊泳中止のままのプール。
福島県内の子どもたちの教育環境が、ますます厳しさを増している。
現在の子どもたちの教育現場の実情を取材しようと、2学期の始業式を迎えた8月25日、同市の鹿島小学校を訪ねた。
もうすぐ震災から半年。子どもたちの現状はどうなっているだろうか。
通学路には早朝から、ランドセルを背負った子どもたちが父母らに連れられて、次々に姿を見せた。スクールバスで通ってくる子どもたちもいる。久しぶりに友達に会ったうれしさだろうか、子どもたちの表情も和らぎ、歓声が飛び交っている。
しかしこの日は、震災と原発事故の影響で、例年とはまるで違う状況で2学期最初の日を迎えることになった。
▼ 子どもの数が激減 学校の環境も激変
南相馬市の人口は震災以降、激減している。震災前約7万人だったのが、現在少しずつ市民が戻っているものの、3万9000人まで落ち込んでいる。児童、生徒数も激減し、事故震災前の児童数は小中学校で6021人(小学校4059人、中学校1962人、いずれも推計)と6000人を超えていたのが、震災直後から市外に転校する子どもが相次ぎ、半分以下の2350人(小学校1410人、中学校940人)まで減った。
1学期の間に地域の除染活動が行われたり、放射線量が下がってきたことなどを市がアナウンスしたことから、夏休みの間に小中学校合わせて239人の子どもたちが戻り、小学校で1542人、中学校で1047人の合計2589人。それでも震災前の半分にも満たない。
小中学校22校のうち、鹿島小、八沢小、上真野小の3小学校と鹿島中の合計4小中学校以外の学校は、警戒区域や緊急時避難準備区域内に校舎があるなどの理由から、ほかの学校の校舎を借りて授業をしている。自宅が遠い子どもは、スクールバスや父母の送り迎えなどで通学している。
鹿島小には、同校の児童とともに、原町1小、原町3小、小高小、原町1中の児童・生徒が学校生活を送っている。人数は原町1小が189人、原町3小176人、小高小70人、原町1中250人、これに鹿島小の児童238人で、合計923人。震災前は鹿島小児童305人で使っていた学校施設を、震災後はその3倍の児童・生徒で融通し合いながら使っている。
普段と違う始業式――。それは、時間制で学校ごとに順番を決めて、学校隣接の公共体育館を使って行われることから始まった。音楽の先生は、学校の校歌を書いた紙を教室から持参し、始業式の開始前に体育館の壁に張った。
▼ 「楽しみだった運動会ができず悔しい」
午前8時30分、鹿島小の始業式が行われた。4月から延期されていた教職員の異動が8月に行われたことから、本年度の異動教職員の着任式も同時に行われた。校長先生のあいさつのあと、児童の代表が夏休みの体験と2学期の目標を作文にして発表した。
県内の放射線の影響を避けて、夏休みだけでも県外で過ごしたという子どもが多かったようだ。
沖縄県での夏休みのサマーキャンプに参加した5年生の男子児童は、「沖縄県で、高校生や中学生と海で泳いだり、バイキングでグループ活動の大切さを学びました。沖縄県の海は透明で、福島県とは違ってきれいだなと思いました。浅いところで水色、深いところで青色でした。海の水は塩辛かったです。沖縄県で活動したことは勉強になりました。福島県の原発が収まったら、沖縄県の人にもぜひ来てほしいと思っています。2学期は友達と仲良くして、楽しい2学期が送れるように頑張りたいです」と目標を発表してくれた。
大震災の日に、1人で帰宅する途中、地震に遭った6年生の女子児童は「たくさんの人々にお世話になりながら学校が再開し、少しずつ日々の生活を取り戻してきました。学校が再開しても、楽しみにしていた運動会や春の遠足はできませんでしたが、ほかの小学校の人たちも同じ思いをしていると思い、悔しかったですが、我慢してきました」。震災直後から、子どもたちもさまざまな制約や我慢を強いられて日常生活を送ってきた様子が表れていた。
そして「うれしかったのは、毎日のように全国から様々な形で支援していただいたことです。日本中のみなさんにお礼を言いたいと思います」。「子どもの翼」というイベントで、学生ボランティアの協力で、山形で過ごした体験を紹介し、「放射能の影響がないところで、子どもたちを伸び伸びと過ごさせたいという支援者のみなさまからのプレゼントのおかげで、思い出深い夏休みになりました」と貴重な夏の思い出を発表した。
▼ 騒音の中の授業、報じられない「子どもたちの思い」
原町1小の始業式でも、子どもたちが夏休みの体験を発表した。
「夏休みに一番楽しかったのは、ディズニーランドでジェットコースターに乗ったこと。夢の国のようなところでした。でもいつもの夏休みとは違い、外で遊べなかったり、プールに入れなかったり、残念でした。2学期は漢字の練習を頑張りたいです。友達がたくさん戻ってきて、1日も早くみんなと校庭で遊びたいです」と男子児童。多くの友達と以前のような学校生活を送りたいという願いを語った。
別の男子児童も夏休みの体験を発表した。
「一番の思い出はマーチングの夏合宿に参加したことです。離れ離れになった仲間ととても楽しく充実した練習ができました。夕食の部屋で、離れていた友達と今の学校の様子を話し合ったり、悩みを話し合い、励まし合ったりしたのも、とても良い思い出になりました」。それぞれに悩みを抱えながらも、励まし合って過ごしている。
始業式の後、原町1小の6年生児童の教室を訪問した。
6年生は、震災前に4クラス、約130人の児童が在籍していたのが、現在は34人まで減少し、1クラスのみになってしまった。それでも2学期には6人が戻ってきて、クラスメートが少し増えた。
校庭では、数台の重機で表土を削る大規模な除染工事が急ピッチで進められている。室内まで騒音が響いているが、子どもたちは慣れているのか、あまり気を取られる様子はない。教室によっては窓が閉められていたが、開いているところも。
担任の先生が「けやきっこが6人増えた」と転入生について紹介すると、教室からは拍手も。続いて、2学期の連絡事項が次々に伝えられた。
5、6年生は週明けから、プレハブのユニット校舎に移動して、今よりは広いスペースで勉強ができるようになることや、1学期は、支援物資などによる学校給食だったのが、この日から、ようやく市内の学校の給食室を使った完全給食になったことなどが説明された。
さらに、県や市の事業で、一人ひとりが受けた放射線量が計測できる「ガラスバッジ」が配布されることになり、申込み期限や書類の申請などについての説明もあった。これは希望者に対しての配布で、「保護者の方と相談して明日までに希望者は申し込んでください。無料でもあるし、申し込んでおいた方がいいのでは」とアドバイスした。
先生の連絡事項は、いずれも、震災と原発事故に関するものばかりだ。
今、新聞やテレビでは、「放射性物質汚染がれきの中間貯蔵施設の県内建設」や、「放射能の高汚染地域への帰還は20年後以降」「除染活動で放射線量低減」などのニュースが次々に報道されている。しかし、生活レベルでの被害の実態や、今後、長期にわたってこの深刻な環境汚染と取り組まねばならない子どもたちの日常生活の声や様子、今の思いが報じられる機会は数少ない。フクシマの子どもたちはいったい、いつまで、どれだけ我慢すればいいのだろうか。
▼ 子どもは放射能の影響を受けやすい
こうした現状から、「なぜ子どもを避難させない」「なぜ避難できない」「なぜ福島県民はもっと戦わないのか」という問いが、読者から飛んでくるだろう。
チェルノブイリ原発事故当時、共産主義だったソ連は、地域住民には詳細な情報を知らせないまま、30キロメートル圏の住民を強制的に避難させた。
我が国ではどうだろうか。警戒区域など立ち入りが禁止された地域を除いて、避難する、しないは現在、個々の判断に任されている。個人の選択を尊重して、自主避難を積極的に受け入れようという自治体が増えてはいるものの、まだまだ政府や行政の支援は薄い。さらに国民が自己判断するのに十分な情報が速やかに公開されていないという、極めて重大な問題もある。
今回の原発事故のような、低線量被ばくには「しきい値」がなく、どこまでが安全か、危険かというのが明確に線引きができず、「将来の結果が明確に分からない」というのが現状だ。つまり、誰も今の段階で「安全です」「危険です」と断言も保証もできない。
だが、子どもは、放射能に対する感受性が大人よりも高い。強く安全側、予防原則の観点に立って、放射線の影響がないところで子どもを生活させるというのが理想的であり、全員の子どもたちにそうさせてあげたいと私個人は思う。
▼ 「安心して」言える国のリーダーがいない
しかし現実には、「(親の)仕事がある」「介護が必要な高齢者がいる」などの理由から、福島で生活せざるを得ない家庭があるのも現実だ。家族と離れて子どもだけで生活させていいものか、迷っている人も多い。「避難」や「放射能汚染」「被ばく」がよりリアルな出来事として目前にあるからこそ、決断できなかったり、様々な事情を考えて避難を選択しない人もいる。国や東電の補償問題の遅さや少なさは言うまでもないが…。
今回の原発事故の対応などを県当局にただしてきた県議の石原信市郎氏は、「県は、早い段階から子どもたちを放射線量の低い地域に学校ぐるみで疎開させ、安全と安心を確保するべきだった。そのほうが子どもの健康への影響も少なく、個別に県外に転校して分散するという現象も避けられた。県への信頼も高まったはずだ」と話す。
それも一案。「避難の権利」や「子どもの学校集団疎開」を訴える市民団体の要請活動も行われているものの、現時点で行政側の対応はなされていない。
民主党の代表選でも原発事故の収束が議論されたが、国民の声は届かず、現場を知らない議論しか行われていない。今、次世代を担うすべての子どもたちに向かって、子どもたちの安全を確保して、「放射能の影響など、何の心配もしないでいいから、安心して思いっきり勉強して運動して、遊んでいいよ」と言って実行できる政治家やリーダーがいないのが、我が国の実態なのだ。
原発震災、放射能汚染は、福島県の子どもたちの日常生活を大きく変化させ、否応なしに次世代の子どもたちを巻き込んだ。とにかく、原発事故の早期収束や徹底した再発防止策なしには、次世代の社会の展望はあり得ない。子ども自身が実感できる安全・安心。それも原発災害の復旧の大きなバロメータではないだろうか。
『日経ビジネスonline』(2011年8月31日)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20110829/222310/
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