▼ 60周年をむかえる教員のレッド・パージ~都立高校の場合(2)
▼ 米軍の空襲で学び舎を失った第三高女(現駒場高校)
第三高等女学校は麻布にありました。1945年5月24日午前1時30分からの焼夷弾攻撃によって体育館などを残して校舎は焼け落ちました(5月25~26日に再度の空襲で麻布一帯は壊滅)。
焼け跡のあちこちでの青空教室、体育館の2階更衣室を畳敷きにして授業をはじめました。つづいて養生館(有栖川公園内の高松宮記念館)と東洋永和女学校(敗戦後英和にもどす)と南山国民学校を間借りして分散授業をしています。生徒の苦しみは、当時の先生の文章でよく分かります。
『…空襲警報も勤労動顔も女生徒たちにとっては、必ずしも激しい苦痛の対象ではなく、むしろ若さで健気に乗り切っていた。しかし、それも学校あればこそである。よりどころとなるべき教室のないつらきは筆舌に尽くしがたく、第三それ自体の存亡にも関わる危機に立たされていた。…教師は今はやりのウォーキングよろしく、次の授業に遅れないようにせっせと歩く、途中で反対コースの先生にお会いして…』
生徒は、「トイレの絶対数の不足によるとんでもない状況」「国語で乾先生が樋ロー葉日記を朗読され皆は筆記して教科書にした」などと書いていますが、彼女たちは、放課後、体育館に行きコーラスに時を過ごし、音楽祭も開いています。
ところが、1946年度の入学式を養生館で行ってまもなく(4月末)、GHQは養生館を接収すると通告(中華民国が使用)してきました。生徒たちは机と椅子をもって、体育館への長い行列をつくりましたが、しばらく休校にせざるをなくなりました。
5月8日からは、近所の笄(こうが)国民学校を借りて授業を再開しましたが、このまま校舎がないと廃校の懸念ありとの噂も流れてきました。
▼ 分会を作り食糧メーデーに参加
教職員レッド・パージ30周年記念刊行会編『三十余年の星霜を生きて』に寄せた乾先生の文章から長くなりますが、分会づくり、食糧メーデー参加などよく分かりますので、引用します。
戦火に学校(職場)を焼かれ、家を焼かれ、自分の生徒・同輩を空襲で失って、敗戦をむかえた。
その焼けあとにたって、とめどなく涙が流れた。戦争は、一体だれがはじめたのか、何故おこるのか、多くの若人の生命を戦場の露と消えさせ、数え切れない人の財産を無条件に焼きつくしてしまって何の保証もない。こんなことが許されていいものか。怒りが胸をつき上げてきた。
生徒と顔を合わすのも、つらかった。洗礼を受けてキリスト教の学校へでもゆこうかとも思った。しかし、生徒も辛いのだ。やっはり生徒とともに学んでゆこうと決心した。この焼けあとに聖書の一節を説くだけの牧師の言葉には魅力を感じなかった。
組合作りの会合に誘われたのは、そんな時であった。翌年の1月のある日、麻布の小学校の先生がたから、南山小学校で組合の話がありますからと誘われた。教務主任が先にたって、ききにゆこうということで出かけた。
会場の教室の後ろの方から入って、低い椅子に腰を下ろした。前の入りロの方に何人か座っていた。小学校の先生と我々女学校の教師、それにちょっとタイプのちがう何人かの人がいた。ところが、この人たちは皆だまったままで座りこんでいた。これでは話し合いにならないと思い、つい手を挙げてしまった。
「大学の先生でも、幼稚園の保母さんでも、小学校の先生でも、女学校の教師でも、たべるのに困っているという点では、同じではありませんか」
これがきっかけとなって話し合いはすすんだ。
2・3日すると、占領軍の司令部の教育課から呼び出しがあって、とうとう組合作りに引っぱり出されてしまった。
神田駅で降りて、神田の神竜小学校へいった。その頃、東京は銀座線の地下鉄と国電だけが動いていた。あとは歩かなければならなかった。
世田谷の工藤先生、南多摩の大熊先生、それに私の三人が、内幸町の教育課のあるNHKへゆく事になった。
ウィードという恰福のいい女の中尉さんがその担当であった。中尉さんは、「あなたを校長とします。私を平教員とします。二人の意見が違います。意見のちがった人があって、はじめて正しい教育が行われます。そのために、あなたがたは教員組合をお作りなさい。その第一段階として、女の先生がたに組合を作る必要を語る放送をしなさい」というのであった。
神竜小学校にもどり、ローソクの光をたよりに三人で文をねり、分担を決め、期日に録音をとった。1946年2月4日に放送された。
