▼ 福島の子どもたちを我々は守ることができるのか
~ 学童疎開
(略)
避難したくても避難出来ないという中に、政府が安全だと言い張るために、社会的に突破できない人がいるという現実がメールからもはっきりわかります。一定程度危険が有るので、子どもたちを逃がしたほうがよいというのなら、まだ理解はできますが、現在の状態では、相当な突破力がないと、逃げる選択肢をとれない現実があるのだろうとも思います。それでも大人なら個人判断で済みますが、子どもはそうはいきません。数年後に甲状腺がんが子どもに多発した場合、政府は責任を負えるのかということです。負えないのなら、子どもを現地で留めることにしようとする意図がわかりません。というかどこまで思考停止すれば、今の政府も官僚も気が済むのでしょうか。子どもの命を、健康を守ることよりも、政府が優先させるべき事柄は、ほとんどないと思います。全体を動かすことが難しい中で、取れる選択肢を取るというのが、普通の思考スタイルと僕は思います。
そうした場合、戦前にあった話ですが、「学童疎開」ということさえ、確かに現実味を帯びてくる選択肢であると思います。社会全体を大きく動かす判断ができないのなら、せめて学童だけでも地域を動かすことで、被害を最小限に食い止められるのではというのは、普通の感覚と思います。
今回、大本営というワードをこのブログで何回か使った気がしますが、それでもまだ戦前は、子どもの命を守るために、都市部から田舎へ学童疎開させました。よく考えるとまだ現実の危機を認識していたのかも知れません(目に見える空襲と目に見えない放射能の違いはあれ)。戦争と言う時代の中では、隠蔽もありましたが、シビアな状況は認識していましたし、最低限の措置は講じていました。
今の問題は、そこさえできているのかどうかと言うことです。目を瞑れば、何事もなく過ぎていくのなら、僕も目を瞑りたいのですが、きょうのいろんな情勢を見ていてもそんな感じはまるでしないです。この状態の中で、福島の子どもたちを放置しておくことは、政府のみならず、僕ら一人一人の判断ミスが原因であるとも言えるのです。このことは大きな話です。
僕は先週、国立大学の核物理関係のある教授から、福島県内の学校の土壌の放射能調査について、いくつかの懸念を伺いました。とにかく、色々とはじめてみたそうなのですが、バックグラウンドの放射線量が高すぎて、校庭の土壌の正確な数値が現場で測れなくて、一端採集した土壌を持ち帰って測りなおそうとしていると言うことです。
彼は、相当危機感を抱いていて、特に梅雨時になる前の、ここ数週間のうちに、校庭の土にある放射性物質を測って正確な状態を専門家として認識しておきたいと言うことです。この分野の、関西や中部の専門家集団は相当な危機感と緊迫感でこの作業を継続しているとも聞きました。彼らは科学者として、状況を正確につかんでおかないと大変にまずいという認識で行動されています。
元来、核物理実験の系統の人々は、基礎研究に取り組んできていて,原子炉や原子力とはこれまで疎遠であったということは常識です。研究の中核的なところでは、関連性はあるが、現実に全く原発に関係していない専門家でさえ、この状況に関わっていかないとどうにもならないという認識であるということです。
梅雨になると日常的に雨が降り、現在の状態に大きな変化がなくても、福島県内の被曝量や内部被曝の危険性は高まるだけだと僕は思います。専門家の皆さんも、その前に何とかデータをはっきりさせて、必要な対応策を取らせたいと念願されているのだろうと思います。
(以下略)
『ジャーナリスト 木下黄太のブログ 「福島第一原発を考えます」』(2011-04-19)
http://blog.goo.ne.jp/nagaikenji20070927/e/bd3bedc94652e782ac085e41d6dba789
~ 学童疎開
(略)
避難したくても避難出来ないという中に、政府が安全だと言い張るために、社会的に突破できない人がいるという現実がメールからもはっきりわかります。一定程度危険が有るので、子どもたちを逃がしたほうがよいというのなら、まだ理解はできますが、現在の状態では、相当な突破力がないと、逃げる選択肢をとれない現実があるのだろうとも思います。それでも大人なら個人判断で済みますが、子どもはそうはいきません。数年後に甲状腺がんが子どもに多発した場合、政府は責任を負えるのかということです。負えないのなら、子どもを現地で留めることにしようとする意図がわかりません。というかどこまで思考停止すれば、今の政府も官僚も気が済むのでしょうか。子どもの命を、健康を守ることよりも、政府が優先させるべき事柄は、ほとんどないと思います。全体を動かすことが難しい中で、取れる選択肢を取るというのが、普通の思考スタイルと僕は思います。
そうした場合、戦前にあった話ですが、「学童疎開」ということさえ、確かに現実味を帯びてくる選択肢であると思います。社会全体を大きく動かす判断ができないのなら、せめて学童だけでも地域を動かすことで、被害を最小限に食い止められるのではというのは、普通の感覚と思います。
今回、大本営というワードをこのブログで何回か使った気がしますが、それでもまだ戦前は、子どもの命を守るために、都市部から田舎へ学童疎開させました。よく考えるとまだ現実の危機を認識していたのかも知れません(目に見える空襲と目に見えない放射能の違いはあれ)。戦争と言う時代の中では、隠蔽もありましたが、シビアな状況は認識していましたし、最低限の措置は講じていました。
今の問題は、そこさえできているのかどうかと言うことです。目を瞑れば、何事もなく過ぎていくのなら、僕も目を瞑りたいのですが、きょうのいろんな情勢を見ていてもそんな感じはまるでしないです。この状態の中で、福島の子どもたちを放置しておくことは、政府のみならず、僕ら一人一人の判断ミスが原因であるとも言えるのです。このことは大きな話です。
僕は先週、国立大学の核物理関係のある教授から、福島県内の学校の土壌の放射能調査について、いくつかの懸念を伺いました。とにかく、色々とはじめてみたそうなのですが、バックグラウンドの放射線量が高すぎて、校庭の土壌の正確な数値が現場で測れなくて、一端採集した土壌を持ち帰って測りなおそうとしていると言うことです。
彼は、相当危機感を抱いていて、特に梅雨時になる前の、ここ数週間のうちに、校庭の土にある放射性物質を測って正確な状態を専門家として認識しておきたいと言うことです。この分野の、関西や中部の専門家集団は相当な危機感と緊迫感でこの作業を継続しているとも聞きました。彼らは科学者として、状況を正確につかんでおかないと大変にまずいという認識で行動されています。
元来、核物理実験の系統の人々は、基礎研究に取り組んできていて,原子炉や原子力とはこれまで疎遠であったということは常識です。研究の中核的なところでは、関連性はあるが、現実に全く原発に関係していない専門家でさえ、この状況に関わっていかないとどうにもならないという認識であるということです。
梅雨になると日常的に雨が降り、現在の状態に大きな変化がなくても、福島県内の被曝量や内部被曝の危険性は高まるだけだと僕は思います。専門家の皆さんも、その前に何とかデータをはっきりさせて、必要な対応策を取らせたいと念願されているのだろうと思います。
(以下略)
『ジャーナリスト 木下黄太のブログ 「福島第一原発を考えます」』(2011-04-19)
http://blog.goo.ne.jp/nagaikenji20070927/e/bd3bedc94652e782ac085e41d6dba789
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます