★ 立川、葛飾に続く「言論表現の自由」圧殺を許すな! ★
最高裁は「表現そのものを処罰すること」の憲法適合性を判断せよ!
■□■ 第7回最高裁要請行動11月2日(火)9:45最高裁東門集合 ■□■
◎ 板橋高校卒業式事件・顛末記<19>
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「ナナカマド」 《撮影:佐久間市太郎(北海道白糠定、札幌南定、数学科教員)》
3月26日のあと、小康状態が訪れる。
公安は、関係者の事情聴取を行い、供述調書を積み重ねていく。
3月末には、TBSが報道特集で東京の君が代問題を取り上げる。
板橋高校で撮影した、土屋の発言、Fのコピーの説明、5秒の呼びかけ、退出も報道された。
三月の卒業式も終わり、東京都で200名近くの不起立教員が出て終了した。
次々とそれらの事情聴取と処分が発令されていく。
「公安は忘れた頃にやって来る」・・・やって来た。
5月も後半、卒業式から2カ月たって、Fの埼玉県北部の家まで公安はやって来た。
世間知らずが、もう来ないだろうと緩みきった神経になってるところを急襲された。
もう30年前になるだろうか。
この街に引っ越して、二階から茫漠たるたんぼを見ていたら遠くからスクーターに乗ったお巡りさんがやって来た。在宅者調査というのか、それ以来だ。
おっと違う。 もうひとつあった。
駅から家まで4キロ余の田んぼの中を自転車で通ってた頃、夜道で自転車を引いてる人にぶつかりそうになったことがあった。
灯火をつけると重くなるので、滅多に人が通らぬ道を無灯火で突っ走っていたからである。
その人は、「ぎゃあー」と言った。 驚いて見ると女子高校生らしい。
「おどかせて、ごめんなさい」と言ったが、事態は想像を超えていた。
口のまわりに粘着テープの切れはしがまつわりつき様子が変だ。
「どうしたんだ」と聞いたら、しばらくして落ち着き話し出した。
ちょっと前にこの先の小川のとこで小さな橋の下に隠れていた男に襲われたというのだ。
私の自転車が電柱の電気に照らされて近づくのを見て、犯人は逃げていったらしい。
近くの農家まで連れて行って氏名・住所を言い、あとは頼んで帰宅した。
その事件の調査で警官が来訪したのである。
いろいろ聞かれた。 そのうち何か変だなと気づいた。
相手の警官は、私が犯人でないかと疑っての質問をし始めたのだ。
だから、30年間で、3度目の来訪となる。
朝、7時50分ごろ、どんどんどん「警視庁!」と怒鳴ってやって来た。
「板橋署でーす!」と言ったんじゃ、格好つかない。ここは一番、「警視庁!」とこなくちゃ。
「身柄は?」と聞くと、「それは、あとで」と言う。
自分の部屋に取って返し、ネットの「Fを応援する会」の投稿欄に「警察、来た!」と打ち込む。
それを見た人から人へ逮捕説が流布された。
そのころ、武蔵野の私立大学の警備員をやっていた。
定年退職後、都立青井高校で嘱託をやっていたのだが、1年過ぎた秋に、校長とぶつかって辞めざるをえない状況に陥ったのだ。
ことは、特別昇給にあった。 校長の出身教科、体育科の教員が抜擢されていた。
これに異議を唱え、ぶつかったのである。
辞表を提出し、相手の出方を覗った。
私に替る講師は取れないと踏んで、交渉する戦術であったが、校長は都教委に出向きあっさり次の講師を獲得してきた。
私の戦術間違いの全面敗北であった。
9月に辞めた途端、おやじが具合悪くなった。喉頭癌というのは凄いものだ。
のどに出来た腫瘍が日々大きくなっていく。おそろしいものだ。
「おやじは私にもうだめか」と聞いた。私は「もうだめだ」と答えた。
もっと、別の言い方があったのではないかと今にして思うが、どう言ったらいいのだろうか。
おやじは、伊予松山である。秋山兄弟の偉大な功績がおやじに凶をもたらした。
12人兄弟、男6人、女6人の男のばっじに生まれた父は、松山中学から幼年学校に行かされた。
末は博士か大将かの、大将の道を選ばされたのであった。
戦後、私に大学へ行きたかったとふと漏らした。
士官学校から、実戦を経て陸軍大学校に行くこととなる。
家は男6人全部を軍に差し出した。
愛媛新聞で誉められ、「軍人誉の家」なる貼り紙を軒下にもらった。
親父が最後、頭がごちゃごちゃになって、夜、救急ブザーをのべつ幕なし押すようになる。
看護婦は弱って車椅子に乗せ、看護センターに置いた。
親父はそこで明け方まで、くねくねした判読困難な字で嘆願書を認めた。
大要は次のとおり。
「長男K(私のこと)は、悪い子ではありません。金鵄勲章をもらっております。なにとぞ釈放お願い申し上げます」
金鵄勲章をもらったのは、自分である。
Kが昔、学生運動に咬んでいていて、心配していたのであろう。