麻布では麻布の教員組合を作り、婦人部も結成して、南山の窪田みつ先生が、先輩ということで挨拶をされた。
組合作りに神竜小学校へいくようになってから、色々な事情を知った。小学校の先生の給料が、中等学校の先生の半分であり、配給を受けるのがやっとで、三日も食事をせずに寝ている人もいた。「自分はがまんするが、子供がなくのにはたえられない」。私達はその日、職場にかえって、お米をすこしずつ集め、困っている先生がたにおくった。だが、それは焼け石に水だ。生活を守るために、そして、教室に先生をおくるために、組合作りをしなければならないと、心に固くきめるのだった。
学校では、有志が集まって、学校の民主化と組合作りを話し合った。御前先生と私が、校長さんを説得する事になり、御前さんは理論面から、私は具体的な例をあげて説明した。戦争協力の校長さんに、民主化の先頭にたつように誘った。この時、全職員が組合に参加した。
5月1日、はじめてメーデーに参加した。数名の有志だけであった。所は皇居前広場である。30万の人が、自分の意志で行進する姿をはじめて見た。号令によって動かされるのはない、私は感激した。
その頃の東京は、完全な焼け野原である。人ロは少ない。校舎のない学校は廃校になる。そんなうわさが耳に入った。私どもにはショックだった。校長は、都がすべきものだという。
折も折、東京は戦後の混乱で、食料は少なく、配給も滞りがちである。あっても大豆のしぼりかす。やみ米の買えない人はどん底である。5月19日を期して食糧メーデーが計画された。その日に、戦災学校に校舎をよこせというプラカードを掲げてゆこうということに、職員会全会一致できまった。
その日、生徒を出す出さないは教師のロからは、すすめない事にした。だが、当日(5月19日)、「『われらに校舎をよこせ』とはだれが掲げるプラカードですか」とセーラー服姿の45名が参加してしまった。
朝日新聞に報道され、赤旗の歌も知らない私が、赤旗をうたう彼女とされてしまった。間もなく、保証人会がひらかれた。先生がお困りなら足代は保証人会で出す。デモに出てくれるな、との意見である。私は、自分で自分に必要なものを当局に要求できなくて自立した人間といえるか、という意味の発言をした。保証人会の会長が、今、この先生がたを追放したら、第三は右むきの学校ということになるがどうか、との言葉で、すべてをおさめてくださった。その人は三条武雄氏であった。
こうしたことがあって、都は、すぐ、駒場の今の場所を提供してくれた。校長の努力もあり、父兄の働きかけもあったと同時に、あのデモもきいたにちがいない。
乾先生はパージ後、書家として活動し、主婦の友から本を出し、映画も製作しました。2008年、私は秋田県大館市に花岡事件のあとを訪ねました。大戦末期に419人もの中国人労働者が無残に殺された中心地に、日中両民族不再戦友好を誓う碑が建てられていました(1980年)。案内して下さった方をはじめ多くの人々のカで市教委の勘所をはずした案を、きちんと修正させたものですが、この碑文は、乾須美書となっていました。彼女の想いに心を打たれました。
食糧メーデー前後の第三高女については、横山さんのお話を聞きましたが、彼女の文章を引用します。
戦後のひどい食糧難の中で、食糧メーデーが行われる事を知ったのはこんな時でした。再建されたばかりの教員組合も参加の方向でした。
「校舎よこせを訴えよう。必ず何らか道が開けるだろう」と確信して、職員会議で提案しました。日頃話べたを自認している私が、この時は「子どもたちのためにこそ、教師はあらゆる機会をとらえて訴えるべきではないか。校長先生にだけ任せていてよいのだろうか」と涙をうかべて訴えました。
列席の先生がたも仮住まいの不便さや学業の遅れを訴え涙を流すなど、感動的な職員会議でした。
そして全校生徒、全職員の参加がきまりました。その夜、このことを聞いたPTA幹部が校長の下へかけつけて来、翌日緊急職員会議が開かれました。生徒は有志、職員は全員参加と訂正されました。
5月19日食糧メーデー当日、終始首うなだれてデモの先頭に立った校長先生の姿を忘れることは出来ません。生徒たちといえば、当時女学校2年だった私のクラスの子どもたちは、上級生から詰問されてこわかったと訴えながらも全員参加。「名門都立第三高女、校舎よこせで参加」の記事が翌日の新聞をにぎわしました。
(続)
『私にとっての戦後ーそして都高教運動』(都高教退職者会 2010/5/15発行)より
▼ 米軍の空襲で学び舎を失った第三高女(現駒場高校)
