
意味は文字通り、「一切」、つまりこの世のすべてのものは、「皆苦」、みな苦であるということ。これを知ることは仏教の第一歩と言われている(らしい)。
儂、仏教の勉強を始めて最初にこの言葉を知った時、「確かに世の中苦しいこともあるけど、楽しいこともあるよね?」と思った。
その後、この「苦」という言葉の意味は「苦しい」ではなく、「思い通りにならない」ということ、つまり「一切皆苦」とは「世の中は思い通りにならない」ということだと知った。
ながい眼で見ていてごらん、いまにきっとくるしみとなる。結局、どんなたのしみでも歓楽きわまって、かえって哀情多き世の中だ。陰のない物質はない。光があるから暗がある。楽しいというても結局はこの楽しさはながくつづくものじゃない。楽しいことは苦しいことなんだ。楽しいと思うから、そのたのしみに執著が湧いてくる、良いことをただ一時の良いこととしておれば良いのに、人間の業執からこれに執著するからあとが苦しい。「むかしはものを思わざりけり」というように、確かに楽しんだから、うれしかったから、おもしろかったからいまはかえって執著している。結局は苦しいことだ。
講談社学術文庫 友松圓諦「法句経講義」P.374

ちなみにこの本は、昭和9年にラジオで放送された師の法句経の講義原稿を元に書籍化されたもの。
要するに、いつまでも「楽」を忘れずにそれに固執していると、いずれそれが消えた時、あるいはそれがずっと続けばもはや普通のことになり、「楽」と感じられなくなるから、結局は「苦」になるということなんだと思う。楽しいことも苦しいことも、執着せずにその時々で忘れてしまうことが大事なんだ。
今日なぜこれを書いたかと言うと、ここのところのぼあちゃんの調子のせいで、儂、心乱れることが多く、これはなんとかしないとイカンなと考えてた。そうしたら、このことを思い出したというわけ。
まず、自分のことでさえ思い通りにならないんだから、ましてやあの子のことが思い通りになるわけがない。
そして、あの子の元気と儂の元気がリンクしてる日が続いてるんだけど、これは、あの子が元気な日の事が頭に残り、それに執著しているからなんだなと、つくづく思った。
ぼあちゃんの飼育日誌にも何度か書いたように、一喜一憂しちゃダメだと自分に言い聞かせてはいるけど、これがなかなか難しい。でも、例え一喜一憂しても、その一喜や一憂をその日のうちに終わらせられるように頑張ればいいんだよな。
「たかがトカゲに、仏教まで持ち出して苦だの楽だのと、なんて大袈裟な」と思う方もいると思うけど、一旦我が家にお迎えした以上は、"たかがトカゲ"でも大事な家族の一員。だから儂にとっては決して大袈裟なんてことはない。それに、絶好の修行の機会でもあるわけで、こういう機会を与えてくれたぼあちゃんに感謝しなくちゃダメだと思うわけ。