親父が1月に亡くなって、その5月に家宅捜索を受けることになる。
パソコンに、「警察、来た」と打ち込んで、さてどうしようと考えた。
初体験であるから、どうしていいか分らない。今度来たら、まともな対応が出来るであろうが・・・。
ぐずぐずしていると、「ドア、蹴破るぞ!」という、のち分ったが、板橋署警備部、警部補・渡辺の声が響く。
とにかく、携帯を処理せねばならないだろう。関係ないとは言え、関連先と認定され他に類が及ぶことだけは避けねばならない。
うろうろして、洗濯機の中に入れたりしていたが、最終、庭の小さな池に放り込むことにした。
池の金魚と鮒に餌をやるふりをして、食パンの6枚切りの1枚に携帯を包み、池の端からそっと携帯を水中に没し去らせた。
家宅捜索の実行兵を表に待たせての金魚餌やりというのも、あまりないのではないかと後にして思う。
さて、連中は侵宅して、この携帯にこだわった。「携帯は、どこだ!」と何度も聞いた。
部屋から立ちあがって、目を庭に転じると、水のうえ、パン1枚がぼわっと浮かんでいる。
「あのパンは何だ!」と言われそうで、とても弱った記憶がある。
家宅捜索の最大の留意点は、「捜索令状」である。
読んでいるともういいだろうと取り上げる。
取られまいと紙を引っ張ると裂けてしまう。何に該当するのだろう。「公文書棄損罪」かなんかでやられる。
講演会で会った、鈴木邦男がどこかに書いていた。彼の正体はよく分らない。
「おい、右翼、飲みに行こう!」と言ったら「右翼じゃない!」とか何とか言って、怒っていた。
二階の敷いてある布団を持ち上げたのにはまいった。最初、携帯をそこに隠そうかと思ったのを思い出したからである。
洋服ダンスの私の背広のポケットのひとつひとつに手を差し込んだ。
「お茶出しましょうか」と言ったら、「要らない」と言う。
途中、あの威張っていた男が、もじもじし出して「トイレ借りていいでしょうか」と言う。
その後は、大人しく作業をしていた。捜索に来るなら、トイレぐらい事前に行っておけと捜索マニアルに書いておくべきであろう。それとも今の私みたいに前立腺不全なのか。
二時間近く捜索して、結局、ネットの私関連のアドレスを書いた紙と、A書店からの葉書と、過去の文書綴りの薄い冊子の計三点を押収していった。
過去の文書の中のひとつは、高校3年の卒業時の文集の自分の部分であって、これはまったく自分にしか価値ない貴重なものである。このまま永久に没収なのであろうか。
今回の家宅捜索は、捜索したという事実の宣伝、みせしめの具だけの内容のまったくないものであった。
ところで肝心の捜索令状であるが、書き写すべきであった。法廷に出てこなかった。
曰く、「卒業式招待状を詐取し・・・云々・・」と読めた。
初期における公安の意図が明瞭なだけに、書写しなかったことが実に悔やまれる。
※ 顛末記の過去ログは、
顛末記(18) http://wind.ap.teacup.com/people/4484.html
顛末記(17) http://wind.ap.teacup.com/people/4460.html
顛末記(16) http://wind.ap.teacup.com/people/4415.html
顛末記(15) http://wind.ap.teacup.com/people/4393.html
顛末記(14) http://wind.ap.teacup.com/people/4367.html
顛末記(13) http://wind.ap.teacup.com/people/4323.html
顛末記(10)(11)(12)は欠番。
顛末記(9) http://wind.ap.teacup.com/people/4160.html
顛末記(8) http://wind.ap.teacup.com/people/4095.html
顛末記(7) http://wind.ap.teacup.com/people/4071.html
顛末記(6) http://wind.ap.teacup.com/people/4049.html
顛末記(5) http://wind.ap.teacup.com/people/4030.html
顛末記(4) http://wind.ap.teacup.com/people/4011.html
顛末記(3) http://wind.ap.teacup.com/people/3892.html
顛末記(2) http://wind.ap.teacup.com/people/3872.html
顛末記(1) http://wind.ap.teacup.com/people/3853.html
30回くらいの連載になる予定です。
最高裁は「表現そのものを処罰すること」の憲法適合性を判断せよ!
