--------------------------------------------------------------------------------
2005年1月9日(日曜日) 喪章
--------------------------------------------------------------------------------
家は本で潰れそうだが、一日三十分の散歩を。
白川静氏の日常である。95歳になる。
「漢字」から逆に「歴史」が見えてくるようになったという。戦後はいわゆる文献だけでなく、殷墟からでた甲骨文字、青銅器にかかれた文字などを研究、その独自な解釈をまとめたのが「字統」以下三部作である。
資料を集め、徹底的にトレース(書き写す、なぞる)することでその時代の人たちの生活が見えてくるという。
口はくちではなく、神にささげる祝辞を入れる容器である。祝辞を入れ、そこに「辛」、針をさして神に誓うのである。
そう考えると日本列島に「字」が発生しなかったのは、「神」の不在であったということになる。・・・金銀、宝物を隠匿して聖域となし、神という怖れを創造して人々を畏怖させ近寄らせない。・・・。
そういうことなのか。これまた頓珍漢な私のあさはかな邪推か。
白川氏の師、狩野直喜先生はドイツ軍によってパリが陥落した時、モーニングに喪章を付けて日佛会館に弔問に出掛けられたという。
文化勲章授与式を何故か欠席された白川静氏は、いつ喪章を付けて何処に出掛けられるのであろうか。
--------------------------------------------------------------------------------
2005年1月8日(土曜日) 狂狷
--------------------------------------------------------------------------------
走り回っていての人生、ふと止まると何とももの凄い宝の山に気付かなかったことに呆然とする。
音楽にしても絵画にしてもあらゆる分野で人は素晴らしいことを成し遂げている。その宝の山に足踏み入れることなく齷齪と時間を浪費してきたことに我ながら呆れ果てる。所詮、お粗末な人間であったということか。
それはさておき、「道」という字は、首を持って進むなる意味とは愕然とした。確かに「首」だ。道を究めるとは、多くの首を手にして驀進することなりや。道が作られることによって、世界は虐殺の歴史に入ったのか。
白川静とは見事な名である。女性かと思っていた。暇ができたらじっくり読んでみよう。
漢字の意味を知らずに何十年も暮らしてきた。恐るべき怠慢であった。3200年前のト辞を日本語で読むことが出来るという。東洋の文化圏、伝統の凄みを思う。
「儒」とは雨乞う人のこと、雨降らずば呪術者、儒者は焚殺される。
戦後の軟弱な時代に人生の大半を過ごした我が身の薄っぺらさをつくづくと実感する。歴史は、世界は激しく苛酷であったのだ。せめて「狂狷」たらざらんか。
--------------------------------------------------------------------------------
2005年1月7日(金曜日) 権力と民衆
--------------------------------------------------------------------------------
梅原猛氏が最近の世相を危惧して、この間発言している。
梅原氏と言えば一時権力側の人間と思われていた。その氏にしてと言う言い方は失礼であろう。逆に氏は、いわゆるリベラル左翼の不甲斐なさを嘆いているようだ。
この前、ある方からメールを戴いた。
「権力は絶対的に悪で、民衆は常に善なのか(肯定されるべきものなのか)?いつか返事が聞きたいものです。私の人付き合いの悪いのはここで躓くからです・・・」、と。
答えにならない答えをこの場を借りてしよう。
権力といってもそれを構成するのは人間である。その人間集団がファッショ的体制下にある時は、もはや人間の顔を持たない。すなわちそのような権力は絶対的に悪である。
権力が人間的な人々によって構成されている部分があるとしたらその権力は悪とは言えない。
民衆についても同様である。悪しき権力と一体化することによって自己を表象せんとする民衆は、絶対的に悪である。
人生の刻苦の中で、悪しき権力の抑圧を肌で感じている民衆は常に肯定されるべきものである。
人は権力と同様、その時どのような言動を取るかによって、その時点においてのみ評価される。
2005年1月9日(日曜日) 喪章
--------------------------------------------------------------------------------
家は本で潰れそうだが、一日三十分の散歩を。
白川静氏の日常である。95歳になる。
「漢字」から逆に「歴史」が見えてくるようになったという。戦後はいわゆる文献だけでなく、殷墟からでた甲骨文字、青銅器にかかれた文字などを研究、その独自な解釈をまとめたのが「字統」以下三部作である。
資料を集め、徹底的にトレース(書き写す、なぞる)することでその時代の人たちの生活が見えてくるという。
口はくちではなく、神にささげる祝辞を入れる容器である。祝辞を入れ、そこに「辛」、針をさして神に誓うのである。
そう考えると日本列島に「字」が発生しなかったのは、「神」の不在であったということになる。・・・金銀、宝物を隠匿して聖域となし、神という怖れを創造して人々を畏怖させ近寄らせない。・・・。
そういうことなのか。これまた頓珍漢な私のあさはかな邪推か。
白川氏の師、狩野直喜先生はドイツ軍によってパリが陥落した時、モーニングに喪章を付けて日佛会館に弔問に出掛けられたという。
文化勲章授与式を何故か欠席された白川静氏は、いつ喪章を付けて何処に出掛けられるのであろうか。
--------------------------------------------------------------------------------
2005年1月8日(土曜日) 狂狷
--------------------------------------------------------------------------------
走り回っていての人生、ふと止まると何とももの凄い宝の山に気付かなかったことに呆然とする。
音楽にしても絵画にしてもあらゆる分野で人は素晴らしいことを成し遂げている。その宝の山に足踏み入れることなく齷齪と時間を浪費してきたことに我ながら呆れ果てる。所詮、お粗末な人間であったということか。
それはさておき、「道」という字は、首を持って進むなる意味とは愕然とした。確かに「首」だ。道を究めるとは、多くの首を手にして驀進することなりや。道が作られることによって、世界は虐殺の歴史に入ったのか。
白川静とは見事な名である。女性かと思っていた。暇ができたらじっくり読んでみよう。
漢字の意味を知らずに何十年も暮らしてきた。恐るべき怠慢であった。3200年前のト辞を日本語で読むことが出来るという。東洋の文化圏、伝統の凄みを思う。
「儒」とは雨乞う人のこと、雨降らずば呪術者、儒者は焚殺される。
戦後の軟弱な時代に人生の大半を過ごした我が身の薄っぺらさをつくづくと実感する。歴史は、世界は激しく苛酷であったのだ。せめて「狂狷」たらざらんか。
--------------------------------------------------------------------------------
2005年1月7日(金曜日) 権力と民衆
--------------------------------------------------------------------------------
梅原猛氏が最近の世相を危惧して、この間発言している。
梅原氏と言えば一時権力側の人間と思われていた。その氏にしてと言う言い方は失礼であろう。逆に氏は、いわゆるリベラル左翼の不甲斐なさを嘆いているようだ。
この前、ある方からメールを戴いた。
「権力は絶対的に悪で、民衆は常に善なのか(肯定されるべきものなのか)?いつか返事が聞きたいものです。私の人付き合いの悪いのはここで躓くからです・・・」、と。
答えにならない答えをこの場を借りてしよう。
権力といってもそれを構成するのは人間である。その人間集団がファッショ的体制下にある時は、もはや人間の顔を持たない。すなわちそのような権力は絶対的に悪である。
権力が人間的な人々によって構成されている部分があるとしたらその権力は悪とは言えない。
民衆についても同様である。悪しき権力と一体化することによって自己を表象せんとする民衆は、絶対的に悪である。
人生の刻苦の中で、悪しき権力の抑圧を肌で感じている民衆は常に肯定されるべきものである。
人は権力と同様、その時どのような言動を取るかによって、その時点においてのみ評価される。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます