普通、邪馬台国=ヤマタイコクと読む。しかし卑弥呼の後に共立された女王・台与の読みはトヨ。台をトと読む。この伝で邪馬台国を読むとヤマ・国となる。また邪馬台国に住む倭人の倭はヤマトとも読む。つまり、邪馬台国とはヤマト国のことであることに議論の余地はない。
そして倭人伝は対馬、一支(壱岐)、松ラ(松浦)、伊都(糸島)、奴国(博多)、不弥(宇美)と比定される北部九州の状況を正確に記述している。女王国の南には狗奴国がある、この狗奴国は熊襲のことで白川から南の現在の球磨郡あたりを本拠として南九州を治めていた。この狗奴国と女王国は敵対関係にあり、魏はそれを収めるために帯方郡から張政を送り込んできた。そして”卑弥呼以死大作塚”という記述になる。以死とは中国の歴史書の記述としては普通の死に方ではなく刑死、戦死、自死、殉職などの非業の死を意味し、卑弥呼の場合も自然死ではなくその政治状況から恐らく自死ではないかと森は推測する。
日本の古墳や弥生時代の遺跡からは銅鏡が多量に出土する。これに対し中国や朝鮮半島の墓からは1枚か2枚の銅鏡しか出ない。これは元々死後の世界で道具としての鏡が必要であろうとの理由で埋葬したわけだが、日本ではその意味付けが変容し、呪術的・権威付けなどの意味が付加され一つの墓から40枚などという大量の鏡が出土する。これは日本に特異的な状況なのである。
そして、重要なことは北部九州の弥生期の墓からは銅鏡が多く出土されるのに対し、近畿地方の弥生期の墓からは一枚も、一枚もですぞ!銅鏡は発掘されていない。そして、古墳時代になると一変して近畿の古墳から大量の銅鏡が出土するようになる。これは世界的にも珍しい鏡の大量埋葬をする連中が、古墳時代初期に北部九州から畿内へ移動した明確な証拠ではないか。畿内へ移動して王権を打ち立て古墳時代が始まった。ついでに言うと、畿内の弥生遺跡から出土する例の銅鐸だが、記紀には銅鐸の記述は一言もない。銅鐸は出雲族のものでヤマト族のものでは無いからだろう。
記紀にある神武東征の物語と考古学的事実は一致する。古墳時代は4世紀初頭に始まる。卑弥呼の没年が247年、3世紀中葉で卑弥呼を天照とするとその5代目の神武が畿内を平定するまで50-60年。天皇の平均在位年は15年程度なので年代的にほぼ一致する。
卑弥呼に始まる邪馬台国(ヤマト国)の物語は記紀のアマテラスから神武東征の話までに完全にかぶる。ただし、記紀の年代が神武を紀元前600年に持ってきてるところに無理がある。今も昔も役人は文書を捏造するのだ。日本の皇統の歴史を中国に伍するため、当時の役人が年代を詐称して欠史八代の天皇や寿命を120歳とか150歳とかの出まかせを織り込んでしまったのが悲劇の始まりだ。いったんついた嘘は元には戻せないから宇佐神宮の媛大神=卑弥呼=アマテラスを神功皇后と混ぜてしまうようなごまかしをしたり、いろいろ苦労してる。中国人は歴史書において年代詐称なんてやらないんだけどね
話しが混ざってしまったが森浩一先生のこの本は単に邪馬台国がどこにあったか?なんて観点ではなく倭人伝の分析を正確に分析していてして非常に興味深い。こんな本に出合えたのは幸いです。