■□■ 第7回最高裁要請行動11月2日(火)9:45最高裁東門集合 ■□■
◎ 板橋高校卒業式事件・顛末記<19>
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「ナナカマド」 《撮影:佐久間市太郎(北海道白糠定、札幌南定、数学科教員)》
3月26日のあと、小康状態が訪れる。
公安は、関係者の事情聴取を行い、供述調書を積み重ねていく。
3月末には、TBSが報道特集で東京の君が代問題を取り上げる。
板橋高校で撮影した、土屋の発言、Fのコピーの説明、5秒の呼びかけ、退出も報道された。
三月の卒業式も終わり、東京都で200名近くの不起立教員が出て終了した。
次々とそれらの事情聴取と処分が発令されていく。
「公安は忘れた頃にやって来る」・・・やって来た。
5月も後半、卒業式から2カ月たって、Fの埼玉県北部の家まで公安はやって来た。
世間知らずが、もう来ないだろうと緩みきった神経になってるところを急襲された。
もう30年前になるだろうか。
この街に引っ越して、二階から茫漠たるたんぼを見ていたら遠くからスクーターに乗ったお巡りさんがやって来た。在宅者調査というのか、それ以来だ。
おっと違う。 もうひとつあった。
駅から家まで4キロ余の田んぼの中を自転車で通ってた頃、夜道で自転車を引いてる人にぶつかりそうになったことがあった。
灯火をつけると重くなるので、滅多に人が通らぬ道を無灯火で突っ走っていたからである。
その人は、「ぎゃあー」と言った。 驚いて見ると女子高校生らしい。
「おどかせて、ごめんなさい」と言ったが、事態は想像を超えていた。
口のまわりに粘着テープの切れはしがまつわりつき様子が変だ。
「どうしたんだ」と聞いたら、しばらくして落ち着き話し出した。
ちょっと前にこの先の小川のとこで小さな橋の下に隠れていた男に襲われたというのだ。
私の自転車が電柱の電気に照らされて近づくのを見て、犯人は逃げていったらしい。
近くの農家まで連れて行って氏名・住所を言い、あとは頼んで帰宅した。
その事件の調査で警官が来訪したのである。
いろいろ聞かれた。 そのうち何か変だなと気づいた。
相手の警官は、私が犯人でないかと疑っての質問をし始めたのだ。
だから、30年間で、3度目の来訪となる。
朝、7時50分ごろ、どんどんどん「警視庁!」と怒鳴ってやって来た。
「板橋署でーす!」と言ったんじゃ、格好つかない。ここは一番、「警視庁!」とこなくちゃ。
「身柄は?」と聞くと、「それは、あとで」と言う。
自分の部屋に取って返し、ネットの「Fを応援する会」の投稿欄に「警察、来た!」と打ち込む。
それを見た人から人へ逮捕説が流布された。
そのころ、武蔵野の私立大学の警備員をやっていた。
定年退職後、都立青井高校で嘱託をやっていたのだが、1年過ぎた秋に、校長とぶつかって辞めざるをえない状況に陥ったのだ。
ことは、特別昇給にあった。 校長の出身教科、体育科の教員が抜擢されていた。
これに異議を唱え、ぶつかったのである。
辞表を提出し、相手の出方を覗った。
私に替る講師は取れないと踏んで、交渉する戦術であったが、校長は都教委に出向きあっさり次の講師を獲得してきた。
私の戦術間違いの全面敗北であった。
9月に辞めた途端、おやじが具合悪くなった。喉頭癌というのは凄いものだ。
のどに出来た腫瘍が日々大きくなっていく。おそろしいものだ。
「おやじは私にもうだめか」と聞いた。私は「もうだめだ」と答えた。
もっと、別の言い方があったのではないかと今にして思うが、どう言ったらいいのだろうか。
おやじは、伊予松山である。秋山兄弟の偉大な功績がおやじに凶をもたらした。
12人兄弟、男6人、女6人の男のばっじに生まれた父は、松山中学から幼年学校に行かされた。
末は博士か大将かの、大将の道を選ばされたのであった。
戦後、私に大学へ行きたかったとふと漏らした。
士官学校から、実戦を経て陸軍大学校に行くこととなる。
家は男6人全部を軍に差し出した。
愛媛新聞で誉められ、「軍人誉の家」なる貼り紙を軒下にもらった。
親父が最後、頭がごちゃごちゃになって、夜、救急ブザーをのべつ幕なし押すようになる。
看護婦は弱って車椅子に乗せ、看護センターに置いた。
親父はそこで明け方まで、くねくねした判読困難な字で嘆願書を認めた。
大要は次のとおり。
「長男K(私のこと)は、悪い子ではありません。金鵄勲章をもらっております。なにとぞ釈放お願い申し上げます」
金鵄勲章をもらったのは、自分である。
Kが昔、学生運動に咬んでいていて、心配していたのであろう。
親父が1月に亡くなって、その5月に家宅捜索を受けることになる。