第三高等女学校は麻布にありました。1945年5月24日午前1時30分からの焼夷弾攻撃によって体育館などを残して校舎は焼け落ちました(5月25~26日に再度の空襲で麻布一帯は壊滅)。
焼け跡のあちこちでの青空教室、体育館の2階更衣室を畳敷きにして授業をはじめました。つづいて養生館(有栖川公園内の高松宮記念館)と東洋永和女学校(敗戦後英和にもどす)と南山国民学校を間借りして分散授業をしています。生徒の苦しみは、当時の先生の文章でよく分かります。
『…空襲警報も勤労動顔も女生徒たちにとっては、必ずしも激しい苦痛の対象ではなく、むしろ若さで健気に乗り切っていた。しかし、それも学校あればこそである。よりどころとなるべき教室のないつらきは筆舌に尽くしがたく、第三それ自体の存亡にも関わる危機に立たされていた。…教師は今はやりのウォーキングよろしく、次の授業に遅れないようにせっせと歩く、途中で反対コースの先生にお会いして…』
生徒は、「トイレの絶対数の不足によるとんでもない状況」「国語で乾先生が樋ロー葉日記を朗読され皆は筆記して教科書にした」などと書いていますが、彼女たちは、放課後、体育館に行きコーラスに時を過ごし、音楽祭も開いています。
ところが、1946年度の入学式を養生館で行ってまもなく(4月末)、GHQは養生館を接収すると通告(中華民国が使用)してきました。生徒たちは机と椅子をもって、体育館への長い行列をつくりましたが、しばらく休校にせざるをなくなりました。
5月8日からは、近所の笄(こうが)国民学校を借りて授業を再開しましたが、このまま校舎がないと廃校の懸念ありとの噂も流れてきました。
▼ 分会を作り食糧メーデーに参加
教職員レッド・パージ30周年記念刊行会編『三十余年の星霜を生きて』に寄せた乾先生の文章から長くなりますが、分会づくり、食糧メーデー参加などよく分かりますので、引用します。
教え子を再び戦場に送るな
乾 須美
戦火に学校(職場)を焼かれ、家を焼かれ、自分の生徒・同輩を空襲で失って、敗戦をむかえた。
その焼けあとにたって、とめどなく涙が流れた。戦争は、一体だれがはじめたのか、何故おこるのか、多くの若人の生命を戦場の露と消えさせ、数え切れない人の財産を無条件に焼きつくしてしまって何の保証もない。こんなことが許されていいものか。怒りが胸をつき上げてきた。
生徒と顔を合わすのも、つらかった。洗礼を受けてキリスト教の学校へでもゆこうかとも思った。しかし、生徒も辛いのだ。やっはり生徒とともに学んでゆこうと決心した。この焼けあとに聖書の一節を説くだけの牧師の言葉には魅力を感じなかった。
組合作りの会合に誘われたのは、そんな時であった。翌年の1月のある日、麻布の小学校の先生がたから、南山小学校で組合の話がありますからと誘われた。教務主任が先にたって、ききにゆこうということで出かけた。
会場の教室の後ろの方から入って、低い椅子に腰を下ろした。前の入りロの方に何人か座っていた。小学校の先生と我々女学校の教師、それにちょっとタイプのちがう何人かの人がいた。ところが、この人たちは皆だまったままで座りこんでいた。これでは話し合いにならないと思い、つい手を挙げてしまった。
「大学の先生でも、幼稚園の保母さんでも、小学校の先生でも、女学校の教師でも、たべるのに困っているという点では、同じではありませんか」
これがきっかけとなって話し合いはすすんだ。
2・3日すると、占領軍の司令部の教育課から呼び出しがあって、とうとう組合作りに引っぱり出されてしまった。
神田駅で降りて、神田の神竜小学校へいった。その頃、東京は銀座線の地下鉄と国電だけが動いていた。あとは歩かなければならなかった。
世田谷の工藤先生、南多摩の大熊先生、それに私の三人が、内幸町の教育課のあるNHKへゆく事になった。
ウィードという恰福のいい女の中尉さんがその担当であった。中尉さんは、「あなたを校長とします。私を平教員とします。二人の意見が違います。意見のちがった人があって、はじめて正しい教育が行われます。そのために、あなたがたは教員組合をお作りなさい。その第一段階として、女の先生がたに組合を作る必要を語る放送をしなさい」というのであった。
神竜小学校にもどり、ローソクの光をたよりに三人で文をねり、分担を決め、期日に録音をとった。1946年2月4日に放送された。
麻布では麻布の教員組合を作り、婦人部も結成して、南山の窪田みつ先生が、先輩ということで挨拶をされた。
組合作りに神竜小学校へいくようになってから、色々な事情を知った。小学校の先生の給料が、中等学校の先生の半分であり、配給を受けるのがやっとで、三日も食事をせずに寝ている人もいた。「自分はがまんするが、子供がなくのにはたえられない」。私達はその日、職場にかえって、お米をすこしずつ集め、困っている先生がたにおくった。だが、それは焼け石に水だ。生活を守るために、そして、教室に先生をおくるために、組合作りをしなければならないと、心に固くきめるのだった。
学校では、有志が集まって、学校の民主化と組合作りを話し合った。御前先生と私が、校長さんを説得する事になり、御前さんは理論面から、私は具体的な例をあげて説明した。戦争協力の校長さんに、民主化の先頭にたつように誘った。この時、全職員が組合に参加した。
5月1日、はじめてメーデーに参加した。数名の有志だけであった。所は皇居前広場である。30万の人が、自分の意志で行進する姿をはじめて見た。号令によって動かされるのはない、私は感激した。
その頃の東京は、完全な焼け野原である。人ロは少ない。校舎のない学校は廃校になる。そんなうわさが耳に入った。私どもにはショックだった。校長は、都がすべきものだという。
折も折、東京は戦後の混乱で、食料は少なく、配給も滞りがちである。あっても大豆のしぼりかす。やみ米の買えない人はどん底である。5月19日を期して食糧メーデーが計画された。その日に、戦災学校に校舎をよこせというプラカードを掲げてゆこうということに、職員会全会一致できまった。
その日、生徒を出す出さないは教師のロからは、すすめない事にした。だが、当日(5月19日)、「『われらに校舎をよこせ』とはだれが掲げるプラカードですか」とセーラー服姿の45名が参加してしまった。
朝日新聞に報道され、赤旗の歌も知らない私が、赤旗をうたう彼女とされてしまった。間もなく、保証人会がひらかれた。先生がお困りなら足代は保証人会で出す。デモに出てくれるな、との意見である。私は、自分で自分に必要なものを当局に要求できなくて自立した人間といえるか、という意味の発言をした。保証人会の会長が、今、この先生がたを追放したら、第三は右むきの学校ということになるがどうか、との言葉で、すべてをおさめてくださった。その人は三条武雄氏であった。
こうしたことがあって、都は、すぐ、駒場の今の場所を提供してくれた。校長の努力もあり、父兄の働きかけもあったと同時に、あのデモもきいたにちがいない。
乾先生はパージ後、書家として活動し、主婦の友から本を出し、映画も製作しました。2008年、私は秋田県大館市に花岡事件のあとを訪ねました。大戦末期に419人もの中国人労働者が無残に殺された中心地に、日中両民族不再戦友好を誓う碑が建てられていました(1980年)。案内して下さった方をはじめ多くの人々のカで市教委の勘所をはずした案を、きちんと修正させたものですが、この碑文は、乾須美書となっていました。彼女の想いに心を打たれました。
食糧メーデー前後の第三高女については、横山さんのお話を聞きましたが、彼女の文章を引用します。
長谷川靖子
戦後のひどい食糧難の中で、食糧メーデーが行われる事を知ったのはこんな時でした。再建されたばかりの教員組合も参加の方向でした。
「校舎よこせを訴えよう。必ず何らか道が開けるだろう」と確信して、職員会議で提案しました。日頃話べたを自認している私が、この時は「子どもたちのためにこそ、教師はあらゆる機会をとらえて訴えるべきではないか。校長先生にだけ任せていてよいのだろうか」と涙をうかべて訴えました。
列席の先生がたも仮住まいの不便さや学業の遅れを訴え涙を流すなど、感動的な職員会議でした。
そして全校生徒、全職員の参加がきまりました。その夜、このことを聞いたPTA幹部が校長の下へかけつけて来、翌日緊急職員会議が開かれました。生徒は有志、職員は全員参加と訂正されました。
5月19日食糧メーデー当日、終始首うなだれてデモの先頭に立った校長先生の姿を忘れることは出来ません。生徒たちといえば、当時女学校2年だった私のクラスの子どもたちは、上級生から詰問されてこわかったと訴えながらも全員参加。「名門都立第三高女、校舎よこせで参加」の記事が翌日の新聞をにぎわしました。
『30余年の星霜を生きて』よりの引用
(続)
『私にとっての戦後ーそして都高教運動』(都高教退職者会 2010/5/15発行)より
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