パソコンに、「警察、来た」と打ち込んで、さてどうしようと考えた。
初体験であるから、どうしていいか分らない。今度来たら、まともな対応が出来るであろうが・・・。
ぐずぐずしていると、「ドア、蹴破るぞ!」という、のち分ったが、板橋署警備部、警部補・渡辺の声が響く。
とにかく、携帯を処理せねばならないだろう。関係ないとは言え、関連先と認定され他に類が及ぶことだけは避けねばならない。
うろうろして、洗濯機の中に入れたりしていたが、最終、庭の小さな池に放り込むことにした。
池の金魚と鮒に餌をやるふりをして、食パンの6枚切りの1枚に携帯を包み、池の端からそっと携帯を水中に没し去らせた。
家宅捜索の実行兵を表に待たせての金魚餌やりというのも、あまりないのではないかと後にして思う。
さて、連中は侵宅して、この携帯にこだわった。「携帯は、どこだ!」と何度も聞いた。
部屋から立ちあがって、目を庭に転じると、水のうえ、パン1枚がぼわっと浮かんでいる。
「あのパンは何だ!」と言われそうで、とても弱った記憶がある。
家宅捜索の最大の留意点は、「捜索令状」である。
読んでいるともういいだろうと取り上げる。
取られまいと紙を引っ張ると裂けてしまう。何に該当するのだろう。「公文書棄損罪」かなんかでやられる。
講演会で会った、鈴木邦男がどこかに書いていた。彼の正体はよく分らない。
「おい、右翼、飲みに行こう!」と言ったら「右翼じゃない!」とか何とか言って、怒っていた。
二階の敷いてある布団を持ち上げたのにはまいった。最初、携帯をそこに隠そうかと思ったのを思い出したからである。
洋服ダンスの私の背広のポケットのひとつひとつに手を差し込んだ。
「お茶出しましょうか」と言ったら、「要らない」と言う。
途中、あの威張っていた男が、もじもじし出して「トイレ借りていいでしょうか」と言う。
その後は、大人しく作業をしていた。捜索に来るなら、トイレぐらい事前に行っておけと捜索マニアルに書いておくべきであろう。それとも今の私みたいに前立腺不全なのか。
二時間近く捜索して、結局、ネットの私関連のアドレスを書いた紙と、A書店からの葉書と、過去の文書綴りの薄い冊子の計三点を押収していった。
過去の文書の中のひとつは、高校3年の卒業時の文集の自分の部分であって、これはまったく自分にしか価値ない貴重なものである。このまま永久に没収なのであろうか。
今回の家宅捜索は、捜索したという事実の宣伝、みせしめの具だけの内容のまったくないものであった。
ところで肝心の捜索令状であるが、書き写すべきであった。法廷に出てこなかった。
曰く、「卒業式招待状を詐取し・・・云々・・」と読めた。
初期における公安の意図が明瞭なだけに、書写しなかったことが実に悔やまれる。
※ 顛末記の過去ログは、
顛末記(18) http://wind.ap.teacup.com/people/4484.html
顛末記(17) http://wind.ap.teacup.com/people/4460.html
顛末記(16) http://wind.ap.teacup.com/people/4415.html
顛末記(15) http://wind.ap.teacup.com/people/4393.html
顛末記(14) http://wind.ap.teacup.com/people/4367.html
顛末記(13) http://wind.ap.teacup.com/people/4323.html
顛末記(10)(11)(12)は欠番。
顛末記(9) http://wind.ap.teacup.com/people/4160.html
顛末記(8) http://wind.ap.teacup.com/people/4095.html
顛末記(7) http://wind.ap.teacup.com/people/4071.html
顛末記(6) http://wind.ap.teacup.com/people/4049.html
顛末記(5) http://wind.ap.teacup.com/people/4030.html
顛末記(4) http://wind.ap.teacup.com/people/4011.html
顛末記(3) http://wind.ap.teacup.com/people/3892.html
顛末記(2) http://wind.ap.teacup.com/people/3872.html
顛末記(1) http://wind.ap.teacup.com/people/3853.html
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